第14話 理桜(11)亡き者たちの讃歌


 わたしはとりあえず左に曲がると、人気の途絶えた薄暗い廊下をさらに歩いた。


 突き当りを右に曲がると、廊下の奥に開け放たれた扉と、階段が見えた。とりあえず、上に行ってみよう。そう決めてわたしは歩を進めた。


 右手には廊下側に大きなガラス窓をとったナースステーションがあったが、まるで職員が仕事を放りだして消えてしまったかのように、無人だった。


 左手の壁には「レントゲン室」などと書かれたドアが並んでいたが、いずれも古めかしい感じだった。わたしは「採血室」と書かれた小窓の前で足を止めた。窓の木枠に塗られた白いペンキがはがれかけており、どう見ても現在、開業している建物とは思えなかった。


 階段の少し手前で立ち止り、わたしは奥の様子をうかがった。闇に沈んだ階段は、古城の内部のようだった。行ってみようか、そう思いかけた時、耳が微かな音を捉えた。


 ――すーくーいーいの みーいこ は――――


 わたしは思わず身を固くした。複数の声が重なりあった合唱のような歌声が、上の方から響いてきたからだ。歌声は徐々に大きくなり、やがて階段の上の方にナースシューズと思しきつま先が覗いた。


 ――やばい、隠れなきゃ。


 わたしは後ずさると、身を隠せそうな場所を物色した。ベンチのたぐいはなく、あるのは今どき珍しい、赤電話だけだった。私はやむなく身をかがめると、電話台の陰に身を潜めた。


 ――ねーむりーいた も――お――――


 わたしが身を隠すのとほぼ同時に、階段室から歌声の主が現れた。それは十人程度の、手にキャンドルを携えた病院職員たちだった。


 ――おねがい、こっちへ来ないで。


 必死に祈っていると、集団は階段を降り切ったところで向きを左に変えた。電話機の陰からそっと覗くと、看護師に医師、それにどういうわけか修道女の姿があった。


 片方の手に歌集らしき冊子を携えているところを見ると、これはいわゆるキャンドル・サービスなのだろう。……しかし、クリスマスでもないのに、なぜ?


 わたしは集団が角の向こうに消えるのを見計らって、立ち上がった。そして何気なく振り向いた瞬間、思わず悲鳴をあげそうになった。いつの間に現れたのか、真正面にキャンドルを手にした別の一団が立っていた。


「あ……」


 わたしはその場に凍り付いた。……と、列の先頭にいた年かさの修道女が、唐突にわたしに向かってキャンドルを差し出した。


「…………」


 修道女は無言のまま、わたしの手にキャンドルを握らせた。どうやら参加しろという事らしい。なぜ病棟に侵入したことを咎めないのか不思議に思いつつ、わたしは安堵と不安がないまぜになった状態でキャンドルを受け取った。


 ――いーいと や――あすーく――――


 キャンドルを渡し終えると、集団はわたしの傍らをすり抜けるようにして、階段室へと向かい始めた。わたしは恐怖を覚えつつ、同時に好奇心が首をもたげるのを意識した。


 わたしはキャンドルを掲げると、列の最後尾に加わった。集団は、再び「きよしこの夜」を頭から歌い始めた。それにしても、と暗い階段を上りながらわたしは思った。このキャンドル・サービスの目的は一体、なんなのか。なぜ、二手に分かれているのか。


 一つ上の階も、やはり古い作りの病棟だった。わたしはこの、普通ではありえない状況にいつの間にか慣れ始めていた。廊下を進んでゆくと、ふと隊列の足が止まった。


 列の隙間から顔を覗かせ、先頭の立ち止まったあたりに目をやると、病室のドアが開いて患者らしき小さなパジャマの人影が見えた。


 ――小児病棟だ。……そうか、これは小児病棟のためのキャンドル・サービスなんだ。


 先頭の医師がどこから出したのか、小さなぬいぐるみと菓子の袋らしき物を、男の子に手渡した。男の子は五歳くらいで、プレゼントを受け取ると小さな頭をちょこんと下げた。


 わたしはほんの少し、胸が温かくなるのを感じた。こういうイベントは気持ちがいい。


 医師が続けてプレゼントを取りだすと、男の子の陰からやはり四、五歳の少女が姿を現した。ロングヘアの少女はプレゼントを受け取ると男の子同様、深々と頭を下げた。


 医師が顔を上げると、誰からともなく再び合唱がはじめられた。今度は「きよしこの夜」と比べると、いささかなじみの薄い曲だった。


 ――あ―らーのーのーは――てに――――ゆーうーひーはーお――ちて――――


――どうしよう、歌集がない。狼狽えるわたしを尻目に、列はゆっくりと動き始めた。


足並みをそろえようとしたその時、ドアの所の少女と視線がぶつかった。少女はわたしを見て一瞬、驚いたような表情を浮かべると、わたしの目を見て何かを口の形で伝え始めた。


 ――あなた、もしかして生きてる人?


 わたしは驚いて少女の目を見返した。すると、少女がかすかに首を横に振った。


 ――あなたはここにいちゃだめ。これは死者のキャンドル・サービスよ。早く逃げて!


 死者?この人たちが?わたしは視線を少女から周囲の人々に移した。ガラス玉のような瞳、青白い顔、たしかに死者と言われればそう見えなくもない。


 ――グロ――――オオオオオオ――――オオオオオオ――――


 讃美歌は美しい長音のパートに入った。ここならわたしも聞いたことがある。わたしは思いきって口を大きく開けた。


 ――オオオオオ――リアス


 ――次、なんだっけ。英語じゃないことは何となく覚えているのだけれど。


 わたしは、合唱の声が大きいことに期待をかけた。ごまかせばなんとかなりそうだ。まさか一人の間違いに気づくものもあるまい。


 ――イン エクセルシ――デ――――オ――――


 やった、どうにかごまかせた。そう思った時だった。列の歩みがぴたりと止まった。


 ヒトリチガウ


 この世の物とは思えない、ひび割れた声が廊下にこだまし、白衣を着た男性の一人が、わたしの方を見た。……うそ、わたし、間違ったの?


 チガウモノガ イル


 全員の顔が、一斉にわたしの方を向いた。どうやら、少女の言う通りらしい。

 わたしは後ずさった。すると、集団もじわりとわたしを包囲するように動いた。

 

 ――だめだ、逃がしてくれそうにない。……こうなったら、いちかばちかだ。

 

 わたしは思いきって身体の向きを変えると、暗い廊下を逆方向に向かって駆け出した。


              〈第十二回に続く〉


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