第31話 ヘンリー(10)希人よ異邦へ還れ
「一体、どういうことなんだ、これは!……誰だ、僕の大切な宝物を盗んだ奴は!」
ヘンリーは叫びながら、部屋の中をぐるぐると歩き回った。わめき声を聞きつけたアパートの大家がドアを叩いても、まるで応じようとしなかった。
「盗まれたんだ、宝物が。……ああ、なんてこった!」
ヘンリーは、スケッチブックを閉じたり開いたりして中を何度もあらためた。
「だめだ、やっぱりどこにもない。――ああ、こんなことになるのなら、スケッチブックなんかに挟んでおくんじゃなかった」
ヘンリーは部屋の中を狂った熊のように歩き回った挙句、疲れ果ててしゃがみこんだ。
やがてヘンリーの脳裏に、ひとつの光景が甦った。
そうだ、公園だ。公園に行ったあの日から、写真がなくなったんだ。だとすると……
――レイチェル。そうだ、レイチェルだ。僕以外であの日、唯一、このスケッチブックを手にする機会のあった人間。しかし、彼女がなぜ?
考えを巡らせているうちにふと、職場の年配女性に言われた言葉が甦った。
――いい年の男が女の子の近くをうろうろしてると、何かよからぬ事を企んでるんじゃないかって目で見られがちなのさ。
「レイチェル、ひょっとすると君は、僕のためを思ってあの写真を盗んだのか?あれが犯罪がらみの、殺された女の子の写真だからか。……全く君は、何一つわかっちゃいない!」
ヘンリーはいっそう大きな声で、レイチェルへの恨みをわめき散らし始めた。
「僕が捕まるとでも思ったのか?レイチェル、君のしでかしたことは取り返しのつかない罪だったんだ!レイチェル、今すぐ、あの写真を返してくれ。さもないと僕は一生、君のことを憎み続けることになるぞ!」
ヘンリーはなおもわめき続け、集めたばかりの写真を引きちぎり、世界を呪った。
――ほかの女の子の写真なんて、どうでもいい。あの子の、あの被害者の子の写真がなくなったら、僕の王国は廃墟と化したも同然だ!何が詩だ、詩などいらない。薄汚い大人になんぞ、一生、なってやるものか!
※
「ヘンリー?どうしたんだ、突然。もうここへは来ないでくれといったろう」
シュレーは戸口のところに現れたヘンリーを見るなり、顔をしかめた。
「レイチェルはどこに住んでる?教えてくれないか」
ヘンリーが尋ねると、訪れた理由を察したのか、シュレーはふんと鼻を鳴らした。
「僕も知らないよ。いつも彼女の方から気まぐれにやってくるんだ。……それに、彼女はもうシカゴにはいないかもしれないぜ、ヘンリー」
「なんだって?どういうことだい」
「彼女はもともと、外交官か何かの、ようするに「いいところのお嬢さん」なのさ。元の生活に戻った可能性が高いと僕は思う」
「そうだったのか」
「ヘンリー、彼女と何かあったのか」
「彼女は、僕の大事な宝物を盗んで行った」
「宝物?……いったいなんだい」
ヘンリーは、スケッチブックに挟んでおいた写真の事を打ち明けた。写真が殺された少女の物であることを打ち明けると、一瞬、シュレーの眉が顰められた。が、ヘンリーは構わず、その写真が自分にとっていかに必要なものであるかを熱を込めて語った。
「ヘンリー。もうその写真はあきらめたほうがいい。……わかるだろう?僕や君のように特殊な嗜好を持った人間は、まともな連中からすれば「なにをしでかすかわからない危ない人間」なんだ。
そんな、犯罪にまつわるような写真を大っぴらに探し回ってみろ、たちまち警察に目をつけられて、しまいには覚えのない事件の容疑者にされてしまうぞ。
レイチェルが写真を持っていった犯人だとしても、それは君の身を案じての行為だ、ヘンリー」
「そんなことは、わかってるよ、シュレー。でも、自分でもどうにもならないんだ。僕はあの写真がないと駄目なんだよ」
「ヘンリー、その気持ちは良くわかるよ。僕や君はそういう特殊な偏りを持った人間だ。だが、僕ら以外の誰に、僕らの気持ちを理解できる?
君がレイチェルを追いかけたいというなら、それは構わない。だが、あの写真を手元に置いておくのはやめたほうがいい。
たとえ彼女の手から取り返したとしても、誰かに写真を持っていると知られたら、それで終わりだ。
悪いことは言わない、ヘンリー、君の「王国」とやらをこれからも守り続けたいのなら、あの写真はあきらめるべきだ」
「……わかったよ、シュレー。君には結局、僕の気持ちはわからないんだってことが」
「ヘンリー。君は僕がこのシカゴで出会った、数少ない「同じ種類の人間」だと思う。僕は君に、ある種の親しみさえ感じているんだ。だから君が、犯罪者まがいの扱いを受けることになるのは正直、辛いんだ」
「ありがとう、シュレー。その気持ちだけ受け取っておくよ。邪魔してすまない。もう本当にここには二度と来ないよ」
ヘンリーはシュレーに背を向けると、アトリエを出た。背中にシュレーが何か声をかけてくるのがわかったが、あえて振り返ることなく階段を上り始めた。
――みんなわかっちゃいない。犯罪が絡んでいるかどうかなんて関係ないんだ。僕にとって重要なのは、あの写真、ただそれだけだ。外の世界で何が起ころうと、僕の知ったことじゃない。
……シュレー、君は確かにいい奴だが、やはり僕と君は違うんだ。
※
――ヘンリー、忙しそうだね。
紙の束に向かって筆を走らせているヘンリーに向かって、『御使い』が声をかけてきた。
「ああ、忙しいとも。僕の王国は今、罪人をさばくのにてんてこまいさ」
ヘンリーは憎悪に満ちた口調で吐き捨てるように言うと、筆を止めた。
――ヘンリー、少し話したいんだが、いいかな。
「いいよ。でもあいにく今は楽しい話をする気分じゃない」
――ああ、そうだろう。……レイチェルの事なんだが……なにかあったのか?
「別に何も。彼女がどうかしたのかい」
――彼女は父親とヨーロッパへ行ってしまった。そろそろ戦争も始まりそうだ。気にならないのかい?
「気にならないよ。たとえ彼女が戦争に巻き込まれても、僕は手紙一通、書くつもりはないよ」
――そうか、その言葉でよくわかったよ。それで「あれ」が広がったんだな。
「何だい、「あれ」って」
――ヘンリー、正直、君には失望したよ。あと少しでうまく行くところだったのに。
「なんのことだい。僕だって落ち込んでるんだ。君の愚痴なんて聞きたくないな」
――そうだろうとも、ヘンリー。これからも君は君の「王国」を栄えさせることに全力をつくしたらいい。そろそろお別れだ、ヘンリー。
「ああ、僕は構わないよ、『御使い』。君の見せてくれる「夢」はとても楽しかった。さようなら」
ヘンリーはやけ気味の口調で言った。もう惑わされるのはまっぴらだった。大人たちにも、レイチェルにも、そして『御使い』にも。
――ヘンリー、君はきっと自分の力に一生、気づくことはないだろう。君が無意識に行っていることがどれほど世界に、他の人たちに影響を及ぼしているか、君は死ぬまで理解できないんだ。
「そうかい、僕はそれでも構わないよ。僕の知らないところで何が起ころうが、僕は僕の「王国」が危険にさらされなければそれでいい。死んだ後のことなんて、知るもんか」
――そうか、ならば仕方ない。……会えてよかったよ、ヘンリー。
「僕もだ、『御使い』。いつか君の夢が叶うことを祈っているよ」
ヘンリーはふと、耳元で羽ばたきのような音を聞いたように思った。次の瞬間、『御使い』の気配は彼の周囲から完全に消え去っていた。
――そう、僕の王国は僕が生きている限り、これからも続いていくに決まってる。三十年も、五十年も、ずっと永遠に。
〈第三十二回に続く〉
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