第15話 理桜(12)しのびよるもの
幸い死者たちは走り出しては来ず、わたしは階段室に飛び込むと、下り階段を一段飛ばしで駆け下りた。一つ下の階で階段室を出たわたしは、必死で元来た道を引き返した。
さほど複雑な順路ではなかったはずだ。そう思い、記憶を頼りに廊下を進んだが、行けども行けども、ライブハウスへの「通路」は見つからなかった。
―――そんな馬鹿な!早く見つけないと、あの人たちが来ちゃう!
パニック状態に陥ったわたしは落ち着け、とにかくこのフロアにドアがあるはずだ、と自分自身に言い聞かせた。だが、このまま行きつ戻りつを繰り返していたら、確実に死者たちに追いつかれてしまう。
――どうすればいい?……時間を稼ぐには。
考え初めてすぐ「身を隠す」という言葉が浮かんだ。わたしは周囲を見回した。検査室や病室では、見つかった時に逃げだせなくなる。ある程度の広さがないと駄目だ……そう思った時、ひとつの風景が思い浮かんだ。
――たしかこのフロア内に、ナースステーションがあるはずだ。あそこなら出入り口が複数ある。あそこに隠れよう
わたしは記憶をたどってナースステーションを探し当てると、ドアを開けて室内に入った。見たところ隠れることができそうなのは、中央にある作業テーブルと壁際に並んだ仕事机の下だけだった。どちらかにもぐりこんで、死者たちをやり過ごそう。わたしは意を決すると、廊下側の壁に向いている机の一つに近づいた。
机の上には書類やペン立て、そしてなぜかサンタクロースの衣装を身にまとった熊のぬいぐるみがあった。わたしは椅子を引き、机の下を覗きこんだ。中は思ったより狭そうだった。わたしは体を二つ折りにすると、手足を折りたたむようにして天板の下にもぐりこんだ。椅子を元に戻すと、まったく動ける余地はなくなった。
少しでも身じろぎしようものなら、振動となって天板に伝わってしまいそうだ。
わたしは息を殺し、気配を消した。それにしてもいったいどこで、現実の世界からこんな悪夢の世界へと紛れ込んでしまったのだろう。あの職員たちが死者なら、訪問を受けていた子供たちもまた、死者なのに違いない。
死者が死者を見舞う、キャンドルサービス。
わたしは机の下で恐怖に打ち震えた。どうにかして、ライブハウスへの通路まで戻らなければ。
どのくらい経っただろう。突然、わたしの耳がかすかな物音を捉えた。くぐもってはいたが、それは間違いなく複数の足音だった。
――来た。
わたしは息を潜め、縮こまった身体を一層小さくした。廊下の足音は角の所でいったん消え、沈黙が生まれた。どうしたのだろう。歌声が聞こえない分だけ、不気味だった。
しばらくじっとしていると、ふいに一つの足音がナースステーションの方にやってくるのが聞こえた。足音はドアの前でぴたりと止まり、やがてドアノブの回る音がした。
誰かが入ってくる!心臓の鼓動がやけに早く、大きく聞こえ出した。
――お願い、行き過ぎて。この部屋には来ないで!
わたしの願いもむなしく、ぺたぺたという足音が部屋の中に踏み込んできた。
足音は作業テーブルの周囲を回り、やがてわたしが隠れている机の方にやってきた。
――もうだめだ、来る!
足音がわたしのすぐ近くで、止まった。わたしは覚悟を決め、足音の主が現れるのを待った。……だが、しばらく経っても一向に椅子の引かれる気配はなかった。
なぜ、中を覗かない?訝っていると突然、上の方から「ふふっ」という含み笑いが聞こえてきた。
――コンナトコロニ、イタノ。
天板越しに声が聞こえ、やがて足音は元来た方向へと遠ざかっていった。
なぜ?わけがわからず混乱していると、ドアの閉まる音が聞こえた。
うまくやり過ごせたという安堵感も手伝って、わたしはそっと机の下から這い出した。
天板の上から目だけを出して廊下の様子をうかがうと、先ほどの集団が階段室の方にゆっくりと移動してゆくのが見えた。
出てゆくのはもう少し、後にしよう。そう思いながら集団の動きを目で追っていると、列の最後尾にいる看護師の手元に視線が吸い寄せられた。看護師の手には、ほんの少し前までこの机の上にあったぬいぐるみが握られていた。
――あのぬいぐるみを、探しに来たのか。
全身の力が抜け、わたしは床の上に力無くへたりこんだ。やがて集団の気配が完全になくなったことを確信したわたしは、ナースステーションを出て出口を探し始めた。
不思議なことにどの扉も、通路に通じている気配がなかった。もうだめだ、あのドアは消えてしまったんだ。そう思った時だった。突き当りの壁の前に置かれたスチールのロッカーが目に入った。ロッカーには『掃除用具入れ』というプレートがついており、そのわずかに開いた扉の隙間から、光がこぼれているのだった。
これだ、とわたしは直感した。わたしはロッカーの前に移動すると、思いきって扉を開けた。中から現れたのはライブハウスに通ずるあの、通路だった。
――こんなところに、あったんだ。
入ろうか入るまいか躊躇していると、背後から再び、歌声とともに複数の足音が聞こえて来た。もはや答えは一つだった。わたしは中へ足を踏み入れると、後ろの扉を閉めた。
通路を進みはじめてほどなく、わたしは背中に軽い痛みを覚えた。やがて一歩、歩を進めるごとに身体の重みが増すのを感じた。
――ほっとしたせいだろうか。……でも、変だ、もう膝をつきそうだ。
やっとの思いで器具室側の扉にたどり着いたわたしは、ドアを手前に引いた。……が、かちり、という小さな音とともにドアは中途半端に細く開くと、それ以上動かなくなった。
――なにこれ。どうして開かないの!
わたしは力任せに取っ手を引いた。次の瞬間、通路の照明が落ち、周囲が闇に没した。
あとドア一枚、ドア一枚なのに……わたしはドアを引く手に力を込め続けた。……と、ふいに耳が微かな歌声を捉えた。
――イン エクセル シス デ――
「いやあああっ!」
私は絶叫した。……と、突然、ドアが開いた。大量の光が私を包み、同時に聞こえていた歌声が嘘のようにやんだ。背後でじじじ、と言う音がしたかと思うと、通路の照明が灯り、あたりが一気に通常の明るさに戻った。
「いったい、どういうこと、これ?」
わたしはドアを閉めると、器具室の床の上に崩れた。荒い息を吐きながらわたしは、先ほどまでの事を、悪夢から目覚めた時のように反芻した。
――夢じゃない。……だってわたしは一度も、眠りこんだりしていない。
わたしは立ち上がると、器具室を出て控室を目指した。いったい、どのくらい時間が経ったのだろう。まだみんなはライブハウスにいるのだろうか。
控室は、無人だった。壁の時計は握手会が終わってからちょうど一時間が経過したことを告げていた。もう限界だ。少し休ませてもらおう。
わたしは控室のソファに横たわると、静かに目を閉じた。次に目覚める場所が、同じソファの上であることを祈りながら。
〈第十六回に続く〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます