第43話 理桜(33)~エピローグ 永遠の王国


――教えて、ダカさん。この「非現実」の中で『ヴィヴィアン・キングダム』の仲間たちは何人かの大人たちを殺してしまった。そしてわたしはそんな仲間を「食べて」しまった。この人たちは「現実」に戻った時、どうなっているの?死体になっているの?


 ――このまま「非現実」が「現実」を侵食し続ければ、あるいはそうなるかもしれません。……しかし、それは回避できるはずです。


 ――本当?誰一人死なずにすむ現実に、戻すことができるの?


 ――ええ。「非現実」の存在力が強すぎてこのような事態になってしまいましたが、幸いなことに二つの現実は今、内部の人間を共有しながら重なりあっている状態です。決して二つの現実が完全に融合してしまったわけではありません。

 二つを一時的に分離させ、こちらの現実……「非現実」の方のステージを消滅させます。そうすれば、一連の悲惨な出来事は「なかったこと」になるはずです。


 ――本当に、そんな事が可能なの?


 ――はい。……うまくいくかどうかはわかりませんが、今からやってみます。


 そう言うと少女の姿をしたダカさんは、両手を広げた。同時にエレベーターが上昇を始めるときのような、下半身がむずむずする浮遊感が生じた。


 やがてわたしの立っているステージがゆっくりと上昇を始め、その下からまるで子供の服を脱がせるように、ライブを終えた時のわたしたちが時を止めた状態で出現した。


 「非現実」は、巨大なシャボン玉のように交差点の上をみるみる上っていった。


 ――ある程度の「高み」まで持ち上げたら、ステージごと破壊します。


 ――この現実を消滅させたら、わたしたちはどうなってしまうの?


 ――僕は仮の姿で存在しているので問題ありませんが、あなたは実在したまま、「非現実」に取りこまれている状態です。僕が「非現実」を消滅させれば、こちら側にあるあなたの自我は「非現実」とともに消滅してしまいます。その場合、「現実」の側に残されたあなたも廃人となってしまう可能性があります。


 ――助かる方法は、ないの?


 ――僕が「非現実」を破壊するのと同時にここから飛び出し、無数にある元の「現実」のどれかに飛び込んでください。

 

 ――わかったわ。……でも、どうやってここから飛び出せばいいの?


――「非現実」が完全に分離したら、合図します。あなたはステージの端に立って、僕が「今です」と言ったら飛び降り、下の方に見える現実の一つを選んで飛び込んでください。


 ――選ぶって……どうやって選べばいいの?


 ――ステージから降りたあなたは、虚無の中を落下します。下の現実にたどり着くまでほんの少し、余裕があるはずです。その間に、無数に重なりあった現実のうちからどれか一つだけを選んでください。それがあなたにとっての新しい「未来」となるはずです。


……いいですか、交差点という場所は、埋められたものがこの世に戻って来にくい場所です。下にたどり着くまでに自分の現実を選べなければ、二度と本来の世界に戻ることはできません。


 ――わかった、やってみる。ダカさんは?


 ――僕のことなら心配いりません。この身体は仮想の物で、実在する自分は「現実」の方にいます。……さあ、そろそろ十分な高さになりそうですよ。


 わたしはハッとした。気が付くとわたしのいるステージ上だけが丸く切り取られ、球状の世界の外側は真っ暗な闇になっていた。 


 ――いいですか、ステージを破壊しますよ。端の方に立ってください。


 ――わたしは言われるまま、ステージの端へと移動した。かつてライブの最中に転落したことが、遠い昔のことのように思えた。


 ――「非現実」を破壊します。……今です、飛び降りて!


 わたしは目を閉じ、勢いをつけてステージの床を蹴った。次の瞬間、わたしの身体は漆黒の空間に躍り出ていた。ひとりぼっちの世界で、わたしは自分が「私」の中に溶け込んでゆくのを意識した。虚無の中を「私=わたし」は、凄まじい早さで落下していった。


 やがてはるか下方に、無数の球体が見えた。それは「あり得たかもしれない」現実の数々だった。路上で友達と歌っていた時の姿もあれば、『ヴィヴィアン・キングダム』を結成した頃の姿もあった。驚いたことに、教会で学童保育を受けている自分の姿さえあった。


 ――そうか。「あの頃」の自分を選べば、ダカさんや『御使い』にも会わずに済むし、病気も流行らない。……でも。


 私は悩んだ。いったい、どの時点の「現実」に飛び込んだらうまくゆくのだろう?


 焦っていると突然、頭の中で声が響いた。


 ――もう、あいかわらず優柔不断なんだから。すぐ消えちゃわなくてよかったわ。


 私ははっと気づいた。まだ消えずにいた「わたし」が、傍らにいてくれたのだ。「わたし」は、笑いを含んだ声で「私」にささやいた。


 ――現実が近づいてきたわ。もう時間がない、早く選んで。……あなたの望む未来は何?どの現実に飛び込む?


 私は迷った。六歳の私に戻れば何も起こらず、大人たちも死なずに済む。あるいはキングダムの結成以前に戻れば、この数か月の様々な悪夢は起こらずに済むだろう。……でも。


 ――……でも、六歳の私に戻れば、あなたは消えてしまうわ。メンバーのみんなとの出会いもなくなる。


 ――そうね。でも、選ばなくちゃいけない。何を残し、何を捨てるのかを。……大丈夫、あなたはきっといい選択をするわ。だってあなたは「わたし」だもの。


 ――……私は……私は……!


 私は泡のように広がった現実のひとつに飛び込んだ。その瞬間「私=わたし」はひとつになり、「わたし」が「私」の中から去ってゆくのがはっきりとわかった。


――さようなら、「わたし」……


 小さなさざ波だった拍手が大きなうねりとなるのを、私の耳はとらえていた。

 私は深く折り曲げていた身体をまっすぐに戻すと、客席を見つめた。


――松舘さん、サコさん、そして典子さん。


 全員の無事な姿を確かめ、私は深い息を吐いた。戻ってきた。私はステージに、みんなのいる場所に、無事に戻ってきたのだ。不意に熱いものがこみ上げ、わたしは鼻を啜った。


「『ヴィヴィアン・キングダム』のみなさん、ありがとうございました!」


 司会の声が、交差点にこだました。私はもう一度深々とお辞儀をすると、手を振りながらステージの袖に歩き出した。


 メンバーの中には階段にたどり着く前に泣き出している子もいた。私もステージを降りたら、泣いてしまうだろう。それくらい長い間、一緒に練習を重ねてきたのだ。階段にたどり着くと、下ではメンバーたちが抱き合って号泣していた。


 あの時、虚無の暗闇の中で私はこう、願ったのだ。


 ――あの、ライブが終わった直後のステージへ。みんなとこれからも戦っていくはずの戦場へ、私は戻りたい!


 ステージを降りた私は、涙で顔をくしゃくしゃにしている仲間たちに出迎えられた。


 声にならない喜びを抱きしめながら私は思った。たくらみに満ちた現実は、どこかへ消え去った。これからは誰の物でもない、私たちの王国の新しい歴史が始まるのだ……と。



            エピローグ


「ダーガーさん、お勤めはまだ続けてらっしゃるんですか?」


 ミサを終えて腰を上げかけたヘンリーに、四十代の神父が声をかけた。


「……実は一昨日、最後の挨拶をしてきました。今は自由な身です」


「そうですか。……まあ、お身体のこともあるし、ちょうどよい頃かもしれないですね。ミサにはこれからも来られるんでしょう?」


「ええ、そのつもりです。清掃の仕事を辞めたといっても、僕にはまだ最も大事な仕事が残っています。気落ちしている暇はないです」


「ほう、大切な仕事ですか。それはどのような?」


 神父は、小首を傾げた。ヘンリーは、自分より十歳は若いこの神父に、自分だけの信仰を持つことの奥深さを語りたい衝動に駆られた。


「自分だけの現実を綴ることです。そこでは永遠を生きる美しい者たちが、戦い続けているのです」


 ヘンリーは、手にペンを持って動かす仕草をしてみせた。


「ほう、何かお話のような物を書かれているのですか。それはいい、夢がある」


「確かに夢ですけど、夢物語ではありません。夢だって一つの立派な現実です」


 ヘンリーの熱のこもった口調に、年下の神父は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。


 ヘンリーは笑みを浮かべると、「僕はこれで」と神父に一礼した。


 教会を出たヘンリーは、アパートへの帰路についた。もう六十年近く歩いている道だ。


 二度の大戦を経て世界も、シカゴもすっかり様変わりしてしまった。懐かしい黒塗りの車両はめっきり影を潜め、代わりにやたらと図体の大きな車が行き交うようになった。


 若者の楽しみは、ジャズに加えてロックン・ロールという音楽が新たに加わった。


 ヘンリーは年を取り、わずかばかりの親しい者たちも、次々と天に召されつつある。


 でも、とヘンリーは思った。


 僕の王国は違う。色褪せたり、しない。


 たとえぼく自身の寿命が尽きてこの世から消えてしまったとしても、『非現実の王国』と『ヴィヴィアン・ガールズ』は生き続ける。……そう、百年先、千年先までも。


 ヘンリーはそびえたつビルでひときわ狭くなったシカゴの空を、いとおしげに仰いだ。


 ――『御使い』。君は君の夢をかなえることができただろうか?


 僕にはもう、現実を変える力はない。君の手助けができるのは、僕じゃないはずだ。


 路地の隙間から冷たい風が吹きこみ、ヘンリーは思わず外套の襟を掻き合わせた。


 ふと近くのショーウィンドウを見ると、色あせたかつての少女スターのポスターがあった。ヘンリーが好きだったこの頃の彼女はもう、現実のどこにも存在しない。


「大人になりたくなかったら、いつでも僕の王国においで」


 ヘンリーはポスターの少女にそっと語りかけると、アパートへの道を急いだ。


                〈了〉

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戯少女の王国 五速 梁 @run_doc

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