刺客


 ボクは目の前にどんと居座ったタンクローリーを呆然と見つめる。


 壁は砕け、細かいブロックになって廊下にめり込んでいた。食堂から赤い液体がどろりと溢れ出し、漆喰の破片がその上で船遊びをしている。


――落ち着け、落ち着くんだ、刈羽。


 ボクは髪飾りを押さえて深呼吸する。


 まず、自分の状態を確認しよう。タンクローリーが突っ込んできた衝撃で尻餅をついたが、それだけだ。掠り傷1つない。


 次に周囲を確認。大きく壊れていたが、屋根が崩落する予兆はとりあえず見られない。


 タンクローリーに近づいてみる。やや傾いた状態で、浮いたタイヤが空転していた。

 運転席を覗いたが、そこには誰もいない。おそらくは坂道でサイドブレーキもかけずに駐車したのだろう。事故だ。

 ガソリンの臭いはしなかった。とりあえず爆発するような気配はない。


 これで自分の安全はほぼ確認できたといっていい。

 さあ次のステップだ刈羽――。ボクは目を閉じ、何度か深呼吸する。


 呼吸音だけが何度も続く。瞼を開く勇気が出てこない。だけど既にそこに何があるかはもう視界の隅に入ってきていた。耐えられるはずだ。ひょっとしたら生きている奴だって――。


 直視したくない現実に目を向ける覚悟を決め、ボクは食堂のあった方角に目を向ける。


 孤児院を貫いたタンクローリーの背景に、血と肉片と瓦礫がマーブル模様を描いていた。壁や天井、至る所に血が飛び散り、重力に従って今も滴り続けている。


「シスター、伊久那……誰か、生きてるか? 返事、してくれ……!」


 つっかえつっかえ、ようやく発した呼びかけに、けれど返事はない。呻き声すら聞こえなかった。


 普段なら、孤児院のみんなが一斉に夕食をとることは少ない。アルバイトに出ていたり、各々の部屋で勉強や趣味に集中したりで、何人かは時間をずらしているものだ。

 けれど今日の夕食は少し豪勢なものだったから、みんな自分の分がなくなるのが嫌で降りてきていたし、アルバイト組が帰るのを待ってやったりもした。


 なんで、そんな時に限って――。


 神が実在するなら、祈りを捧げるよりも襟首つかんでブン殴りたい気分だった。


 前輪の影にマリウスの頭が見えた。でも頭だけかもしれないと思うと足が前に進んでくれない。

 ああ、救急車を呼ばなければ。ボクではどうにもならない。吐いたり腰を抜かしたり、気を失わないでいるだけで精一杯だ。

 ボクは固定電話を手に取った。けれど受話器からは何の音も聞こえない。電話線が切れてしまったようだ。


 孤児院でスマホを持っているのはシスターだけだが、そのシスターがどこにいるのかがわからない。

 隣家を頼るか、あるいは公衆電話を探すしかなかった。願わくば、既に誰かが通報してくれていますように。


「――おいおい、まだ生きてるのかよ」

「だから言ったでしょう、確認しておくべきだと」


 知らない声がした。振り向くと、遮光ローブを着た吸血人の男が3人、タンクローリーが空けた穴から入ってくるところだった。

 ボクはようやく、強張らせ続けてきた身体から力を抜く。助けが来たと、そう思ったのだ。


「あ、あの、どなたか知りませんが、あの! で、電話を……! 救急車、救急車を呼んでください!」

「悪いね、坊や」


 3人のうち、中央にいる初老の男が言った。


「私達が呼んであげられるのは、地獄行きの馬車くらいのものだよ」

「…………え?」

「やれ」


 相手の言った内容をボクが理解しようと必死になっているうちに、初老の男は隣にいた眼鏡の吸血人に向けて顎をしゃくった。眼鏡の男はゆっくりと懐から拳銃を引き抜く。銃口がぴたりとボクに向けられた。


「なんで……?」

「心当たり、あるだろう? 君は怒らせてはいけない御方を怒らせてしまったんだよ」

「え……?」

「そういうことだ。恨むなら馬鹿なてめえを恨みな」


 眼鏡の男が引き金を引く。その結果どうなるのか、意に介さぬように無造作に。


 ぱすん、と気の抜けた発砲音を、破砕音が打ち消した。砕け散ったのは、ボクの背後にあったアンティークな柱時計だ。

 ボクはといえば、何かに抱きかかえられて宙を舞っていた。


「シスター!?」


 間一髪、横から飛び出してボクを凶弾から救ってくれたのはシスター・ラティーナだった。


「まだ生きてやがったのか!」


 眼鏡の男だけでなく、もう1人のこれといって特徴のない男も拳銃を取り出し、発砲する。しかしシスターは吸血人の脚力を活かし、ボクを抱えたまま壁や天井を蹴ってジグザグに跳んで銃弾をかわした。


 孤児院の奥へ移動、倒れ込むようにして地下駐輪場に出る。


「カリヴァ、自転車を――」

「わかりました!」


 入口の前に自転車を投げ捨てるように積み上げ、バリケードにする。あとで持ち主から文句を言われそうだと思ったが、それが無用な心配だと気づいて泣きたくなった。


 その間にシスターは駐輪場の隅、幌に覆われた物体の前へと向かっていた。彼女が片手で幌を毟り取ると埃が舞い、その下にあったものが姿を現す。日頃奥のスペースを占拠してみんなから文句を言われていたそれは、1台のオートバイだった。


「これで逃げましょう。大丈夫、昼型生活になってから全く乗ってませんが、整備は定期的にしています」


 そう言って、シスター・ラティーナはまたがりやすいようにスカートの端を裂いた。


「シスターは逃げてください、ボクは――」


 あいつらはボクを殺したいのだ。ボクが黙って殺されれば、少なくともシスターには手を出さないはずである。

 だがシスターは無言でボクの襟首をひっつかむと、片手で持ち上げた。そして背中側ではなく、太腿の間にすとんと落とす。そのまま身体で押さえ込むようにしてボクを固定する。


「シス――」

「遅いですよ。もうわたしは彼等の顔を見ちゃいましたし」


 シスターの身体の重みが背中に広がり、彼女の吐息が耳にかかる。けれどそれでどぎまぎしているような余裕はない。ガレージのドアノブがガチャガチャと回され、激しく叩かれ出したからだ。積み上げただけの自転車がずる、と滑る。


「右手と右足が再生するまで、ブレーキの操作、お願いしますね」


 今頃になって気づいたが、シスターの右手は千切れそうになっていた。右足だっておかしな方向に向いている。臙脂えんじ色の僧衣は血を吸って黒く染まっていた。顔の半分は血で真っ赤だ。


「行きますよ!」


 エンジン音が鳴り響く。バイクが孤児院から飛び出すのと、ガレージのドアが吹き飛ぶのは同時だった。


 時刻はまだ午後9時を回ったくらいだ。日没までまだ少しある。午後から雲が出てくれていて助かった。でなければシスターの身体は丸焼けになっていたはずだった。


 バックミラーを見れば、2人の男がガレージから走り出てくるのが見えた。その後ろからトラック――おそらく残りの1人が運転している――が走ってきて、2人はそれに乗り込む。


 窓がなく、代わりに仰々しいカメラアイを屋根に載せた吸血人仕様の、どこにでもあるような平凡なトラック。黒塗りの高級車とかじゃないんだな、と呑気な感想を抱いた。


「追ってくる気だ!」

「しつこい……!」


 法定速度を鼻で笑いつつ、バイクと車はカーチェイスを開始する。


「街から離れましょう」


 シスターが言った。平気で孤児院にタンクローリーを突っ込ませてくるような連中だ。無関係な人達に何をしでかすかわからない。それに信号や通行人がいてはこちらも逃げづらい。


 雑食人はとうに家路につき、吸血人はまだ起きるか起きないかといった時間帯だったのはせめてもの幸いだった。それでも何度か人身事故を起こしそうになりながら、アクセル全開で街を抜ける。ブレーキを頼むとは言われたが、実際ボクが何かすることはなかった。


 バイクであることを活かし、細い路地をジグザグに駆け巡る。

 そのまま半時間ほど走っただろうか。死んだも同然の視界の中、周囲の景色が民家ではなく森に変わっているのが辛うじて判別できた。ああ、孤児院を出るときに、暗視ゴーグルをもっていく余裕があったなら。


「エイヴォン川まで来てしまいましたね」


 シスターの声には余裕が混じっていた。どうやら、撒いたらしい。


「とはいえ、油断は禁物ですね」


 北上してストルク・ヴィショップ市まで行き、そこで警察に保護を求めるプランをシスターは提案した。ボクに異論はない。


 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。1台や2台のではない、大騒ぎだ。

 あいつらが捕まっていますように、とボクは祈った。


 いや――。

 奴等は、ボクが怒らせてはならない相手を怒らせた、と言った。だとすれば相手の背後には貴族――おそらくはリープシュタット伯爵かタラプール男爵――がいる。


 貴族ならば、警察さえ支配してしまえるのではないか。なにしろ、恥をかかされただけで孤児院ごと相手を抹殺してしまおうとする連中だ。


 だから――。バックミラーに映ったパトランプの青と赤に、ボクは安堵ではなく不安を抱いた。


「そこのバイク、停まりなさい!」

「駄目です、シスター!」


 シスターが速度を落とそうとするのを、ボクは慌てて止めた。


「あいつらの後ろには貴族がいるかもしれないんです、あいつらもグルかもしれない!」

「考えすぎですよ、カリヴァ。中世ならいざ知らず」


 速度計がゼロに戻っていくのを、ボクは胃袋を握りしめられるような思いで見ているしかなかった。


 結論からいうとシスターの言うとおり、パトカーに乗っていたのは奴等の仲間ではなかった。それが何故わかったかというと、横合いからいきなり飛び出してきたあのトラックが、パトカーを弾き飛ばしたからだ。


 横っ面をはたかれたパトカーがスピンして街路樹に激突。


「捕まって!」


 シスターがバイクを再発進させる。

 後方で何かが弾けたような音がした。ほぼ同時に、背中に衝撃。


「ぐげっ」


 シスターがカエルのような呻き声をあげた。背を反らせ、血を吐く。撃たれたんだ、と理解したときに2度目の衝撃がきた。バイクがバランスを崩す。コースアウト。ボク達は森に呑み込まれた。


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