第34話 理桜(24)朽ち果てし黒き翼
わたしはあらためてボイラーとそれを取り巻くパイプたちを眺めた。最初は薄気味悪く見えたそれらは、今見るとたのもしい、生命力の塊に思えてくるのだった。
よし、ゴミ処理室に戻ろうか。そう思って体の向きを変えようとした、その時だった。
痛い、痛い、助けてえええっ!
先ほどとは異なる「声」がボイラー室に響いた。なんだ?わたしは部屋を出るのを中断し、声のしたほうに移動した。
二つの大型ボイラーにはさまれた場所に、木の幹を思わせる太いパイプが二本、縦に走っていた。そのうちの一本に、見覚えのある生物がしがみついていた。
人間の赤ん坊を思わせる生き物――『御使い』によると『死天使』という名らしい――がパイプに歯を立てて表皮を食いちぎろうとしているのだった。
――どうしてこんなところに?
天使とは程遠い邪悪な表情を浮かべた『死天使』は、何度も繰り返しパイプに噛みついた。やがて、歯を立てた部分が赤く染まったかと思うと、血のような赤い液体が滲みはじめた。
やめて、やめてやめて――――
――ひどい!何とかして止めさせなきゃ!
わたしが近づくと、気配に気づいたのか『死天使』はパイプから口を離し、顔を上げてこちらを見た。『死天使』はわたしに向かって威嚇するような唸り声を上げると、再びパイプの表皮に歯を立てた。わたしは床の上に視線を走らせた。
何かこいつを追い払えるような道具はないだろうか。期待を込めてあちこち目を動かすと、少し離れた場所にスパナらしき物が落ちているのが見えた。
わたしは『死天使』に悟られぬようそっと移動すると、気配を殺しながら身をかがめてスパナを拾いあげた。
『死天使』はパイプの体液を吸うことに夢中らしく、わたしの動きには気づいていないように思われた。わたしは『死天使』の背後に静かに歩み寄ると、スパナを握る指に力を込め、背中の羽根めがけて打ちおろした。
ぎゃあああっ!
悲鳴が響き渡り、『死天使』がパイプから離れて床の上に転がった。
――ごめんなさい、ごめんなさい。
わたしはスパナを放り出すと、自分でもよくわからない謝罪の言葉を発しながらボイラー室を飛び出した。ドアをくぐり抜けたわたしは、恐怖から逃れたい一心ですぐそばのゴミ処理室に飛び込んだ。ふらふらとプレス機の前に移動したわたしは体を二つに折り、頭を振りながら激しくあえいだ。
――お願い、ダカさん。早く戻ってきて。こんな異様な世界、もう耐えられない。
祈るような気持ちで呼吸を整えていると、突然、ドアに何かがぶつかる音がした。
わたしは思わず振り返り、ドアを凝視した。音はどん、どんと複数回繰り返された。
やがてドアが弾かれたように開け放たれたかと思うと、小さな黒い塊が室内に飛び込んできた。
危険を感じたわたしは咄嗟に身をひるがえしたが、それより黒い影がわたしの右手に飛びかかる方が一瞬、早かった。
「うっ」
黒い影の正体は、先ほど私がスパナで打ちのめした『死天使』だった。
『死天使』はわたしの右腕に勢いよく噛みつくと、腕の肉を噛みちぎろうとした。
「いたあああああいいっ」
わたしは絶叫した。こいつはパイプだけでなく、わたしをも貪り食おうというのか。
痛みとともにわたしの頭の中で、何かが爆発した。こいつは魔物だ。許してくれるような相手ではない。それならわたしも、とことん戦うまでだ!
わたしは腕に『死天使』をぶら下げたまま、プレス機の方に向き直った。そして開いているゴミ搬入口に自分の右腕を、しがみついている『死天使』ごと突っ込んだ。
――これでどうだ!
わたしは左手で、プレス機の作動ダイヤルを回した。……が、待ってもプレス機が動く気配は無かった。
――どうして?
困惑するわたしの右腕がびくびくと勝手に動いた。噛みついている『死天使』が、プレス機の外へ出ようともがいているらしかった。
――わかった。……センサーだ!
わたしは咄嗟に左手を頭の後ろに回し、髪をまとめているヘアピンを一本、引き抜いた。
留めてあった髪の一部がはらりと首筋に落ち、わたしはヘアピンをセンサーの受け口につき刺した。奥の方でかちりとスイッチが入る感触があり、わたしは左手でピンを押さえたまま、ダイヤルに噛みついた。
――さあ、これならどう!
わたしはダイヤルを歯でがっちりと銜え、そのまま頭を横に回した。鈍い作動音が聞こえ始め、金属板が上の方から降りてきた。
そのまま待っていると、やがて板がわたしの左腕を押しつぶし始めた。ぎし、ぎしと骨が軋むような圧迫感があり、腕全体に激痛が走った。わたしは悲鳴を上げながら、ひたすらチャンスを待った。
――ぎゃあああっ!
腕とともに『死天使』がじわじわと押しつぶされてゆくのがわかった。あと少し……
わたしは激痛に堪えながら、機械の奥に腕を押し込み続けた。やがて腕からしがみついていた力がふっとはずれる感覚があった。わたしは素早く右腕を抜くと、ヘアピンをセンサーの穴から引き抜いた。同時に作動音が消え、金属板の動きがぴたりと止まった。
わたしはハッチの取っ手に手をかけると、内部を見据えた。金属板とゴミの間のわずかな隙間から一瞬、凶悪な目がわたしを睨み付けるのが見えた。
わたしは搬入ハッチを勢いよく閉めると、再びダイヤルを回した。
――これで最後にして、お願い!
ごおんという作動音が聞こえ始め、同時に凄まじい断末魔の悲鳴がこだました。プレス機の隙間という隙間から赤黒い液体がどくどくとあふれ出し、やがて機械の動きが力尽きたように止まった。
わたしは床の上にへたり込むと、そのままごろりと仰向けになった。
顔を捻じ曲げてプレス機の方を見ると、驚いたことに赤黒い液体が凄まじい勢いで床の表面に吸い込まれてゆくのが見えた。同時にぶよぶよした質感だった壁面が、みるみるうちに固いコンクリートの表面へと戻ってゆくのが見えた。
わたしの呼吸が元の落ち着きを取り戻すまでの短い間に、ゴミ処理室は以前見た時と同じ風景を取り戻していた。
わたしは体を起こすと、ふらふらとドアの方に引き返した。
――もうダカさんに会えなくてもいい、このまま帰ろう。
処理室を出ると廊下の風景も、処理室同様に元の状態を取り戻していた。わたしは搬入出用エレベーターの前に立つと、一階のボタンを押した。
待っているとやがて地階のランプが灯り、ドアが開いた。箱に乗り込み上昇が始まると、一気に全身から力が抜けていった。
――「非現実」がどこまでも追ってくるというのなら、わたしはもう逃げない。
……とことん、戦ってやるまでだ!
〈第三十五回に続く〉
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