第32話 理桜(22)声なき者、顰に宿る
過去の幻から戻ってきたわたしは、長椅子で目を覚ました。
女の子の姿はすでになく、わたしは陽の陰った礼拝堂に一人取り残されていた。
――結局、来なかったんだ、ダカさんは。
わたしは少しがっかりしながら、あたりを見回した。……と、すぐ近くの椅子の上に一冊の文庫本が置き忘れられていることに気づいた。手に取り、題名をあらためたわたしは、はっとなった。表紙に『アポリネール詩集』とあったからだ。わたしは本の頁をめくった。
夢で見たヘンリーの日常が甦り、百年の時間が一瞬、引き寄せあったように感じられた。
――ダカさんが来て、置いていった?……まさか。
※
「ふうん、ヘンリー・ダーガーの時代を追体験した、か。……これは一体、どういうふうに解釈すればいいのかな」
私が長い話をどうにか終えると、和緒は途方に暮れたように天井を見上げた。
「まず理桜ちゃんは、ヘンリーの日常を追体験できるほど、彼に関する知識がないわけだから、それだけ細かい描写ができるっていう時点でもう、ただの夢じゃないってことになるよな。
……しかし世の中には自分の知らないことを「生まれ変わり」と称して延々と細部に至るまで語ってしまう人もいるし、これを夢と片づけてしまうか否かで、今後の考え方も変わってしまうんだよなあ」
「わたしだって、自分にヘンリーが乗り移っただなんて、思ってないよ。でもあの『御使い』の頭蓋骨がもし本当にあるのなら、こういう事が起こってもおかしくないのかなって」
「ふむ、それじゃあその『御使い』の頭蓋骨が、死んだ後も記憶や意識エネルギーみたいなものを保存できる装置だとして、『御使い』とはどういう存在なのかを考えてみよう」
わたしはうなずき、和緒が考えをまとめるのを待った。しばしの沈黙の後、和緒は「難しいなあ」と唸って腕組みをした。
「まず、『御使い』が実在する生物だと仮定して話をしよう。いにしえの時代から何百年も生き続けてきた謎の生物、ヘンリー以外の人間には見えない、特殊な生物だ。俺はこの「見えない」という現象は、ある種の「擬態」だと思う」
「擬態?」
「ほら、蝶が自分を葉っぱに見せかけるとか、ああいうやつだよ。おそらく『御使い』は、人によって鳥とかネズミとか、自分をいろいろな生物に見せる能力を持っているのだろう。周囲の人たちは『御使い』を見ているにも関わらず、それが何なのか正しく認識できていないんだ。
ヘンリーがたまたま『御使い』に気づき、悪魔のように感じたのは、ヘンリーが最初から『御使い』を認識できるアンテナを持っていたからだろう」
「つまり「ダカさん」も、そういうアンテナを持った人間の一人だったというわけね」
「そう。ここで問題なのは、『御使い』が、ヘンリーに近づいてきた理由とその「願い」についてだ。『御使い』は、一体なんの目的で人間と行動を共にするのだろう。……以前、君の話を聞いてから、俺は色々と考えた。そして一つの仮説を捻りだした」
「どんな?」
「『御使い』は、ある種のウィルスのキャリアじゃないか、という仮説だ」
「ウィルス?」
思っても見ない言葉に、わたしは唖然とした。
「そう。インフルエンザとかはしかとか、ああいったウィルスを身体の中に常に住まわせていて、本人は感染しない。そしてウィルスが望むような行動を取ることが、そのまま『御使い』の生態上の特徴でもあるというわけさ」
「じゃあ、『御使い』の願いはウィルスの願いだってこと?」
「そう。『御使い』がヘンリーに女の子を七人、選ぶよう命じたのも、ウィルスがそう仕向けたからだろう」
「どうして女の子を?なぜヘンリーに選ばせたの?」
「おそらく『御使い』は、自分の保有するウィルスを自分が選んだ人間――ウィルスを変異させるのに都合のよい「妄想力」に秀でた人間――の体内に移して培養したんだと思う」
「妄想力?」
「そう。妄想力がウィルスを育てるんだ。培養槽となったヘンリーは、自分の選んだ七人の女の子にウィルスを感染させる。そしてヘンリーに選ばれた少女たちはあちこちに散り、さらに多くの人に大人を減らすウィルスをまき散らす、というわけだ」
「待って。もしダカさんが『御使い』が百年ぶりに選んだ培養槽だとしたら、ダカさんもまた、女の子を七人選んだことになるわ。それってつまり……」
「おそらく『ヴィヴィアン・キングダム』の七人だろうね」
わたしは頭をハンマーで殴られたような衝撃を感じた。ダカさんが、わたしたちをウィルスをまき散らす手先に選んだ?
「それで『御使い』は結局、何をしたいの?大人を全部、滅ぼしたいの?」
「まさか。大人をすべて滅ぼしたら、ウィルスの生息環境も多様さを失うことになる。ウィルスが望んでいるのは、年齢や性別の人口比を調節することだよ。つまり、適度に大人の数を減らすということだ」
「よくわからないんだけど」
「たとえば、子供の身体を好むウィルスがいるとする。そいつにとって、大人がのさばって子供が生きづらい世界になると、自分の生息環境が悪化することになる。そうならないよう、そいつは大人の数を適度に減らすウィルスを作りだすというわけだ」
わたしははっとした。……そうだ、あの廃病院で会った死者たちは、わたしが子供の頃に流行った疫病で亡くなった人たちだという。その病気はわたしが通っていた教会から広まり、最初に感染した子供たちが死なず、子供たちから感染した大人が死んだ……
「つまり、わたしとほかの六人の女の子たちが、ウィルスをまき散らした?大人の数を減らすために」
「残念だけど、そうなるね。でもおそらくその時は『御使い』の望み通りにはならなかった。……よくわからないけど、計画は途中で頓挫したんだ」
「それでその時の七人を十年後にもう一度集めた……それが『ヴィヴィアン・キングダム』だってこと?」
「おそらくね。『御使い』はヘンリーの時と同じように、少女たちを使って大人の数を減らそうとした。『御使い』の意識が生きているとすれば、君たち七人になんとかウィルスをまき散らす役割を担ってほしい……というところだろう」
わたしはその場にへたりこみそうになった。わたしが、わたしたちが、ウィルスをまき散らすというのか――
「まあ、気にするな。今の話はすべて仮説だ。何かが起きても君の責任じゃない」
わたしは天を仰いだ。本当にそんなウィルスが、わたしの体の中にあるのだろうか?
「わたしたち……解散した方がいいのかな」
「そんなことはないさ。誰だって自分でも気づかないうちに、何かの原因になっていることはある。とにもかくにも、その何かが起きてみないことには何一つわからないのさ」
「だって何十人もの大人が、わたしたちのまき散らしたウィルスで死ぬかもしれないのよ。平気じゃいられないわ」
「そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。夢の中にレイチェルという女の子がいただろう?彼女はウィルスの広がりを抑制する「調整者」なのかもしれない」
「調整者?」
「ウィルスにとってもっとも重要なことは、自分にとって最適な環境が、最適な数で存在することだ。距離を置きつつウィルスの活動を眺め、爆発的に広がりそうだと思ったら、ウィルスの増殖をストップさせる。「調整者」はそんな存在だ。君たち七人の周囲に、そんな風に遠巻きに見守っている存在はいないかい?」
「……まさか、典子さん?」
「彼女がその気になれば、七人の少女が持っているウィルスを全滅させることだって、できるんじゃないのかな」
「だといいんだけど……」
わたしは力なく呟いた。あとはもう、和緒の仮説に望みを託すしかなさそうだった。
〈第三十三話に続く〉
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