第35話 ヘンリー(10)理桜(25)喪われし面影


ミサを終えて礼拝堂を出ようとしたヘンリーは、神父の呼び止める声に、足を止めた。


「ヘンリー、この頃は真面目にミサに来るようになったな。信仰の大切さを忘れていなかったようで、ほっとしたよ」


 ヘンリーは黙ってかぶりを振った。


「何も信じられないから、ここに戻ってきたんです。僕には主の御心がわからない。ここに来れば、何が正しくて何が間違ってるか手がかりが見つかるかと思っていたけど、やっぱり何もわからないままだ」


「ヘンリー、主の御心を疑ってはいけないよ。一見、不幸と思える事があっても、そこには必ず理由があるのだ。今、世の中は戦争をしているが、わたしはこの戦争だって、我々には計り知れない意図の元に起きたものだと思っている」


「戦争なんて僕には関係ない」


 ヘンリーはきっぱりと言った。


「僕が知りたいのは、僕が信じているものが正しいか正しくないか、それだけだ」


「……ヘンリー」


「……また来ます。それじゃ」


ヘンリーは悲し気な表情を浮かべたままの神父に背を向けると、教会を出た。


 アパートへと向かう帰路を進みはじめてほどなく、ヘンリーは見覚えのある顔が通りの向こうからやってくることに気づいた。


「シュレー」


「……ヘンリーか!久しぶりだな。七年ぶりくらいか?」


 黒いコートに無精ひげの若い男は、かつてかかわった画家の卵、シュレーだった。


 シュレーとヘンリーは連れ立って道路脇へと移動すると、立ち話を始めた。


「ヘンリー、君は知っているか」


 シュレーはあたりをはばかるような小声になって言った。


「知ってるって、何をだい」


「レイチェルが、死んだ」


「レイチェルが?なぜ?」


「ヨーロッパで、戦争に巻き込まれたんだ。僕も詳しいことは知らない。なぜ、ヨーロッパに行ったかも含めてね」


「そんな……」


「ただ、アメリカを発つ少し前に、手紙をもらった。その手紙の中に、君のことが書かれていたんだ、ヘンリー」


「僕のことが?」


「君には申し訳ないことをした、と。君の宝物を奪ってしまったらしいことを悔いている文章だった。本当なら、シカゴを発つ前に謝罪しておくべきだったって」


「そうだったのか……わかったよ。もう終わったことだ。今さら彼女を責めるつもりはないよ、シュレー」


「今、ヨーロッパではスペイン風邪ってのが大流行している。噂ではもう何万人も死んだという話だ。僕が真似ていた画家のエゴン・シーレや、詩人のアポリネールも死んだらしい。芸術なんて、たかが風邪にすら勝てないのさ」


「それも仕方ないさ。世界は生きている者たちに託されているんだ」


「そうだな、それが神の御心というやつなら仕方がない。他人の絵の真似などやめろっていう天の声かもしれない」


「僕も、もう詩なんていらない。僕は僕の王国と世界を守る少女たちがいればそれでいい」


「ヘンリー、いろいろとありがとう。うまく生き残れることを祈ってるよ。さようなら」


「ああ、シュレー、君には世話になった。いい絵を描けることを祈ってるよ。さようなら」


 ヘンリーはシュレーとすれ違うと、再び歩き出した。シカゴの街角に吹く初秋の風は、十年前にヘンリーがシカゴに戻ってきた時よりも、冷たさを増しているように思えた。


                  ※


 百草もぐさの燃える匂いが鼻先に漂い始めると、それまで固く身体を守っていたわたしの「武装」は、やすやすと解かれていった。


「あら、なんだか今日は体がすっきりしてるわね。やっぱりはりは効くのかしらね」


 真琴は楽し気に言うと、ふくらはぎに打った鍼の百草に火をつけた。


「何せあなたときたら、身体の中に間違っていたずら好きの魔物を住まわせちゃったみたいだものね。自分で自分をうまく飼いならせなくて、困ってるって感じ。今日は悪いところに片っ端から「おまじない」をしてあげる」


 真琴は、わたしの背にまたがると、「こら、悪者。中にいるなら、出て来なさい」と言いながら背骨の両側を手で揉みはじめた。


「ねえ、わたしの身体に悪いものがいるとして、わたしの身体で何かを企んでいるとしたら、どうすればいいのかな」


「知らん顔してればいいのよ。あなたは大家さんなんだから、店子の事ばかり気にしてたらまいっちゃうわよ。時々、様子をうかがうくらいにして、あとはすましてれば、いいの。

……どれどれ、素行の悪い住人は、どのお部屋かしら?」


 真琴は、背中をあちこち指で確かめるように押していった。やがて、身体の表面をまさぐっていた指が、ある一点で止まった。腰のすぐ上のあたりだった。


「ここに何かありそうね。……ようし、もう一本、スペシャルなおまじないを打っておくか」


 真琴は施術台から降りると、いったんわたしに背を向けた。しばらくして戻ってきた真琴は再びわたしに馬乗りになると、先ほど指を止めた位置をさすり始めた。


「さ、いくわよ」


 ちくりと小さな痛みがあり、鍼の尻を指でとんとんと叩く感触があった。


「この鍼は長さが数ミリしかない特製の鍼よ。小さいけど効果はてきめんだからね」


 そういうと、真琴は鼻歌を歌いながら、先に燃え尽きた百草の回収をはじめた。わたしはうつぶせのまま、これがウィルスにも効いたらどんなにいいだろう、と思った。


「あ、そうそう。和緒が薬ができてるって言ってたから、帰りに薬局に寄ってみて」


 真琴はそうわたしに告げると、再び鼻歌の続きを歌い始めた。


         〈第三十六回に続く〉




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