A.D.2009 東京
「嘘だろ……?」
ゴルフクラブを振り上げたボクを見上げて、父は掠れた声で呟いた。もちろん嘘ではない。その証拠として、横たわった父の鼻っ柱にドライバーをフルスイングで叩きつける。6歳になったばかりの幼い子供の腕力でも、それは充分な破壊力を発揮した。鼻骨が折れる手応え。鼻血が吹き出す。
さっき階段から落ちたダメージで父はろくに動けない。落ちて怪我をしたのはこちらも同じだが、断然軽傷だ。亀よりも緩慢に這って逃げる父を追撃するのに何ら支障はない。
凶器を振り下ろすたびに父はみっともなく悲鳴をあげた。ひときわ高く鳴く場所があったので、そこを重点的に攻める。きっと骨が折れたところなのだろう。
幸い、今は平日の昼間だった。両隣は共働きなので誰もいない。いるのは忌引き中のボク達と、向かいに住む引きこもりのオジサンくらいだ。オジサンは絶対に部屋から出ない。警察に通報することもないだろう。夜になれば母親経由で文句をつけてくるかもしれないが。
許してくれ、と父は言った。ボクはかまわず
「信じられねえ……この畜生……」
子供のようにベソをかきながら、血まみれの肉塊が呻く。鼻が潰れているせいか聞き取りづらい。
「親を殺そうとするか……? あんなはした金で……。畜生、恩を仇で返しやがって……」
なにか面白いことを言うかと思ったから待ってやったのに、期待を裏切られた。攻撃再開。すぐに男は動かなくなった。息はしているようだが、目の錯覚かもしれない。どっちでもいい。
曲がったゴルフクラブを振ると、ヒュンと風が鳴った。なんだかかっこよくて笑ってしまう。あははははははは。そこまで面白くもないのに笑いの衝動を抑えられることができず、ボクはそのまましばらく、棒立ちのまま笑い続けた。はははははははははは。あは。あはははははははははは。
姉が死んだ。16歳だった。
事故死である。飲酒運転のトラックにはねられたのだ。慌てふためいて逃げようとした間抜けな運転手のおかげで、トラックに引っかかった姉の身体は数百メートル引きずられることとなった。
遺体は原形を留めない、見るも無惨な状態だった――らしい。というのも、ボクこと
そして今、ボクは姉の部屋にいる。正確には2人部屋の、姉が使用していたスペースに立ち呆けている。2人で使っていたときは狭苦しさしか感じなかった室内は、1人で使うとなると無駄に広く感じた。
もう小一時間、立ちっぱなしだ。姉の遺品を片付けるために入ったのだが、死者とはいえ姉のプライバシーに踏み込むのは気が引けた。そもそもまだ姉を喪った実感が乏しい。今にも本人が帰ってくるような気がしてならない。
それが気のせいでなければ、どんなによかったか。
だがいつまでもそんな悠長なことは言っていられなかった。ボクの復調を待たずに姉の遺体が荼毘にふされてしまったように、時の流れはいつだってボク達を待っていてはくれないのだから。
そして、時間の流れ以上に父の気は短い。あの男に、姉の形見を荒らされたくはなかった。
――ねえ、かりばちゃん。もしお姉ちゃんが病気や事故で死んじゃったら。
姉は時折、自分が死んだときどうすべきかボクに指示してくれていた。
――お葬式のことなら心配ない。あいつは外面が良いから、完璧にやる。表面上は。内心、金の無駄だの余計な手間だのって腸が煮えくりかえってるだろうけど。
姉の言葉はいつだって正しい。まるで予言者のように。
ボクは学習机の2番目の引き出しを開く。二重底になっていて、上蓋を外すと封筒が1つ入っていた。中を覗くと10人の福沢諭吉が現れる。
姉があの男から必死に隠してきた全財産だ。何があってもこれだけは手に入れろ、あの男に使われたら浮かばれない、と厳命されていたのだった。命令を果たせたことに安堵する。
事故の賠償金はどうなったのだろう、とふと思った。いや、考えないことにしよう。どうせ手に入らない金である。それよりも形見だ。さっきの金とは別に、何か形として残る、形見らしい形見が欲しかった。ボクにとっても姉にとっても馴染み深い、できれば姉の体温を感じられるような何か。ポケットに入るくらいならなお良い。
幼い頃に姉と取り合いをした、小さな熊のぬいぐるみを思い出す。ボクの言うことには――無茶でなければ――大抵の場合最終的に折れてくれる姉も、あれだけは譲ってくれなかった。出て行った母に買ってもらった物だったからだろうか。
あれはどこに行ってしまったんだろう。ああそうだ、八つ裂きにされて燃えるゴミに出されたのだった。父は母の残り香の一切を許さなかった。おかげでボクは母の顔を知らない。
適当に机の引き出しを開閉していると、きらりと何かが光を反射した。取り出してみれば、それは翡翠色をした蝶の飾りがついたヘアピンだった。姉が小さい頃に身につけていたものだ。
右羽が大きく欠けている。にも関わらず捨てられることなく大事に仕舞われていたところをみるに、彼女にとって思い出深い一品だったのだろう。
ボクはそれをポケットにしまった。
「おい、まだ終わらねえのか」
突然背後から声が投げつけられて、心臓が縮み上がった。条件反射的に噴き出た汗でシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。強張った首の筋肉を動かして振り返れば、階下で酒を呑んでいたはずの父が部屋の入口に立っていた。
「と――とー、父さ、さん」
ボクの声は情けないほど震えていた。いくら殺してやりたいほど憎い相手でも、長年の暴力と恫喝によって本能に刻み込まれた恐怖は拭えない。
父は不機嫌に室内を見回す。すぐ、床に置かれたままの空っぽのゴミ袋に気がついた。
「いつまでかかってんだグズ!」
飛んできた鉄拳によってボクは吹っ飛んだ。倒れた拍子に姉とボクの使用領域を隔てるカーテンを掴んでしまう。安っぽいカーテンは音を立てて裂けた。その向こうに置いていた小物入れが倒れ、中身が散乱する。
「なにやってんだ、散らかしやがってよぉ!」
腹を蹴られる。顔ではなかったということは、まだ今日は理性が残っている方だなと思った。
「てめえがやりますって言うから任せたのに、何もしないで油売ってただけか? 使えねえなおまえは、ああ!? でかい方が生きてりゃまだ使い道があっただろうによ!」
「……ごめんなさい。これからやりますから……」
終わるまで飯は喰わさねえぞ、と吐き捨てて父は出て行こうとした。だが、急に立ち止まる。振り返ってある一点を見つめる。その視線の先にあるものを見て、ボクは心底絶望した。
なんということだ、倒れた拍子に封筒を手放してしまった! しかも、よりにもよって部屋のど真ん中に落とすだなんて!
父は封筒を拾い上げる。中身を確認し、下手糞な口笛を吹いた。
「あのクソガキ、ため込んでやがったな」
まだ起き上がれないボクを、父は踏みつけた。
「ネコババしようと思ったか? 駄目駄目、悪の栄えた試しはないんだよ。どうせおまえが持ってたって、くだらないことに使うだけだ。それじゃ死んだお姉ちゃんも悲しむぞ。これはお父さんが有効活用しておくからな」
「――――!」
死んだ姉さんが、悲しむ? それはおまえに使われることだ! そしてそれは、ボクが命に替えても阻止しなければならない。それが姉さんの命令なのだから。
「出かけてくる。帰ってくるまでに終わらせとけ、いいな」
父は鼻歌を歌いながら部屋を出て行く。階段の手摺りに手をかけた。駄目だ、行かせては。ボクは必死に起き上がろうともがく。手が何かを掴んだ。それが重いものであることを察した瞬間、ボクは行動を起こしていた。
「へああああああああああああ!」
ゲームに出てくるザコモンスターだってもっとかっこよく力強い咆哮をあげるだろう。自分のあげた叫び声の情けなさに、かえって勢いが削がれてしまった。
それで、ボクの振り下ろした腕は軽々と受け止められてしまった。
「ハハッ、何してんの、おまえ」
父が手に力を込める。激痛にボクは『武器』を取り落とした。床にドスンと落ちたそれは、武器としてはあまりにも頼りない、ただの国語辞典だった。
「おまえ、こんなんで俺をどうにかできると思ったの?」
冷静になってみれば、何故こんなものが武器になると思ったのか、自分でもわからない。
「こんなはした金にそこまでムキになっちゃって、まあ。馬鹿だね、おまえ馬鹿だね」
父に腕をひねられて、ボクは情けない悲鳴をあげてしまった。振り解こうとして藻掻いてみたが、余計に痛みが増すばかりで全く脱出できそうにない。学生の頃はラグビーをやっていたのがこいつの自慢だ。対するボクは運動音痴の欠食児童である。
「厳しく躾けてきたのにな。父親に暴力を振るうような不良息子になってお父さん悲しいよ。まあ、あのアバズレの血を引いてたんじゃ無理もないか。でも喜べ、お父さんおまえを見捨てたりしないよ? 将来犯罪者にならないよう、きっちり躾け直してやるよ」
くっひっひ、とアルコール臭を撒き散らしながら父が笑う。大義名分の元に弱者をいたぶることこそが、人間にとって最大の快楽――父と数年間過ごした中でボクが学んだ真理の1つだ。
もう駄目だ。ボクは固く目を閉じて身構えた。涙がもうにじみ出てきた。苦痛はもはや避けられない。頭の中は悲しみと絶望でごちゃごちゃで、打開策なんてどうやっても見つけられっこなかった。
――その時、姉に呼ばれたような気がした。
幻聴だろう。だがその瞬間、ボクは打開策を発見した。父親に対する本能的恐怖は最初からなかったかのように消え失せる。
右手1本で宙吊りにされた状態で、ボクは膝を曲げた。
狭い廊下だ。階段とは反対側の壁に足裏がくっついた。水泳でターンをするときのように、力いっぱい、蹴る。
頭の中で人を殺すことを罪に数えるなら、ボクはシリアルキラーだ。被害者の9割は父。暇さえあれば父殺しを夢想するのが数少ない趣味だった。
それが現実に実行される時が、ついに来たのだった。
何度も何度も何度も何度も何度もシミュレートしていたので、自分でも驚くほどスムーズに実行することができた。てこの原理だのなんだのは、もはや意識するまでもなかった。姉が死んだ今、自分自身の安全を考慮する必要すらない。
父は踏み留まろうとして、しかし突然ぐらりと体勢を崩した。ボクは駄目押しにもう一度壁を蹴る。一瞬の浮遊感の後、天地がめまぐるしく入れ替わり、四方八方から衝撃が襲いかかる。
ボクと父の身体は階段を転げ落ちていった。
「……畜生」
不幸にも、2人とも生きていた。そして幸いなことに、ボクよりも父の方が重傷だったようだ。父の頭から血が出ている。起き上がろうとして、だがその足がありえない方向へ滑った。奴は叫び声を上げてまた寝転がる。あちこち骨を折ったらしい。
ボクはといえば右腕がひどく痛むくらいだ。落ちる直前まで捻りあげられていたからなのか、落ちていく途中で折れたからなのかはわからない。
どちらにせよ行動に支障はなかった。ボクは立ち上がって玄関に行く。
「……救急車。救急車を呼んでくれ……」
父が弱々しい声で呻いた。そうやって喋るのさえ辛いようだった。
ボクは受話器の代わりに、父愛用のゴルフクラブを1本つかみあげた。
そして――――。
ようやく笑いの衝動が収まったのでボクは次の行動に移った。不思議なことに、1度落ち着いてしまうとさっきまでの高揚感は嘘のように消え失せていた。もはやおかしくも楽しくも何ともない。
姉の遺産は階段の途中に落ちていた。1枚も抜き取られていないことを確認する。
さて、これからどうするか――。
ふと鏡を見て、ボクは自分が血で真っ赤なのに気付いた。とりあえず身体を洗うために風呂に入る。いつもはお湯や石鹸を使えば殴られたが、もうかまうものか。父だけが使うことを許されたシャンプーから必要以上に中身を出す。なかなか泡立たなかったが、数回洗い流すとコマーシャルでやっているような状態になって、満足した。
石鹸が傷口に染みたが、父を殺した高揚感で脳髄がハイになっているのだろう、痛みはむしろ心地いいくらいだった。
ぬるぬるした金気臭い汚れが落ち、身体が温められていく心地よさにうっとりする。もしかしたらいつか見たドラマみたいに、血の汚れが取れない妄想に囚われるのではないかと不安だったのだが、そういうことは全くなく、数分もすれば少なくとも主観的には綺麗になった。やはりドラマはドラマに過ぎないのだな、と思う。
――かりばちゃん知ってる? 海の向こう、そのまた向こうにはね、吸血鬼の国があるの。
ずっと幼い頃、姉が読み飽きた童話の代わりに語ってくれた話を思い出した。海の向こうどころか家の窓から見える範囲だけが世界の全てだったボクにとっては奇想天外の話だったが、それはこの世界にとって当たり前の一般常識だった。
――かりばちゃんが生まれるずっとずっと昔に、とても怖い病気が流行って、沢山の人が死にかけたのね。そこである国の王様は悪魔と契約して、国民全員を吸血鬼に変えてもらった。ああ、元々は人間だったから鬼と呼ぶのはよくないわ。
そして姉はボクを抱きしめて言ったのだ。
――いつかお姉ちゃんと2人で吸血人の国へ行こうね。
当然、ボクは嫌がった。だって細い注射針ですら怖くてたまらないのだ。
――昔は兎も角、今は吸血人と人間は仲良くしてるの。そりゃ血は採られるけど、その代わり援助があって、お姉ちゃんとかりばちゃんだけでも充分暮らしていける。お父さんやお母さんなんか要らないの。ね、そうしましょう?
嘘くさい、と思った。ライオンとウサギ、あるいはヘビとカエル。食うものと食われるものが同じ檻の中で仲良くしてるだなんて現実にはありえないことくらい、幼い子供でも知っている。
――そうね、動物ならそうかもね。でも、人の理性は自然の摂理だって乗り越えられると思わない?
だったらその理性とやらで父を優しい父と取り換えてくれ。母をボク達のところに帰してくれ。そう言いたかったが、言わなかった。それで姉を論破できても彼女が悲しい顔をするだけで何の利益もないと、幼い子供でも理解していたからだ。
代わりにボクは、そうだね、行ってみたい、と言った。ちゃんと感情がこもっていたかは知らないが。
姉は微笑んだと思う。
――え? 行った後はどうするのかって? ばかね、そんなの決まってるじゃない。
そう言って姉はボクをぬいぐるみのように抱きしめた。
――ふたりはいつまでも仲良く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
冗談めかして終わらせはしたが、姉は本気だった。渡航費と当面の生活費を貯めるだけでなく、現地の言葉を話せるよう勉強も欠かさなかった。英語だけなら学年トップクラスというのが姉の自慢だった。父殺しの夢想に逃避していただけのボクと違い、姉は現状から抜け出そうと足掻いていたのだ。
けれど現実は残酷だ。父、そしてボクという重荷を抱えながら我慢して我慢して、努力して努力して、頑張って頑張って、その果てにくだらない事故に巻き込まれて彼女は死んだ。あるいは理想郷の実態に打ちのめされずにすんでラッキーだったのかもしれないが、何という甲斐のない人生だろう。
姉の堅実な努力は水泡と消え、それを嘲笑うかのようにボクの非生産的な逃避は現実に活かされた。
理不尽なんてものじゃない。残酷すぎる。
世界の無情さにボクは泣いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
気がつくと、ボクは知らないベッドの上に寝転がって知らない天井を見上げていた。何かゴソゴソやっていた看護師さんがボクの目覚めに気づいて、そのまま寝ているように言い残し、出て行く。
少し経って病室に入ってきたのは、和服を着た若い女の人だった。白い髪を長く伸ばし、透き通るような肌をしていた。美人だけど、迂闊に近づいたら手酷く傷つけられるような印象がある。
何処かで見たような気がするが思い出せない。
彼女の説明によると、ボクはシャワーを浴びながら気絶してしまっていたらしい。昼間の騒音で文句をつけに来た向かいのお婆さんが開いたままの浴室の窓からボクを発見し、救急車を呼んでくれたのだそうだ。
「自分の父親を殺したな、坊主?」
紫蒲さんは薄く笑って言った。責めるというよりはいたぶるように。
「殺さなければ殺されていたとしても、世間はおまえを認めんだろうよ。一生後ろ指をさされて生きていくのさ。どうせ行き着く先が同じなら、坊主、おまえはどうしたい? 少年院に行くか、逃亡犯になるか、それとも――」
「……ボクは、VKに行きたいです」
VK――
紫蒲さんは片眉を上げた。
「血吸い鬼どもの餌になりたがるとは、奇矯な
「姉さんが行きたいと言ってたから」
「――なんでもかまわんわ。今すぐには無理だが、そのうち連れて行ってやろう」
枕元に、畳んだ服と一緒にあのヘアピンが置いてあった。ボクはそれを自分の髪に結びつける。
今までずっとボクは姉に守られていた。姉におぶさって生きてきた。だからこれからはボクが姉をおぶって生きていくのだ。ボクが彼女を夢の場所に連れて行こう。
もしかしたら、1人だけ幸せになったボクを姉は天国から呪うのかもしれないが。
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