逃走
ヴェレネ・リープシュタット。
リープシュタット家の一人娘であり、ボクの人生を狂わせた元凶である可憐な少女の顔をボクは思い浮かべていた。
「ヴェレネお嬢様と知り合いなんですか、ラマイカさんは」
「長い付き合いだよ」
住んでるところも近いからな、とラマイカさんは付け加える。
「ヴェレネが君を見初めたのは、年齢相応の純粋な恋慕という奴だ。君等からすれば年齢相応と言われてもピンとこないかもしれんがね。好きだから好きなのであって、深い意味はない。それだけだったんだ。君にどんな迷惑がかかるかまで、あの子は理解していなかった」
決闘の後、温厚な父親が烈火の如く激怒し、ボクを退学にするよう働きかけるのを見て、彼女は自分のしでかしたことの大事に気づいたらしい。
「電話で泣いて頼んできたよ。お姉様のお力でカリヴァ様を守ってくださいませんか、とね」
ヴァンデリョス家の保護下に入れば、それより格の劣る貴族から手出しはできなくなる。そのために、ラマイカさんはボクと血婚しようとした。世間に広く印象づけるために、あんな派手な演出までして。
ということは、つまり――。
「あ、あのっ!」
気がつけば、自分が何を言いたいのかもわからないまま、ボクは口を開いていた。
「きゅ! 急用を、思い出したので、行ってきます! ラマイカさんはドレスと紅茶を買って、先に帰っててください!」
ボクは走り出した。市役所を出て、右も左もわからないチェヴストルの街並みを足の向くまま駆け抜ける。
こういう時、スカートは邪魔だ。ハイヒールは、やめておいて正解だった。
――かりばちゃん。
姉さんが何か言っているけど、どうでもいい。
流石に息が続かなくなって走るのはやめたけれど、それでもボクはジグザグに前に進むことをやめなかった。もはや意地だ。
――かりばちゃん!
ボクは――ついに袋小路にぶち当たった。
立ち止まることを余儀なくされて、ようやく冷静になる。
いったいボクは何をやっているんだろう。
自分から真実を求めておいて、それに耐えきれなくなって逃げた。格好悪いにも程がある。
「おい、お嬢ちゃん」
袋小路の入口を塞ぐかのように、いかにも人品卑しいです、といった感じの若い男が3人立っていた。
いずれも雑食人だ。夜中でも吸血人を恐れず出歩ける俺カッコイイ、というムードでお手軽に自尊心と全能感を肥大させているような手合いの連中で、早い話が気ばかり大きいチンピラだ。
「今俺達、金がなくて困ってるんだよね、助けてくれよ。お礼にいいことしてあげるからさぁ」
なるほど、さっき姉さんが警告していたのはこいつらのことだったのか。
下品な笑みを浮かべて男達が近づいてくる。ボクの性別を知ったらどんな顔をするだろう。
仮に逆上したこいつらにボクが殺されたとしたら、こいつらは吸血人がWGまで持ち出してできなかったことを生身でやってのけたことになるわけだ。
それはそれで愉快だな、と投げやりに思ったときだった。
「そこまでにしな」
なんと、ガリリアーノさんが路地の入口に立っていた。こちらに銃を向けている。
「なんだァ、オッ――」
空気の抜ける音がして、真ん中にいたチンピラの耳が半分なくなった。絶叫して地面をのたうち回る。ガリリアーノさんの表情筋はぴくりとも動かない。残りの2人は凍ったように立ちすくんだ。
「刈羽、こっちに来い」
ボクは従った。
ガリリアーノさんと此処で偶然出会うなんてありえない。きっとボクのことをつけ回していたのだ。
なるほど、姉さんが警告していたのはチンピラ達ではなく、ガリリアーノさんのことだったか。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
さっさと別れたいところだけれど、窮地を救われた以上、無下にはできなかった。
あまり人気の無いカフェにボクは連れ込まれた。
ガリリアーノさんが手を振ってウエイトレスを呼ぶ。オーダーが済むと、ウエイトレスはガリリアーノさんと二言三言談笑して去った。
「あのウエイトレス、俺が独身かどうか探りを入れてきた。誘ったらイケるかもしれん」
「
「何処にもそんなこと書いてねえだろうが」
ニコチンの摂りすぎは肺だけでなく目も悪くするらしい。ボクはメニュー受けにでかでかと印刷された「NoSmoking」の記号を指でさしてやった。ヘビースモーカーの中年刑事は胸ポケットに突っ込みかけた手をしぶしぶ下ろす。
注文したものが運ばれてきた。刑事は芸のないインスタント・コーヒー、ボクが頼んだのはミルクティーとズッパ・イングレーゼ。器にスポンジケーキとカスタード、フルーツを重ね、その上からスープのようにシロップをかけたイタリアのスイーツだ。
更にボクはミルクティーに角砂糖を5つ投入。ガリリアーノさんがうげえ、と唸る。
「おまえ、糖尿病になるぞ。それ以前によく食えるな」
「ボクだって嫌ですけど、これが姉さんなんだから仕方ない」
「はあ?」
姉は極度の甘党だった。ちなみにボクは本来的には酸っぱいものが好きである。
ズッパをスプーンで少し削り取って、頬張る。VKの食事処は当たり外れが大きいが、ここは外れだった。スイーツだからってとにかく甘くすればいいってもんじゃない。暴力的な甘味が胸を焼き食道を溶かすようだ。
口に残る糖分を、砂糖たっぷりのミルクティーで胃の奥へ流し込む。ちょっとした拷問だ。ボクは机に突っ伏して
姉は太らない体質で、摂った糖分は脳と胸と尻へ的確に分配され、それで女友達からは軽いやっかみを装った殺意を向けられていた。しかしボクはそうもいかない。日課の軽い運動は、今日は少し量を増やす必要があるだろう、と腹をさすりながら考える。
「……何がしたいんだ、おまえ」
ガリリアーノさんが呆れて呟いた。同感だ。こんなことをしてもどうにもならないとわかっているのに、なんで続けているのだろう。
答えは簡単で――何かしていないと、姉への罪悪感で呼吸もできなくなってしまうからだ。
死んだ人間のために最大限に出来る事なんて、他に思いつかないからだ。
「ガリリアーノさんこそ何がしたいんですか、ボクをつけ回して」
「つけ回してなんか……」
「嘘ですね。でなけりゃこんなところでタイミングよく出くわすものですか」
ガリリアーノさんはやれやれと両手を挙げ、降参の意思を示した。
「おまえの言うとおりだよ、おまえの力がやっぱり借りたくてな。それで、何かあったのか? まるで女にフラれたみた」
「すぐそういう低俗な問題に置き換えないでください!」
「……お、おう」
しかしくやしいが、ガリリアーノさんのたとえはあながち間違っていない。
認めたくないが、ボクはラマイカさんに少なからぬ好意を抱いていた。父親がどうあれ、彼女は味方だと思っていたのだ。何度も命を救ってもらったのだから仕方あるまい。うん、仕方ない。姉さんを裏切ったわけでは断じてない。
しかしボクは傲慢にも、彼女の方もまたボクに好意を抱いてくれていると勘違いしてしまった。
だってそうだろう、自分の命を危険にさらしてまで赤の他人を助ける人なんていない。いたとしても極小数だ。
だけどそうじゃなかった。
今までラマイカさんがボクのために色々やってくれたのは、ボクのためではなく、ヴェレネお嬢様のためだったのだ。
焼死や失血死の危機を乗り越えてボクを助けてくれたのも、崖から落ちそうになった時に手を離さないでいてくれたのも、全部ヴェレネお嬢様との約束を守るため。
『だから君個人に関しては正直どうでもいいんだ、ハハハのハ』
そういう決定的な台詞をラマイカさんの口から聞きたくなくて、気がつけば逃げ出してしまっていた。
そんな自分が許せない。
まさかおまえ、自分が他人から好意を持たれるような人間だと思ってたのか?
姉さんの幸福を横取りして生きているおまえが? ちょっと、反省足りないんじゃないの?
「何があったか知らんが、ラマイカ・ヴァンデリョスと喧嘩別れでもしたか?」
「喧嘩別れじゃないです」
「まあ、血吸鬼なんぞそんなもんだ」
「味方に引き入れたいからってろくに事情知らないのに吸血人disに持っていかないでください強引すぎます」
だがしかしよぉ、とガリリアーノさんはそこでコーヒーのおかわりを注文した。
「おまえ、戦うって決めたんだろ? 相手が見逃してやろうって差し伸べた手を振り払った。おまえが敵と戦い続けるためには仲間が必要だ。そして」
「そして、ラマイカ・ヴァンデリョスが信用できないなら、あなた達の組織に頼るしかない……?」
「その通りだ」
おかわりのコーヒーが届いた。湯気を立てる墨汁のような液体に口を付け、あっちぃ、と顔をしかめるガリリアーノさん。
「……なんでそんなにボクを勧誘しようとするんです?」
「組織は、おまえの乗ったあの機体に興味を示してる。だが迂闊に近づけなくてな」
なるほど、テストパイロットに誘われているボクなら機体情報を盗み出せると踏んだわけだ。
「あとは、知り合いだからかな。相棒、弟分と呼ぶには年が離れすぎ、息子代わりには大きすぎる微妙な間柄だが、俺だって気心の知れた仲間が欲しいんだよ。残念ながら組織の中で俺は浮いちゃってるからなァ」
それ全身にこびりついたニコチン臭の所為じゃないですかね、と言っておくべきか否か、ボクは迷う。
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