第13話 理桜(10)悪夢の扉、ふたたび


「すみません、今日はアンコールはなしです。握手と撮影会は二十分後になりますので、しばらくお待ちください」


 ライブで早まった鼓動を鎮めつつ、わたしはすぐ目の前の観客に告げた。


 ステージばらしまーす、という威勢のいい声が響き、わたしたちは高さ二十センチの即席ステージから降りた。


「みなさん、お疲れ様。今日は何もなくてよかったです。……深水さん、この前は大変でしたね。僕らも責任を感じてます」


 駆け寄ってきた中年男性がわたしに深々と頭を下げた。額に手拭いを撒き、ジーンズのポケットに金づちを挿している。『グランデニア』のステージ制作を一手に引き受けている「創芸美装」の社長、戸浦誠二とうらせいじだった。


「そんな、わたしの不注意だったんです。気にしないで下さい」


「いえ、あれは関係者全員の責任です。ご迷惑をおかけしました」


 深々と頭を下げられ、わたしは困惑した。すぐ隣にいた陽乃が「わかるよ」と言う風に背中を軽くたたいた。

 脚の痛みと心苦しさはまだ若干残るものの、てきぱきと進められてゆく握手会の準備を眺めていると、不思議と温かい気持ちがこみあげてくるのだった。


 やがて小規模ながらも握手付き写真即売会が始まった。テーブルの前には三十名ほどのファンが列を作り、そわそわしながら開始の合図を待っていた。


「どうしよう、握手も写真も初めてだよ」


「大丈夫、みんなそうだから」


 並んだファンの半分くらいは、まだお気に入りのメンバーが固まっていないらしく、その場の勢いで、近くの子と握手しているようだった。


 わたしたちは横一列に並んでおり、初めて観た人にはセンターが誰だかわからないに違いない。実際、ファンへのアピールはわたしよりもバックの四人の方がずっと積極的で元気があった。


 ファンの列はあっという間に短くなり、わたしの前に立った男女の二人組が最後になった。眼鏡をかけた内気そうな男の子と、可愛らしいショートカットの女の子だった。


「あの……この間の怪我、もういいんですか?」


 男の子が心配げな表情で言った。どうやら事故のあった日も、来てくれていたらしい。


「はい、大丈夫です。……ごめんなさい、ステージを台無しにしちゃって」


「僕ら、最前列にいたんです。真っ暗だったけど目の前で落ちるところを見て、驚いて、帰ってからもずっと気になってたんです」


「そうだったんですか……ご心配かけました。さいわい、打撲だけで済みました。また来てくれて嬉しいです」


「あの、写真、いいですか」


「はい、もちろん」


 男の子は夏彦、女の子は絵美という名で、アイドル好きの人たちが集まるサイトで知り会ったらしい。二人の希望で、わたしは真ん中に収まった。


 スタッフの向けるポラロイドカメラに向かって私はぎこちない笑みを作った。

 こんなことでも喜んでくれる人がいるのだ。そう思うと、後ろ向きで許される仕事ではないとの思いも込み上げてくるのだった。


「それではこれで、握手会及び写真撮影会を終了しまーす」


 ――よかった。無事に終わって。


 わたしはささやかな達成感をかみしめながら、熱気が引いたフロアを眺めていた。


奥のドアからファンが出入りしているのを見るともなく見ていると、ふとドアの陰から覗いた男性の顔が目に留まった。男性は一瞬、こちらをうかがった後、廊下の方にすっと消えた。


目があった。わたしはそう直感した。


 ――あれっ?……まさか、ダカさん?


 わたしはファンが一通りはけるのを待って、サコさんの元に歩み寄った。


「あの、ちょっと疲れたので控室で少し休んでもいいですか」


「もちろんよ。今日は緊張したでしょ。ゆっくり休んだらいいわ」


 あっさり申し出をみとめられ、わたしはフロアを出た。廊下を少し進み、器具室の表示を見つけたわたしは、迷わず飛び込んだ。器具室の中はがらんとしていて、人の気配は皆無だった。


 わたしはまっすぐ奥に進むと、「ゴミ処理室 連絡通路」というプレートが掲げられたドアの前に立った。


 この向こうに、わたしが運ばれた古い建物があるのだ。わたしはふいに胸の高鳴りを覚えた。と、突然、背後でドアの取っ手が動く気配があった。わたしは反射的に目の前のドアを開けた。ドアは難なく開き、見覚えのある通路が現れた。


 わたしは意を決し、ドアの向こうに足を踏み入れた。後ろ手でドアを閉めると、長さ十メートルほどの薄暗い通路に閉じ込められる格好になった。


 わたしは突き当りまで歩いてゆくと、「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたドアの取っ手をつかみ、ゆっくりと手前に引いた。ドアは軋み音を立てながら開いた。


 隙間から覗いた風景を見た瞬間、わたしはぎょっとした。そこに広がっていたのは予想していたボイラー室の眺めではなかった。通路の先にはさらに廊下が続いており、それは一見したところ、年季の入った古い病棟のようだった。


 ――病棟みたいだけど……でもここ、地下でしょ?


 わたしは後ろのドアを閉めると、廊下をそろそろと進んだ。照明は点いておらず、ひどく暗かった。リノリウムの床、両側の壁に並ぶ氏名がついたドア。どう考えても病院だ。


だが、地下に病棟がある病院など、聞いたこともない。


 どうしてこんなに暗いんだろう、わたしは訝りながら、忍び足で進んで行った。


 突き当りのT字に交差する通路の前でわたしは立ち止まった。どうしよう、どっちに行けばいいんだろう。……前回、ストレッチャーに乗せられてきた時は、こんな風景はなかった。そもそもこの、メディカル・ビルには入院病棟のある病院などないのだ。


 不意に背筋を冷たい物が這い上った。ここは以前、運ばれた場所ではない。どうして迷い込んだのか自分でもわからないが、全く別の場所だ。


 廊下の左右に並ぶドアは、今どきの病棟のようにスライドするタイプの物ではなく、木製のひどく古めかしい扉だった。


 ――地下に病室なんて……あり得ない。


             〈第十一回に続く〉

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