第33話 理桜(23)仄暗く濡れた洞
薬局を出てエレベーターに乗ると、わたしの後から年配の男性が大きなダンボール箱を抱えて乗り込んできた。
「すみません、ご一緒させてください。貨物用のがメンテナンス中みたいで」
男性はそう言って頭を下げた。いつかストレッチャーの上から見た、ダカさんらしき男性と同じ作業服だった。
わたしはふと、このまま乗っていれば地下まで行くのだろうか、と思った。だがわたしの目論見は外れ、エレベーターは一階で止まると、それ以上下へは行かなかった。
わたしは箱から降り、ぼんやりとロビーの中を見回した。この近くに直接、地下のゴミ処理室につながっているエレベーターはないのだろうか。
そんな事を考えていると、トイレなどのある奥まった一角に目が吸い寄せられた。
機械が動くような重い音がして、死角から現れたのは小型の台車を押している女性だった。あれは、搬入用のエレベーターから降りてきたところではないだろうか。
わたしは女性がロビーを横切って姿を消すのを待ち、周囲に人気がないことを確かめると、女性が出てきた一角に足を向けた。
思った通り、ちょうど廊下を挟んでトイレのはす向かいに搬入出用のエレベーターがあった。階数数表示を見ると、地上十一階から地下二階までとなっていた。しめた、おあつらえ向きだとわたしは内心、小躍りした。
表示のランプを見ると、八階が点灯していた。箱はどうやら上に行っているようだ。
わたしは地下一階のボタンを押し、改めて周囲を見回した。あきらかに関係者でない人間が業務用のエレベーターに乗ろうとしているのだ。見とがめられたらそれまでだった。
わたしはあたりに気を払いながら、箱が降りてくるのを待った。一階の表示が灯り、ドアが開くとわたしは素早く箱の内側に飛び込んだ。
箱が降下し始めると、今度はにわかに心臓が高鳴り始めた。どうしよう、ドアが開いた時、向こう側に誰かがいたら。
地下一階のランプが灯り、ずしんと重力を感じた瞬間、わたしは思わず身がまえた。そしてドアが開いた瞬間、わたしはそこに見えた風景に思わず目を見開いていた。
――なんだこれは。
そこは、以前訪れたことのある地下の風景に、形だけはよく似ていた。だが、今回はまったく違う質感の物質が壁や天井を覆っていた。
以前はクリーム色のリノリウムに覆われた暗い通路だったのに対し、今回は周囲のすべてが全体に赤黒く、粘液のような物でぬらぬらと光っていた。それは一言で言うなら、肉とか粘膜とかそういった質感の物質だった。
わたしはおそるおそる、エレベーターを出て一歩を踏み出した。床もどこか柔らかく、脚の裏が貼りつきそうなべったりした感触が伝わってきた。
わたしは取り合えず、ゴミ収集室を目指すことにした。幸い、少し進むと左手に「ゴミ収集室」と表記されたアルミ製のドアが現れた。
私は思い切ってドアノブに手をかけ、そっと手前に引いた。細めに開いた隙間から中を覗くと、室内もまた廊下同様に赤黒い物質に覆われていた。
どうやら誰もいないらしく、ぶよぶよした床の上に、以前、夢で見たのと同じようにプレス機が鎮座していた。
プレス機の見た目はそのままだったが、天井を這う無数のダクトが前回とは違っていた。
ダクトは消化器を思わせるピンクや黄土色のぶよぶよした管に変わっており、あまりの生々しさにわたしは思わず開けかけた扉を閉めた。
――どうしよう。ここで待っていれば、そのうちダカさんが戻ってくるだろうか。
そんな事を考えていると、どこからか人の声を思わせるか細い響きが聞こえてきた。
くるしいよう くるしいよう
わたしは顔の向きを変え、廊下の突き当りにあるドアを見据えた。どうやら声はドアの向こう側から聞こえてくるようだった。わたしは思いきって、突き当りのドアを開けた。
ドアの向こうはやはり以前、訪れたことのあるボイラー室だった。
ボイラー室の見た目は、ゴミ処理室以上に変わり果てていた。空間の大半を占めるパイプとタンクがすべて、内臓めいた柔らかな物質に入れ替わっていたのだった。
ここはボイラー室だ、生き物の腹の中じゃない。そう思っても、パイプは伸びたり縮んだりしながら時折、ぐるぐると音を立てて蒸気だか何だかわからない気体を噴き出している。ぶるぶると震えたり痙攣するような動きを見せているそれらの物体を眺めていると、やはり「生きている」としか思えないのだった。
わたしは息を詰め、ドアの外で聞いた声の出どころを探った。するとほどなく、先ほど耳にしたのと同じ「呻き声」がわたしの耳に飛び込んできた。
くるしいよう くるしいよう
わたしは声のしたほうに移動した。大型のボイラーと思しきピンクの塊の横をすり抜け、網目状にパイプが行き交う一角に近づくと、交錯するパイプの一本が時折、震えたり身をよじったりしているのが見えた。苦し気な声はどうやら、そこから出ているらしい。
「どこが苦しいの」
わたしは思わず、パイプに話しかけていた。……と、また空気を震わせるように声がした。
ぜんぶ。ぜんぶくるしい……はやくおしてくれ
「押す?押すって手で押せばいいの?」
わたしは黄色みがかったパイプの表面に両手を当てた。微かなぬくもりとともに、しっとりと濡れた感触が手の平に伝わってきた。
赤く……赤く光ったところを押して
また声が空気を震わせた。わたしはパイプの表面を凝視した。すると、わたしが手を当てた場所のすぐ近くに発疹のような赤い点がぼうっと現れた。わたしは赤い光点に指をあてがうと、思い切って強く押した。
ああああぅううっ
くぐもった呻き声が響いたかと思うと、パイプが二、三度びくびくと痙攣した。
わたしは指先に伝わる弾力にひるみつつ、力を加え続けた。……と、ふいに指先から抵抗が消え、赤い光が表面から失われた。恐る恐る指を離すと、不規則な動きを続けていたパイプがまるで目を覚ましたかのように水平にピンと伸びた。
「もう、いいの?楽になった?」
わたしの問いにパイプは「ぶうん」と低いうなりで応じた。どうやら喋らないで済むようになったことが、状況が改善した証らしい。わたしはほっと息をつくと、壁際の方へ引き返した。
近くの配電盤らしきパネルには、よく見ると心臓を思わせる球体がくっついており、どくどくと脈打っていた。そうか、とわたしは頷いた。
ボイラーであれ何であれ、一度命を与えられ動き出したものは、止まるまで皆「生きている」のだ。人が作ったものかそうでないかは関係ない。そこには「命」が存在するのだ。
〈第三十四回に続く〉
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