血棺炉神ヴァルヴェスティア
鯖田邦吉
第1章
0:祖(おや)を捨て 我が身を変える 明日の為。向かうその先 奈落としても。
A.D.1353 モラヴィア
地獄が口を開けている、とチャールズ・ブルフォードは思った。
周囲を照らす太陽の光も、目の前の洞窟が抱え込んだ闇には無力だった。黒々と広がった入口を前にして、ブルフォードは幼い頃聞かされた昔話を思い出す。
死せる恋人を黄泉から連れ戻さんとする吟遊詩人の物語。だがこの洞窟の奥で彼が会わねばならない相手は、そんな甘酸っぱい相手ではなかった。
主観時間で3時間は歩いただろうか。彼の眼前には凍りついた地底湖が見渡す限り広がっていた。その上には暗黒の空間が広がり、天井が見通せない。
「王よ!」
ブルフォードは呼びかける。吐息は白い
「偉大なる闇の王よ! 拙者はチャールズ・ブルフォードと申す者! イングランド王エドワードの命により、参上つかまつりました! どうかお姿をお見せくだされ!」
声は地下空洞にこだましたが、それに応える者はいない。
ブルフォードは呼びかけを繰り返した。かの吟遊詩人は恋人の蘇生に失敗したが、彼に失敗は許されない。彼の肩にのしかかる命の重みは百人や千人ではないのだから。
「闇の王よ、深淵を統べる時の覇者よ――、どうかこの哀れな小さき者の呼びかけにお応えくだされ! 貴方様がここにおわすことは存じておりまする! 死の病に滅ぼされんとする我々ヒトの子をわずかでも哀れと思ってくださるのであれば――」
冷たい大気が容赦なく喉をひりつかせ、ブルフォードは何度も咳き込んだ。
「どうか――」
――やかましい。
脳髄を揺さぶるような声が轟いた。ブルフォードは恐怖のあまり逃げ出しそうになった。本心では返事がこなければいいと願っていたことに、彼は気付いた。
――悪魔だのなんのと忌み嫌って地下に追いやっておきながら、都合が悪くなると頼るのか、人間は。
ククク、と声は喉を鳴らした。
「拙者の呼びかけに応えていただき恐悦至極にござる。ですが、できれば御姿を――」
声はすれども姿は見えず、どうにも落ち着かない。ブルフォードはあちこちに視線を走らせたが、影さえ見つけることはできなかった。
――声を聞かせろと言うから応えてやれば、今度は姿を見せろときた。口ではへりくだっているが厚かましい奴だ。
咎めるような口調だが、その声には面白がるような響きが含まれている。声の主は退屈していたのだった。
――そもそも、姿なら初めから見せているではないか。
突然、空が動いた。
群生したヒカリゴケが淡い光を放つ岩天井が露わになる。今まで闇だと思っていたものがまるごと1つの生物だったと知って、ブルフォードは悲鳴をあげた。
窮屈そうに折り畳まれた蝙蝠の羽。黒曜石のように煌めく甲虫のような肌。長い首の先にある、爬虫類めいた頭部。眼球は比喩ではなく光を放ち、生臭い息を吐く顎には鋭い牙が並んでいる。
そして何よりも、広大な空間のほとんどを占有する巨大な体躯。しかもよく見れば、その下半身は氷の下に封じられていた。全体でどれくらいの大きさになるか、想像するだけで畏怖と絶望がブルフォードを狂気に引きずり込もうと手を伸ばす。
ドラゴン。神や悪魔にもたとえられる伝説の魔獣が、確かな存在感を持ってブルフォードを見下ろしている。
彼はうやうやしく頭を垂れる風を装ってドラゴンから目を逸らすことでなんとか発狂を免れた。
「……闇の王の、ご、御配慮に、かか、感謝いたしまする」
地下空洞は今にも凍え死にそうなほどの冷気に満ちていたが、ブルフォードの背中は汗でじっとりと濡れていた。
――今のおまえ達の王はエドワードとかいうらしいな。グヴェンドリンは息災か?
口を動かすことなく、ドラゴンは実在したかも疑わしい伝説の女王の名を呼んだ。
思えばこの生物はただ大きいだけではない。人間の言葉を解し、会話をする知性を持つのだ。それこそが最も恐怖すべき部分だった。
「……お隠れになられました」
女王が実在したとして、それはブルフォードの生まれる何百――ひょっとしたら千年以上――前のことだ。
そうか、とドラゴンはさして気にした風もなく言った。
――それで、私に用とはなんだ、ヴルフォード?
ブルフォードだと訂正する勇気など、か弱い人間にあるはずがなかった。
「あ、貴方様の――貴方様の血を、いただきたいのでございまする」
ドラゴンがいぶかしげに目を細める。
――その意味、わかっておるのか?
もちろんです、とブルフォードは平伏する。
「我々人間を――イングランドの民を、貴方様の眷属にしていただきたく、参上つかまつりました!」
――我が血を取り込み眷属となれば、おまえ達は人の枠組みから逸脱した別の生命種となる。それは、おまえ達の神に背く行為ではないのか?
「……神は死にました」
ブルフォードの脳裏に、黒いあざを全身に浮かばせた無惨な屍の山が甦っていた。そしてその前で無力にうちひしがれる医師、僧侶、学者、そして遺族達の姿も。
激しい憤りがブルフォードの心から束の間、恐怖を消し去った。ドラゴンの目を真っ向から見据え、彼は叫んだ。
「神は死んだ――でなければ我々の敵になったのです! 勝手な願いであることは百も承知、しかしどうか、どうか我々をお救いくだされ! 代償として我々が貴方様に捧げられるものがあるならば、何でも捧げまする!」
ドラゴンは困ったように首をもたげた。応じる理由はない。人間が捧げられるものでドラゴンが必要とするものなど、何もあるはずがなかった。
だが、ブルフォードにとって幸いなことに、ドラゴンは常々暇を持て余していたし、その日はたまたま機嫌が良かった。
まあいいか――。ドラゴンは鼻を鳴らす。血を与えるだけならば、そこまで面倒なことではない。ここで恩を売っておけば、将来何か役に立つこともある、かもしれない。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
西暦1355年、イングランドは和平条約を破棄しフランス領へと侵攻を開始。それまでの
一夜にして見違えるほど精強になったイングランド軍は、しかし何故か夜間のみ活動し、昼間に姿を見せることはなかった。そして闇夜の戦場を灯火もなしに駆け回る兵士達の口からは、肉食獣のように鋭く大きな犬歯が生えていたという。
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