第36話 理桜(26)死を運ぶ翼、滅びの日


「はい、補中益気湯ほちゅうえっきとう。……お母さんによろしくな」


 和緒は受け渡しカウンターの上にフィルムに入った漢方薬を並べて見せると、器用に紙袋に詰め始めた。


「ところでこの前の話の続きなんだが、ふと思ったことがある。……聞いてくれるか?」


「……うん。何?」


「ヘンリーの事さ。ヘンリーが七人の女の子にウィルスを託したのが、1910年代の初めだとすると、ちょっと気になる出来事が、その数年後に起きているんだ」


「気になる出来事って?」


「戦争だよ。第一次世界大戦だ。ヘンリーは戦争には行っていないと思うが、1917年ごろから、ヨーロッパを中心に、ある災厄が発生しているんだ」


「災厄?」


「スペイン風邪だよ。1918年ごろ、インフルエンザの一種としてアメリカとヨーロッパを中心に世界的な猛威を振るった疫病さ。ヨーロッパの人口の何分の一かが死亡したともいわれている。ヘンリーの記憶の中に出てきた画家のエゴン・シーレや、詩人のアポリネールも若くしてスペイン風邪で亡くなっている」


「まさかそのスペイン風邪と、ヘンリーが少女に託したウィルスとの間に関係があるとでも?」


「突飛な発想かもしれないけどね。スペイン風邪の発端は、一説にはシカゴだったという話もある」


「だって『御使い』のウィルスはそれほど多くの人間を殺すものじゃないって、そう言ったのは真琴ちゃんでしょ。そもそも、そんなにたくさんの人間を殺したら、人口のバランスが悪くなって、ウィルス自体が生きづらくなるんじゃない?」


「その通り。つまり『御使い』の計画になんらかの不具合が生じて、ウィルスの威力を抑えそこなったってわけさ。その結果、七人の少女たちの一部が、アメリカからヨーロッパに行く人間たちに、予想を超えて強力なウィルスを感染させた……というわけだ」


「不具合って?」


「ウィルスの威力を調整する「調整者」がうまく機能しなかった可能性がある。実はこの時期、ヘンリーは大事にしていた少女の写真を無くしてしまい、自暴自棄のような状態に陥っていたという話があるんだ。しかもそれは何年も続いたらしい」


「そんなことで「調整者」に影響が?」


「わからないが、元々、ヘンリーの体内で培養されたものだし、ヘンリーの精神状態、あるいは彼が「調整者」と交わしたコミュニケーションの行き違いなどで「調整者」の力が弱められたり、無力化された可能性が考えられる。こうして抑止力を失ったウィルスが海を渡ってヨーロッパで猛威を振るった……こういう考えはどうだい。妄想っぽいかな」


「わからない……でもその想像が当たっていたとしたら、わたしたちだって大勢の大人たちを殺す可能性があるってことよね」


「どうかな……大丈夫だと思うがな。どちらにせよ、君たちに罪はないさ」


 わたしは新たな戸惑いを胸に、薬局を後にした。いったんは思いきり楽しもうと決めたステージだが、果たして実行に移していいものだろうか?


 わたしは再び胸の奥に萌し始めた不安を、どうしても消し去ることができなかった。


                ※


 メディカル・タワーを出たわたしは、教会へと足を向けた。


 微かな期待を込めて礼拝堂の扉を開けてみたが、折悪しく人の気配は皆無だった。


 ――典子さん。やっぱりいなかったか。


 打ちひしがれつつ、礼拝堂を出ると、不意に横合いから声がかけられた。見ると、神父さんが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。


「こんにちは、深水さん。……おひとりですか、今日も」


「ええ。ちょっと典子さんにお会いしたくて」


 私が来意を告げると、どういうわけか神父さんの目が大きく見開かれた。


「これはまた……奇遇な。実はですね、つきさっき、典子さんから教会にファックスが届いたんですよ。見てみるとなんと深水さん、あなた宛てでした」


 わたしはえっと叫んで神父さんの顔を見返した。教会とファックスというとりあわせも新鮮だったが、私宛に来ていたということの唐突さがなにより衝撃だった。


「ご覧になりますか?」


「ええ、もちろん」


 私が頷くと、神父さんはいったん、事務室の方に引っこんだ。どきどきしながら待っているとやがて、茶封筒を手にした神父さんが姿を現した。


「これです。私も内容はあらためていないのですが、きっと彼女はあなたの来訪を察したのに違いありません。どうぞお読みください」


 わたしは封筒を受け取ると、その場で折りたたまれたファックス用紙を取りだした。


 おそるおそる広げてみると、端正な文字で記されたメッセージが現れた。


 深水理桜さま


 突然、手紙をもらって驚いていることと思います。詳しいことは話せませんが、あなたにどうしてもお伝えしたことがあります。それは、明日のステージには、できるなら予定通りに立ってほしいということです。


 余計なことは考えず、いつも通りに歌やダンスを楽しんでほしいのです。私も必ず近くで見させていただきます。大丈夫、あなたが恐れているようなことは、起こらないと思います。百年前に起こったことが、今度も起こるとは限りません。


 どうかご自分と、お仲間を信じて悔いのないライブをなさってください。みなさんに神のご加護がありますように。

                                    

                                朝馬典子


  わたしは目をみはった。いったいなぜ、典子さんはわたしが明日のライブを迷っていることを知っているのだ?


 やはり彼女は和緒がいうところの「調整者」なのか。『御使い』から、わたしたち七人の放つウィルスを打ち消す役割をあたえられているというのか。


 もし、そうなら。一人の死者も出すことなくライブを終えられるというのなら。


 やってみたい。初めての大きな舞台を、みんなで成功させてみたい。


 わたしはファックス用紙を封筒に収めると、神父さんに深く頭を下げた。


「わざわざすみません」


「良い知らせのようですね。先ほどと比べてなんだか、迷いが消えたように見えますよ」


 わたしはうなずいた。少なくとも運命と向き合う決心だけは、ついたような気がした。


 典子さん、わたしたち、全力でやらせていただきます。だから、必ず来てくださいね。


             〈第三十七話に続く〉

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