第5話

 同居している彼女に別れようと言うと、まぁ散々に喚き散らして、最後に涙を流しました。あの気丈だった女の人がね……

 そうしてほろりと一粒落としたかと思うと、後はわんわんと鳴きました。かつて見たことのない姿に私はつい「すまなかった。ずっと一緒にいよう」なんて言ってしまいそうになりましたけれど、口が裂けてもそんな事は言葉に出しちゃ駄目ですから、いやまぁ、黙るしかありませんでした。一声出せば、たちまち継続を匂わすような発言しかできなくなりそうでしたから。だからただ黙って、相手が「分かった」と言うまで根比べをしていました。だけど一時間もしない内に向こうが「出て行って」と言ってくれたので助かりました。聡明な彼女の事ですから、まぁ無理をして一緒にいても仕方がないと悟ったのでしょう。

 最後に息子と何か喋りたいと思いましたがそれこそ後ろ髪を引かれる。彼女に全てを押し付けるようで恥ずかしく思いましたが、私はその日の内に二人から離れ、元の家に帰りました。


 始め私は一人で全てを背負うつもりでしたがまずは説明をしなくてはなりませんでした。家の名義には私の名前が使われていたので、保証人となった借金が払えない場合はこの家が抵当として処分されます。というより、少しでも多く、早く返済する為に家の売却は半ば必須の事柄でした。車やなんかはなくともどうとでもなりますけれど、いきなり住む場所がなくなったらそれは大変な事です。ともかく頭を下げて、今後の生活について話をする必要がありました。




 久しぶりに見た家は変わっていませんでした。掃除が行き届いていて、ちゃんと綺麗に手入れがしてあって……この時私は、えらく感動いたしましたし、悲しくも思いました。私のいない間も、ずっと妻は家を大切にしていたんです。田上さん。貴方は「自分達が住む家なんだから」と言いたいでしょう。私も最初はそんな気持がありました。しかし違ったんですよ。私がうつむきながら、なんともしょうもなく背を丸めて玄関に向かっていくと、丁度庭の手入れをしていた妻と目が合ったんです。そしたらね、「おかえりなさい」と、微笑んでくれて、部屋に上げてもらって、茶を出してくれて……その間に世間話なんてして、どうにも耐えられなくなって、ついね、泣いてしまったんです。身勝手です。駄目な男です。その時にね。忘れていた妻との思い出が蘇ってきまして。何があってもこれからは裏切ってはならないと思ったんです。すると不思議なもので、消沈していた覇気がみるみるとまろび出てきまして、惨めな隠遁生活を送らなきゃいかんないかんなと覚悟していたのがひっくり返って俄然とした意欲に変わったんです。それでね田上さん。私は、どうしても、妻が手入れしてくれていた家が惜しくなりましてね。また仕事を始めたんです。これが最近の事。内容は簡単です。今の時代、インターネットっちゅうのがあるじゃないですか。それを使ってね。私の田舎の木や野菜。カブトムシやクワガタなんかを売るんです。受注してから届けるから在庫もそんなに必要ないし、商品そのものは売り場が限られている地元の人間から買うから設備投資も人件費もあまりいりません。また、足の速いものは近県の商店に卸すんです。そしたらね、借金はまだ返せてないんですけどなんとか生活ができるようになりました。


 ただね。娘にはやっぱり嫌われていました。当然です。親らしい事なんて何もしてやれなかったんだから。ましてや私は血の繋がった我が子よりも誰の種かも分からない……こう言うのは憚られるんですけど、他人に愛情を注いでいたんですからそれも当然でしょう。一度だけ会ったんですけれど、「二十年随分楽しかったでしょう」と言われました。それ以外は何も話していません。自立して家も出ていますからもう顔も合わせることはないと思います。

 何度も言いますけどね田上さん。全ては私が自分で蒔いた種。因果応報もいいところで、寂しがる権利すらないんですが、やはり心に刺さりました。歳のせいもあるんでしょうが、娘のその言葉を思い出す度に悔恨と自責の念が湧き上がってきて身体が震えるんです。謝りたいと。娘の為になんでもしてやりたいと思います。でもね。そんなものは自己満足に過ぎないんですよ。献身で心を楽にしたいだけなんです。そりゃあ向こうが困っていたら何に変えても助けますけど、ありゃあしっかりした女ですからそんな事はないでしょう。私は死ぬまで、アレに親らしい事ができないんです。恥ずかしい限りだ……まぁ今の私にはそれほどの力はありませんから良かったです。娘はちゃんと生きてくれるでしょう。

 ただ、息子の方は、あまり楽観視できないんですよ。今年で二十六になるって言ってましたけど、未だに定職にも付かず、こういった店に入り浸って酒ばっか飲んどるんです。あいつはあいつでちゃんとできる奴なんですが、どうにも身の丈に合わない夢を見ているようでして……漫画家になりたいなんて言ってるんです。私はそれをどうにも否定できないず、かといって大手を振って後押ししてやる事もできないもんですから、「地に足を付けてから夢を見た方がいいぞ」と柔らかく諭そうとするんですがどこ吹く風です。まったく、困ったものですよ……

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