0話~sideヒナツ~

「うわ、ひなっちゃん。ゴミの隣とか、かわいそ」

 虫唾の走るようなあだ名で呼ばれて、にっこり笑って振り返った。静まり返った教室に男子生徒数名の笑い声が下品に響いている。


「全然いやじゃないよ。これからよろしくね、有川くん」


「ひなっちゃん優しいわ~、よかったなゴミ」


 高校入学から二か月後の席替えで隣の席になった有川司はいじめをうけていた。クラスの全員が沈黙を決め込み、それを止めようとしない。誰も次のターゲットにはなりたくないのだ。この八メートル四方の国の神様は彼らだから。彼らに従わない者には罰が下される。

 それでも、私は悪人にはなりたくなくて、適当な言葉であしらった。きっと私は傍観者の中でも最も卑怯に違いない。

 



 私たちは、特別な会話も状況の変化もないまま日々を消費した。日を増すごとに、増えていく彼の生傷、陰っていく表情。私は気づいていていながらも、無視をし続けた。

 その日も、そのつもりだった。


 放課後の、一階の階段裏の物置き場。靴箱がある教室棟の反対側に位置するこの物置場に人通りはほとんどと言っていいほどない。そこに連れ込まれていく彼を私はただ見ていた。私には関係ない。傷つくのは怖い。

 ピロン。制服のポケットの中で携帯が鳴った。クラスのグループチャットだ。

「……」

 踵を返して帰ろうとしていた私を何かが押した。嫌悪感。不快感。罪悪感。偽善。さまざまな感情の入り混じった、もう一人の私の私がこのまま帰るのを許してはくれない。


「まだ、見ない振りをする気なの?」


 そう言われたような気がした。それでも、私だって好きで、それを黙って見ていたわけじゃない。

 泣きそうになりながら、土足で校内を走った。どう考えたって既に手遅れだった。でも、変えたい。変わりたい。そう願ってひた走った。


 きっと、私はパニックを起こしていたに違いないのだ。

 その目がその姿を捉えた。泥棒のように慎重に、彼らのいるその場所へと忍び寄る。あと、数歩。一気に駆けた。

 振り上げたスクールバッグ。七教科分の教科書が詰まっている。鈍い音が一発、頭を打ち付けられて倒れる主犯格の男子生徒。


「なにしてんだよ、クソ女っ!!」


 乾いた音と遅れて頬に痛みが走った。近くにいた一人の平手打ちだ。他の二人は倒れた男子の心配をして駆け寄った。幸か不幸か、頭から血を流しているものの意識はしっかりとあるらしい。二度目の一撃が飛んでくる。飛んでくるのは今度は平手じゃない。こぶしだ。思わず、強く目をつぶった。


「お前たち、何してる!」


 本当に、私は運がいい。

 いつもはこちら側の後者にはほとんど人はいないのに。怒鳴ったのは、学年主任。厳しいことで有名だ。

 やべえ。逃げろ。そう叫んだ男子生徒たちは倒れた一人を抱えて一目散に逃げ、教師は彼らを追う。


 有川司と私は、そこに取り残されてしまった。


 彼らのうちの一人が唯一置き忘れていった体操服の袋をひっつかんで、私はゆっくりと有川に近づいて、少し離れたところから右手につかんだ体操着を投げた。

「有川、これ着なよ」

 座り込む彼の傍らにはずたずたに切り裂かれた制服。有川は裸にされて写真を撮られ、それをクラスに拡散された。それが、今日の彼らの遊びだったらしい。

 いつもは君付けなのに呼び捨てしてしまったことに後悔しながら、彼が体操着を受け取るのを確認して、私は背を向ける。彼の着替え終えるのを布擦れの音とすすり泣きを聞きながらただ待っていた。


「榊さん、ひっ、ありがっ、とう」

 振り返ると、体操座りで膝を抱える有川がいた。


「有川、荷物は教室? 取りに行こうか?」

 有川は大丈夫、とその顔を膝にうずめたまま首を横に振った。


「榊さん、俺、どうしよう……」


「写真のこと?」


「俺、もう学校来れないよ」 



 

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