第30話 ヘンリー(9)喪われし幼き肖像


「ヘンリー、あんた仕事の行き帰りにおかしな寄り道をしてやしないだろうね?」


 ヘンリーと清掃の仕事を分け合っている中年の女性職員が、唐突に眉をひそめて言った。


「どういうこと?」


「通りすがりの女の子たちを、じろじろ眺めまわしたりしてないかってことさ。近頃、おまわりがうるさいからさ。……ほら、女の子が誘拐されて殺されたっていう事件があったろう?あんたみたいないい年の男が女の子の近くをうろうろしてると、何かよからぬ事を企んでるんじゃないかって目で見られがちなのさ」


「気をつけるよ。どうもありがとう」


 その日、ヘンリーはいつものように「選別」するはずの雑誌に手を付けなかった。


 写真を破りとるという行為を誰かに見られたら、あらぬ疑いをかけられるのではないかと思ったのだ。


 ――少しは自分で女の子の絵を描けるようにならないといけないのかな。


 ヘンリーは思わず雑誌に伸びかけた手を止めると、ため息をついた。


 ――ゴミ箱の新聞くらいなら、大丈夫かな。


 ヘンリーはドアの外から人の気配が消えたのを見計らい、ゴミ箱に手を伸ばした。


 できるだけ音を立てぬようそっと蓋を開けると、ぐしゃぐしゃの新聞が数枚、押し込められているのが見えた。だが、ヘンリーの手がそれ以上動くことはなかった。ちらと見ただけでも、魅力的な写真がないことは明らかだったからだ。


 ――近頃は、つまらない写真が多いな。


 そう思い、ゴミ箱に背を向けようとした、その時だった。ゴミ箱の蓋からはみ出していた新聞の写真が、ヘンリーの目を釘付けにした。


 それは、少女の写真だった。


 ヘンリーはいったん引っこめかけた手を空中で止め、再びゴミ箱へと伸ばした。ヘンリーは新聞を引っ張り出すと、記事の写真をつぶさに眺めた。


 それは不幸な誘拐殺人について書かれた記事だった。被害者は五歳の少女で、写真は生前の姿を写した物だった。


 ヘンリーは慣れた手つきで写真を破りとると、ためらうことなくポケットに押し込んだ。


 記事の内容はスキャンダラスかつ悲劇的なものだったが、ヘンリーには記事の内容は関係がなかった。ヘンリーは少女の無垢な表情に、一瞬で心を奪われたのだった。


 ――あんまり怪しげなことを繰り返してると、警察に目をつけられるよ。


  女性職員の言葉が一瞬、脳裏をよぎったが、写真の少女の魅力には抗えなかった。


                 ※


 スケッチブックからヘンリーが顔を上げると、少女たちの姿はすでに彼の視界から消え去った後だった。ヘンリーはなるべく怪しく見えぬよう、さりげなく目だけを動かして少女たちの行方を追った。


 幸い、ヘンリーの「モデル」たちは少し離れたベンチの周りで固まって休んでいた。


 ヘンリーは再びスケッチブックに視線を落とすと、記憶を頼りに「顔」のスケッチに挑みはじめた。


 ――くそっ、これじゃあただの「丸」だ。「顔」じゃない。


 ヘンリーは鉛筆を手から離すと、歯ぎしりした。再びモデルたちに視線を戻そうという気にはならなかった。所詮、動いている少女たちを紙の上に書き写す能力など、自分には与えられていないのだ。


 無駄かもしれないと心の片隅で思いながら、公園までのこのこやってきた自分を、ヘンリーは嘲笑いたくなった。


「ヘンリー、ヘンリーじゃない。……普通に絵を描く気になったのね。嬉しいわ」


 いきなり声をかけられ、ヘンリーは振り返った。思った通り、そこにはレイチェルの姿があった。


「久しぶりだね、レイチェル」


 もうこの娘とは会わないと決めたのに、どうして神様はこんなばかげた悪戯をするんだろう?


「頑張っているのね、ヘンリー。でも焦らないで。まだきっと、デッサンに手が慣れていないと思うわ」


「たくさん丸を描けば、手が慣れるとでもいうのかい?僕にはもともと、絵を描く力が無いんだよ」


「そんなことないわ、ヘンリー。……そうだ、気分転換にホットドッグでも食べない?この間、気まずい思いをさせちゃったから、私がおごるわ」


 レイチェルの何気ない一言がその時、ヘンリーの気持ちを波立たせた。まるっきり少女のようでありながら時に母親のような気づかいもみせたりする、そんな女の子の目まぐるしさは、ヘンリーがもっとも苦手とする部分でもあった。


「いいよ、レイチェル。僕がおごるよ。昨日の給料がそっくり残ってるんだ」


 ヘンリーはスケッチブックをベンチの背に立てかけると、レイチェルの前を離れた。


 少し離れたスタンドから二人分のホットドッグを手に入れて戻ると、レイチェルはヘンリーのスケッチブックを膝の上に乗せ、その上で頬杖をついていた。


「レイチェル、買ってきたよ。ホットドッグ」


「ありがとう、ヘンリー。……ねえ、ヘンリー。やっぱりあなたは少し広い世界に出て、見聞を広めたほうがいいと思うわ」


「なぜそんなことをしなけりゃならない?外に行けば行くほど、大人たちのたくらみに塗れて嫌な思いをするだけだ」


「ヘンリーあなただってもう、大人なのよ。こうやっていつも同じ公園で女の子たちを眺めていたら、怪しまれる年になっているのよ」


 ヘンリーは顔をしかめた。なんだってこう、どいつもこいつも同じような事ばかり言うのだろう。僕は望んで大人になったわけじゃないのに。


「ヘンリー、シュレーのこと、覚えてる?彼はなかなか思うように絵が描けなくて悩んでいたの。それが、私の父がたまたまフランスで手に入れたエゴン・シーレっていう若い絵描きの絵を見せたら「これだ」って気に入っちゃって、真似をし始めたの。「ゴーン・シュレー」っていう、似たような筆名まで自分につけてね。


 でも人真似はしょせん、人真似。たまたまヨーロッパから帰ってた友達に、シーレの真似だってことを見抜かれたら急に勢いがなくなったわ。彼は才能はあるんだけど、プライドばかり高くて世界が狭いのよ」


「でも、彼はいいやつだ」


「そうよ。ヘンリー、私は彼の絵が本物かどうか、なんてことより、彼の人柄が好きだったの。それでいいじゃない、とも言ったわ。でも彼は、自分の才能が認められないと常に不安なの。ほんの少し心に余裕があるだけで、世界も違って見えるのに。

 ……ヘンリー、どうってことない、ただの女は、嫌い?奥さんと子供のために働いて、普通に幸せな日々を送るような人生は、いや?」


「わからない。いやじゃないけど、たぶん僕には、無理だ」


「無理じゃないわ、ヘンリー」


「ありがとう、レイチェル。君が僕を慰めようとしてくれているのは、よくわかるよ。君は優しい女の子だ。でも、悪いけどもうこれ以上、僕には構わないでくれないか」


 ヘンリーはレイチェルの手からスケッチブックを奪うと、そのままくるりと背を向けた。


 もうこの公園に来ることもないだろうな、とヘンリーは思った。


「ヘンリー、良く考えて」


 レイチェルの声が、公園から立ち去ろうとするヘンリーの背を追いかけてきた。ヘンリーは振り返ることなく、アパートの方角へと立ち去った。


             〈第三十一回に続く〉


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