第39話 理桜(29)飽食の天使と死の眠り
わたしを取り囲んだ無数の『死天使』は、わたしを認めるとじわじわと包囲の輪を狭めるかのように床の上を這い進んできた。
わたしは、自分が怪物になる前にこいつらによって食われてしまうのか。
わたしの全身を、さきほどまでとは異なる恐怖が貫いた。何とか包囲の輪をかいくぐって逃げられないものか、そう考え始めた時だった。
一匹の『死天使』が、甲高い雄たけびをあげながらわたしの脚に飛びかかってきた。次の瞬間、鋭いものが皮膚につき立てられる感覚があり、わたしの右脚はピンク色の怪物に抱きすくめられていた。
――こいつめ!離れろ!
わたしは威嚇の声をあげながら、脚にしがみついた『死天使』を必死で振り払おうとした。だがその間に次の『死天使』が左脚に飛びつき、わたしは両脚に怪物をぶら下げたまま、尻餅をついた。完全に逃げるすべを失ったわたしに、ピンク色の怪物が一匹、また一匹と距離を縮めてきた。
おかしい、とわたしは思った。『死天使』たちはただわたしの身体を覆い尽くし、肉の塊となって包みこんでいるだけだ。……もし『死天使』たちがわたしを捕食しようとしているのなら、かじりついた部分から夢中で肉を食らおうとするはずだが、一匹としてわたしの身体をむさぼる者はいない。これはどういうことなのか。
困惑する暇もなくわたしの身体は無数の『死天使』に覆われ、ついには視界までもが奪われた。闇の中でわたしは、ぴったりと密着した『死天使』とわたしの身体が溶けあうように融合するのを意識した。
――わたしはいったい、どうなるの?消化されて、こいつらの一部になるの?
身体の感覚が失われ、黒く塗りつぶされた世界の中でわたしは叫んだ。すると突然視界が開け、わたしは身体感覚が戻ったことを知った。思わず自分の身体を見下ろした瞬間、わたしは新たな恐怖に全身を貫かれた。
わたしは元の大きさの数倍はある、怪物になっていた。身体の表面は『死天使』が集まってできた肉色のこぶで覆われ、そこから短い手足のような物が申し訳程度に「生えて」いた。恐る恐る足を動かすと、ずるりという音がして、ステージの上に粘液のような光る筋ができた。
わたしは新たに得た視力で周囲を眺めた。視界に観客を食らうメンバーの姿が入った瞬間、体の奥底から得体のしれぬ衝動が沸き上がり、わたしは天に向かって咆哮した。
咆えた瞬間、観客を貪り食っていた六人が動きを止め、一斉にわたしの方を見た。その姿を見た瞬間、わたしは自分の悪魔のような咆哮が、彼らの本能的な恐怖を引き出したことを悟った。
わたしはもう一度、天に向かって咆哮した。するとわたしの頭頂部が花弁が開くように裂け、身体の中から鉤爪のついた触手が数本、勢いよく飛び出した。触手はステージの端で新たな獲物を捕らえようとしている優衣に巻き付くと、身体を締めあげた。
わたしは自由を奪われた優衣を高々と持ち上げると、そのまま自分の方に引き寄せた。
優衣を捉えた触手が、花弁のような「口」に近づいたその時だった。わたしの中に、思っても見なかった感情が湧きあがった。
――なんというおいしそうな餌なのだろう!これこそが、わたしの欲していた物だ!
わたしは優衣を捉えた触手を口の真上に持ってくると、ためらうことなく自分の口に放り込んだ。優衣がわたしの消化管を通り、できたばかりの胃の中へと落ちてゆくのを、わたしは得も言われぬ快感と共に意識した。
――ああ、おいしい!なんておいしいんだろう!
勢いづいたわたしは次々と仲間たちを食していった。五人目の脚が口に収まりきらず、外に飛び出しているうちに、わたしは六人目の陽乃を口元に運んでいた。
――これで最後だ……わたしの、勝ちだ!
わたしが陽乃の身体を口に入れようとした、その時だった。突然、腰の一点を強い痛みが襲った。最初は小さな火花だったその痛みは、やがて背中全体へと広がり、爆発した。
わたしは陽乃の身体を放り出すと、呻き声を上げてのけぞった。
――背中が、熱い!……なんだ、これは?
身体中の『死天使』たちもまたわたし同様、苦しみの声を上げて悶えていた。
腰から背骨にそって放たれた何かがわたしの意識に突き刺さり、身体全体に麻痺に似た痺れと、燃えるような激痛をもたらしていた。わたしは腰にある何かが、わずか数ミリほどの存在であることを感じ取っていた。
――これは……「
真琴が「おまじない」と称してわたしの腰に打ちこんだ、数ミリの鍼。
それが、わたしのあらゆる動きを封じているのだった。「鍼」の力に抗おうと、わたしは必死で身悶えしたが、「鍼」の放つ強力な鎮静効果が瞬く間にわたしの力を奪っていった。
「鍼」はなおも唸り続け、やがてわたしの全身を覆っていた『死天使』たちが溶けだし、ぼろぼろと剥がれ落ち始めた。わたしの頭部を覆っていた『死天使』が溶け始めると同時にわたしは再び視力を奪われ、溶けた肉塊の奥に没した。
やがて背中が固い物にあたる感触を覚えるとともに、瞼の裏側が強い光を捉えた。うっすらと開けたわたしの目に、紫がかった非現実の「空」が見えた。
どうやらわたしは怪物の身体を失い、もとの「わたし」に戻ったようだった。ステージに横たわり、空を見上げているだけのわたしには、もう何の力も残ってはいなかった。
――起きるんです。今なら身体を動かせるはずです。
ふいに頭上から声が降ってきた。わたしは横たわったまま顔を捻じ曲げ、声の主を探した。すると交差点に面しているビルの一つに陽光がはじけ、わたしの目を射た。
わたしはビルの壁面を見遣った。すると五階ほどの高さにある窓の一つに、作業服を着た男性の姿が見えた。
――ダカさん!
ダカさんはよく見ると、窓枠の上に置かれた小さな丸い物体に視線を注いでいた。
ダカさんは作業服のポケットからドライバーを取りだすと、明滅する光を放っている丸い物体に向けて、勢いよく打ちおろした。物体は一瞬で砕け、その場で四散した。
物体が砕け散るのとほぼ同時に、わたしは自分の身体が自由を取り戻したことを悟った。
――あれは……『御使い』の頭蓋骨だったんだ!
わたしはふらふらとその場に立ちあがった。ダカさんのいた窓にあらためて目をやると、すでに窓の中に人の気配はなかった。わたしは無残に汚れたステージと、倒れている犠牲者たちを見つめながら自問自答した。
――いったい、何がどうなってるの?どうしてわたしは仲間たちを食べようとしたの?
その時だった。頭の中に再び何者かの声が響き渡った。
――それはあなたが『ヴィヴィアン・キングダム』の戦士ではないからです。
初めて耳にする、それでいていつかどこかで聞いた覚えがあるような声だった。
――どういうこと?あなたは誰?
〈第三十回に続く〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます