喧嘩


 最近毎朝繰り広げられる母と雪音の口論。これを聞くのは何回目か。

 目覚ましの音で起きた俺は、1階で繰り広げられる喧嘩の声に、やれやれと重い身体を起こした。


「雪、もうおねーちゃんなんだから、そんな我儘言わないで頂戴」


「絶対嫌!ユキは修学旅行なんて行かないんだからっ!」


 雪音が頑なに拒んでいるもの。それは、セントマリア女学院の修学旅行だ。

 ブラコンの雪音にとって、この一週間俺と離れるというのが耐えられないらしい。

 かと言って、中学校の修学旅行なんて滅多に行けるものじゃないし、ある意味一生の思い出だ。

 それでも、雪音が首を縦に振らないのは、俺の怪我の所為だった。


 右肩の腱板断裂の退院から二週間が経過した。

 漸く三角巾の固定を寝る時のみ外して良い許可が下りた。しかし三ヶ月間スポーツ禁止、出来るだけ安静にした方がいいとのことだ。

 それと、雪音の修学旅行は全く関係ないのだが、雪音はちらちらとこちらを見てそれも言い訳にしようとしている。


「ひろちゃんだって、ユキが居ないと腕不便でしょう?」


「あのなぁ、勝手に俺を引き合いに出すな。修学旅行なんて一生に一回しかないんだ。行って来いよ。俺は別に雪音が居なくても困らねーし」


 つい「居なくても」なんて酷いことを言ってしまったせいで、朝っぱらから雪音のくしゃくしゃになった悲しい顔を見てしまった。

 

「ひろちゃん…ユキが居なくても困らないの……?」


 あぁ面倒くせぇ。

 大体、妹が四六時中くっついてる兄妹が何処にいるんだ。

 もう雪音だって14歳。立派な中学2年生だ。何時までも俺にこうやって執着されたら流石にウザイ。


「困らないだろ?だって母さんは居るんだし、飯の心配でもしてるわけ?」


「ひろちゃんと、一週間も離れたくない。ユキが居ない間に、ひろちゃんに何かあったら」


 全く。要するに、それが本音かよ。

 もうこうなったらこちらも奥の手を出すしかない。

 俺はうんざりしたようにため息をつくと、雪音をきっと睨み付けた。


「俺のせいで修学旅行に行かないって言うなら、雪音を嫌いになるぞ」


「……!」


 正直、嫌いとかそういう言葉はあまり使いたくない。が、ここは心を鬼にするしかない。

 想像通り、雪音は過剰に反応し、二重の眸に涙をためていた。

 声を殺して肩を震わせている雪音を見るのは辛い。けれども、此処までたたみかけたのに、今更引く訳にはいかないのだ。


「泣いたって今回はダメだ。泣き虫雪音の涙はもう見たくない。いいか?ちゃんと先生に修学旅行行きますって明日言えよ?じゃないと本当に口きかないからな」


「……」


 驚愕に目を丸くしている雪音からの返事はなかった。

 俺も学校に行く準備をする為、そのまま雪音の横を通過して洗面所へ足を向ける。



 俺は、この時初めて雪と「喧嘩」をしたことに気が付いた。



 今まで雪音とは本当によく仲良くやってきたと思う。

 田畑の話では、妹とは口を開くと喧嘩になるとかそういう話ばかり聞かされていた。

 俺達は喧嘩なんて無いのにな?と笑いながら彼の話を聞いていたが、それも俺がいつも雪を甘やかしていた所為かもしれない。

 遅いかも知れないけど、ここは「お兄ちゃん」として、雪音を中学生活の一大イベントに行かせないと。

 俺はいつもより30分も早くに学校へ行く準備をして、そのまま雪音と一言も会話しないまま家を出た。


 今日は雪音が作った弁当を持ってきていないので、俺は30分早く学校についたので、向かいにあるコンビニで昼飯を買って教室へ足を向けた。

 8時頃になって友人の田畑がおはよーと声をかけてくる。

 勿論、俺の様子が何処となく違う様子を察した田畑は、すぐに俺の目の前の席を陣取って座った。


「何かあったのか?」


「雪音と喧嘩した」


 端的にそれだけを言うと、なんだただの兄妹喧嘩かよ。と笑われる。

 しかし、事情が深刻だった分、事細かに経緯を説明すると、田畑は珍しく真剣な面持ちで俺の話を黙って聞いてくれた。


「まぁ、あれだ。弘樹はうちと違って喧嘩したこと無いなら、きちんと話した方がいいぞ?」


「それじゃあ俺が心を鬼にした意味無くない?」


「わっかんねぇぞ?雪ちゃん、思春期で難しい時期だろ?リストカットとかされたら怖いし」


 リストカット……

 俺は他人からそういう言葉を聞いて、思わず雪音が風呂場で泣きながら手首をカッターで切っている姿を思い浮かべてしまった。朝なのに背筋が凍り付く。


「そ、そんなことはしないと思うよ……脅かすなよ」


「だって、雪ちゃんはお前のこと大好きじゃん。『ひろちゃんに構ってもらえないなら、あたし死んじゃう!』とかならなきゃいいけど」


「笑えないし、微妙に似てて怖いから、ホントやめて……」


 田畑の言葉があまりにもリアル過ぎて、俺はその日一日何の授業をしたのか覚えていない。

 とにかく、早く家に帰ろう。帰って、雪音に「嫌い」と言ってしまった事を謝ろう。

 

 玄関の鍵を開け、リビングに足を向ける。すると、ソファーに雪音が突っ伏していた。

 朝のリストカットの話が脳裏を過ぎる。


「雪……?」


 近づいても、雪音から全く反応がない。

 まさかと思い、慌てて雪音の肩を掴む。仰向けになった彼女は青白い顔で完全に意識を失っていた。



 『ひろちゃんに構ってもらえないなら、あたし死んじゃう』



 おい、冗談じゃない。

 こんな後味の悪い思いなんてまっぴら御免だ。


「雪っ!?」


 救急車、と思いリビングにある親電話の受話器を取る。数分後到着した救急隊に雪音は無事に救われた。

 色々と事情を聞かれたが、帰って来た時点で彼女が倒れていたので、何時からなのか分からない。

 雪音が病院まで運ばれる間、俺はずっと焦点の定まらない顔でその少し冷たい手をぎゅっと握りしめていた。




「脱水ですね。頭の方は異常みられませんでした。」


 医者の診断に張りつめていた肩の力が抜ける。

 頭でも打ったのか、本当に自殺未遂でもしたのではないかと危惧したが、昨日からご飯も水も取らずに家でぼんやりしていたせいだという。

 青くなっていた雪音も、点滴をされて少しだけ顔色を取り戻していた。まだ意識は戻ってこないが。

 救急室で点滴治療されている雪音の隣に座り、俺は右手の三角巾を外して小さな手を両手でしっかり握りしめる。


「ごめんな……雪音」


 お互い嫌な思いをするくらいなら、喧嘩なんてしなければよかった。

 大事なかったから良かったものの、俺の帰宅が遅かったら、今頃雪音がどうなっていたか分からない。


「う……」


 手を握る力が強かったのかもしれない。一瞬だけ眉をひそめた雪音が、ゆっくり目を開けた。


「ひろ、ちゃん?」


「雪っ! ごめんな、雪音」


 眸からぽたりと水滴が溢れた。俺の顔の真下にいる雪音の頬にその雫がぱたぱたと落ちる。

 俺の涙を見た雪音は驚愕の余り、その大きな眸を更に丸め、俺の頬に両手を伸ばしてきた。


「ひろちゃん、ひどい顔」


 俺の涙で濡れた酷い顔を見て、雪音はクスクスと小さく笑う。男のくせに、鼻水垂らして泣くなんて久しぶりだった。

 俺の頬をするりと撫でた雪音の手が力なくベッドのシーツの上に再び落ちる。

 まだ本調子じゃないその顔は、俺に優しい笑顔を向けてくれた。


「ユキ、修学旅行行くよ」


「本当か?」


「ひろちゃんが、初めてユキの為に泣いてくれたから、一週間修行と思って行ってきます」


 俺の涙だけで、一週間の旅行を決めてくれたのは嬉しいが、喧嘩だけでこう病院送りにされてしまうのであれば、心臓が幾つあっても足りない。


 もう喧嘩はしないようにしよう。

 俺は、雪音の小さな手を握りしめながら、そう心に固く決めた。

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