第22話 理桜(17)死天使に贖いの歌を


 両開きの木の扉を押し開けると、古民家を思わせる生活臭がぷんと漂った。


 十年ぶりに訪れた北聖教会は、記憶の中に微かに残っていた残像と同じだった。

 奥に十字架があり、手前に説教台が見えた。二、三十人も入れば一杯になりそうな教会は、子供の頃には随分と広く感じたものだ。古びた長椅子や、年代物のオルガンも懐かしく好印象のままだった。


「では、シーン074から撮って行きます。エキストラの皆さんは、歌集を持ってご自分の位置で待機してください」


 丸いサングラスをかけ、髪を短く刈りこんだ男性がきびきびと指示を飛ばした。今回のMVの監督で、桐下きりしたという人物だった。松館とは昔のバンド仲間らしい。


「ええと、センターの人。深水さん?……どの人?」


「はい、わたしです」


 メンバーの輪の中から、わたしはおずおずと手を挙げた。


「ええと、このシーンは地下から脱出してきたみなさんが、教会の床から出て来るという場面です。床から出てくるところは別撮りしますので、先に床の上を四つん這いになって移動するシーンを撮ります」


 わたしは絵コンテに目を落とした。奥のオルガン近くの床から出て来たわたしたちは、なぜか気がつかない礼拝客の間を、出口に向かって一列に進んで行く。当然と言うか、先頭はわたしのようだ。


 わたしはこっそりとため息をついた。一時間ほどかけて入念にメイクを施されたわたしの顔は、他人のコスプレのようだった。


 普段は前髪と眉をいじるくらいで、メイクなどしたことがない。宣伝用スチールの撮影で初めて分厚くファンデーションを塗られ、すぐ近くから照明を当てられた時は正直、帰りたいと思ったものだ。


 エキストラは十名ほどで、十代と思しき少女から、七十代くらいの男性までまちまちだった。神父役は五十代くらいの男性で、当然ながら十年前にわたしが会ったことのある神父さんではなかった。


「まず、深水さんを先頭に、中央の通路に並んでください。四つん這いになって、こう……一列に。後ろの方の人たちは最初、あまり映らなくて心苦しいのですが」


 桐下は説教台のすぐ下の床を指さしながら言った。わたしは言われるまま、出口の方を向いて床に手足をついた。後ろで優衣が同じように這いつくばる気配があった。撮影とはいえ、両側に人が立っている間に四つん這いになるというのは、何とも奇妙な気分だった。


「このように、脱出した七人は四つん這いになって出口を目指します。両側にはミサ中の人たちが歌を歌っていますが、なぜかこの人たちは、真ん中の彼女たちに気づきません」


 床を見つめながら説明が終わるのを待っていると、ハンディカメラを手にしたカメラマンが中腰で姿を現した。どうやら、わたしの進む速さに合わせて後ずさるらしい。


 ――いやだなあ、こんなところを正面から撮られるなんて。


 わたしはげんなりしたが、表情に出してはいけない、と自分に言い聞かせた。


 「長回しになるので、なるべく頭の動きを抑えてください」


 わたしはよくのみこめないまま、頷いた。演技経験のないわたしには、何がベストなのか、まるでわからない。


「よーい、アクション!」


 監督の声が響き、オルガンの演奏と讃美歌のやわらかな歌声が教会の内部に響き始めた。


 わたしは床の上を、肘を使って進みはじめた。両側では何事も起きていないかのように礼拝客が歌っている。気づかないはずはないだろう、内心で突っ込みを入れつつ、わたしはカメラマンの動きに合わせて前進した。


 やがてカメラマンが扉の前まで後退し、「カット」の声が響きわたった。わたしは手の汚れを払いながら、立ち上がった。背後は一体、どんな具合なのだろう。

 振り返ろうとした、その時だった。突然、照明が落ちて礼拝堂が闇に包まれた。

 

 数秒後、再び明るさを取り戻した室内の風景は、照明が落ちる前と何かが違っていた。


 ――なにこれ。まるで静止画像みたいだ。


 あらゆる音が、動きが、ぬぐいとられたように礼拝堂の中から消えていた。

 わたしの前には、六人のメンバーが四つん這いになったまま、微動だにせずにいる。


 説教台とオルガンの前からは、人が消えていた。いや、神父たちだけではない、歌集を手にした礼拝客たち、カメラマンや照明、監督すらもどこかへ消え失せていた。


 ――みんな、いったいどこへ行ったの?


 全身を、得体のしれぬ恐怖が包みこんだ。あの時と同じだ。通路から廃病院へと紛れ込んでしまった、あの時と。……ということは、これは非現実なのか?


 わたしは脚を前へ出そうとした……が、まるで何かで固められたかのように身体の自由を奪われ、動くことができなかった。


 わたしはかろうじて動かせる目線を下の方に向けた。すると、礼拝客が消えた長椅子の下から、何か小動物ほどの大きさの生き物がもぞもぞと這い出てくるのが見えた。


 わたしは胸の中で、声にならない叫びをあげた。這い出てきたのは一見すると、人間の赤ん坊のようにも見えた。……が、よく見ると這っているその裸の背には、小さな羽根らしき物が生えているのだった。


 ――天使?


 息を詰めて窺っていると、「天使」たちはそこかしこから複数、這い出てきて四つん這いになったままのメンバーの背によじ登り始めた。


 ――ちょっと、やめて!いったい何をする気?


 わたしが動かない口で問いを発した、その直後だった。「天使」たちは一斉に口を開け、メンバーの首筋にかぶりついた。同時に、動きを封じられているはずのメンバーの顔に、苦悶の表情が現れたように見えた。


 ――やめてえっ!


 わたしは声にならない叫びをあげた。あれは「天使」なんかじゃない。人間を襲って食らおうとする天使などいるはずがない。わたしは必死で前へ進み出ようとした。……が、脚は床に接着剤か何かで固定されたように動かなかった。

 

 ――どうしよう。このままではみんな食べられてしまう。あの「天使」たちに。


 耐えきれず、目を閉じかけたその時だった。静止画のような世界に、声が響いた。


「やめなさい!」


 わたしは目を開け、声のしたほうを見た。オルガンの前、さきほどまで演奏者がいた場所に、シスター服に身を包んだ女性が立っていた。


 ――典子さん?


 典子さんは全く動じることなく、オルガンの鍵盤に触れた。柔らかな和音が響きわたり、同時に、「天使」たちの動きが止まった。


「こっちへ来なさい」


 典子さんが声をかけると、「天使」たちは驚くほどあっさりとメンバーの背から離れた。


 さらに典子さんが手招きをすると、「天使」たちはよくしつけられた犬のように向きを変え、典子さんの足元に向かって移動を始めた。


 呼び寄せて、どうするんだろう。そう思った時だった。一体の「天使」がいきなり床の上で仰向けになった。それをきっかけに、他の天使たちも、次々と仰向けになり始めた。


 やがて天使たちの下腹部に亀裂のようなものが生じたかと思うと、裂け目から細長いピンク色の肉芽が顔をのぞかせた。肉芽の先端には丸い口があり、内側には細かい歯のような物がびっしりと並んでいた。


 ――なに?……いったい、何が始まるの?


  固唾を飲んで見守っていたわたしは次の瞬間、心の中でうっと呻いていた。

 典子さんのふくらはぎに、複数の肉芽がまるで蛭のように一斉に吸いついたのだ。


「あああああっ!」


 ――典子さんっ!


 わたしは駆け出して典子さんを救いだしたい衝動に駆られた。……が、筋肉のたわむ感触が感じられるだけで、肝心の脚はびくともしなかった。


 「天使」たちに血を吸われているのか、何かを注ぎこまれているのか。いずれにせよ、典子さんの表情は苦悶に歪み、皮膚の色は足の方から紫色に変色していった。


 どうしよう、このままでは死んでしまう……そう思っていると、突然、典子さんが懐から何かを取りだすのが見えた。それは、赤っぽい液体の入った小さな注射器だった。


 典子さんは左手で注射器を構えると、器用な手つきで自分の右腕に針をつき立てた。


「すぐすむわ。……じっとしてて」


 意味不明の言葉をつぶやくと、典子さんは自分の腕に赤い液体を注入し始めた。

 ほどなく典子さんの腕が指先から黒く染まり始め、やがて黒い色は腕から胸、胴体へと移動していった。


 黒い色は腹部を染めていた紫色を押し戻すと、天使たちの吸い付いているふくらはぎに達した。典子さんは天使たちの肉芽がびくびくと痙攣するのを見ると、胸の前で静かに手を組んだ。


 ――ぎゃあああっ!


 天使の一体が、苦し気な呻き声を上げてふくらはぎから離れた。するとそれが合図だったかのように、次々と他の天使たちも、典子さんのふくらはぎから離れていった。


 あまりにも意外なことの成り行きに呆然としながら眺めていると、やがて天使たちは震えながら形を失い、床の上で溶けるように消えて行った。


 わたしは典子さんに驚愕の眼差しを向けた。わたしと目が合うと典子さんは一瞬、微笑むように口の両端を持ち上げて見せた。そして再びオルガンに向かうと、柔らかな和音を奏で始めた。


 不安に駆られ始めたわたしの前で突然、照明が明滅し始めた。礼拝堂が何度か闇に没し、やがて強い光とともに「オッケー、カット!」という声が響いた。我に返ったわたしが目にしたのは、「天使」たちが出現する前の撮影風景だった。


 平然とした表情で立ち上がろうとするメンバーを見ながら、わたしはまだ、現実に戻ってきたことが信じられないでいた。オルガンの方を見ると典子さんの姿はなく、代わりに演奏担当のエキストラが譜面を眺めながら次の指示を待っているところだった。


 ほどなく何事もなかったかのように撮影が再開され、わたしは先ほどの「非現実」を思い返しながら演技を続けた。どうやらあの世界は、わたし以外の人たちには感じられないらしい。


――典子さん、あなたは一体、何者なの?


            〈第二十三回に続く〉

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