第9話 ヘンリー(3)死と天使の聖餐


 『御使い』の話はなんとも奇妙なものだったが、ヘンリーは直感的に理解していた。


 「僕があなたを出現させた」


 ――そう。お礼にヘンリー、君の望みをかなえてあげよう。


 「望み?僕の?……君に僕の望みがわかるってのかい」


 ――わかるとも。大人になりたくないのだろう、ヘンリー。


 ヘンリーは再び目をみはった。図星だった。さすが悪魔だけのことはある。


 ――残念ながら、肉体は否応なしに大人になる。だが、心は違う。君はいつまでも君の愛する少女たちと幸福な時を過ごすことが可能だ。……そら、こんな風に。


 『御使い』は尻尾の先を、魔法の杖よろしく振って見せた。……と、ヘンリーの周囲で、にわかには信じがたい出来事が起きた。ポケットの中の写真が勝手に飛びだし、宙を舞い始めたのだ。少女の写真は蝶のように羽ばたきながらヘンリーの周囲を楽し気に舞った。


 どの少女もヘンリーに向かって微笑み、はにかむ仕草を見せた。お気に入りの子たちの動くさまを目の当たりにして、ヘンリーは歓喜に打ち震えた。


 ――私に力を貸してくれれば、君は少女たちと楽しい時を過ごすことができる。どんな恐ろしい敵が現れても、君の少女たちは無敵だ。


 「「力を貸す」って言っても、僕は何をすればいいんだい?」


 ――ヘンリー、簡単な事だ。まず、これからはどこへ行くにも私を肩に乗せてゆけ。


 私の姿は君以外の人間には見えず、君もやがてわたしが乗っていることを忘れるだろう。


 君が公園や食堂、あるいは教会に足を向けるとき、わたしは常に君とともにある。そして君の助けが必要になった時は、君だけに見える形で再び姿を現そう。どうだね?


 「わかった。君を連れて歩けば、僕はいつまでも大人にならず、僕の少女たちはいつまでも僕のそばにいてくれるんだね?」


 ――約束しよう、ヘンリー。私は君の少女たちと、王国の繁栄を心から祝福する。


 ……ただし君は君で、時には王国の繁栄を望まぬ者たちと戦わねばならない。


 「それは、大人たちのことかい?」


 ――いや、大人たちではない。君の少女たちとはかなり見た目が異なるが、やはり彼女たちと同様「非現実」に生息する疑似生物だ。


 「よくわからないな。もっと簡単に話してくれないか」


 ――そうだな、君の少女たちが魚だとすれば、「敵」は鳥のような物だ。どちらも互いの身体を構成する「妄想力」を養分に生きている。捕食関係にあるといってもいい。……そら、来たぞ。


 『御使い』が尻尾の先で足元を示すと、いきなりゴミ箱の蓋が、がたがたと音を立てて動き始めた。やがて蓋がゆっくりと持ち上がり、その下から世にも凶悪な光を目に宿した生き物が姿を現した。それは一言で言えば「天使」だった。


 ――こいつは妄想を食する『死天使』だ。こいつと君の少女たちは同じ非現実の疑似生物同士……つまり捕食関係にある。どちらの力が優っているかはその時の世界の揺らぎ次第というわけだ。


 ヘンリーは無意識に両手を広げ、少女たちを守る仕草を取った。

『御使い』の言っていることはちんぷんかんぷんだったが、とにかく目の前の生き物が少女たちを食らおうとしていることだけは疑いがない。

 背中に羽根を生やした裸の幼子は、天使とは裏腹の飢えた表情をうかべてゴミ箱から這い出ようとしていた。


 ――ヘンリーさま、ご心配なく。あなたの縄張りに現れたのが運つき。この戦いは私たちに圧倒的に有利です。


 紙片の中の少女がヘンリーの周囲を守るように舞いながら、口々に囁いた。

 ヘンリーは少女たちの目に宿る勇敢な光に、体の奥底に眠る何かが揺さぶられるのを感じた。少女たちを従えたヘンリーは、ゴミ箱から這い出ようとする敵をきっと見据えた。


 床の上に転がり落ちた『死天使』は、ゆっくりと立ち上がると黄色く光る目でヘンリーを見た。ヘンリーが身構えた瞬間、『死天使』は甲高い雄たけびを上げて宙に舞った。


 ――ヘンリー様、下がって!


 少女たちはへンリーの前に飛び出すと、身体の数インチ手前で『死天使』のあらゆる穴に覆いかぶさった。


  ぐわぁっ


 鮮やかな紙片に頭部を包まれた『死天使』は、呻き声を上げると床の上に転がった。


 ――さあ、ヘンリー様、とどめを。


 少女たちは口々にヘンリーの名を叫ぶと、敵の生命を断つよう促した。


 せいぜい虫ぐらいしか殺したことのないヘンリーにとってそれは、それまでの「善良な」人生と愛する少女たちのどちらを取るかという分岐点だった。


 だが、『死天使』が床の上でもがいているさまを見下ろしているうちに、ヘンリーは自分の中で徐々に使命感が募ってくるのを感じた。


 ――答えはとっくに出ているじゃないか、ヘンリー。これこそが少女の守護者たる自分の使命であり、「信仰」なのだ。


 ヘンリーは周囲を見回し、空き瓶のコンテナに目を止めた。ヘンリーはもがいている敵を横目に素早く移動すると、大ぶりの酒瓶を一本、抜き出した。ヘンリーが振り向き、敵に歩み寄ろうとした、その時だった。


 頭部の自由を紙で奪われた『死天使』が突然、両手を床につくと、つま先を天井に向ける形でさかさに立ちあがった。そして両手でヘンリーの方に歩み寄ると、両脚を大きく開いて下腹をつき出した。


 ――何だ?何のつもりだ?


 ただならぬ様子に身を引きかけたヘンリーの目に、異様な光景が飛び込んできた。


『死天使』の下腹部に一筋の引きつれが現れ、それが裂け目となって開いたかと思うと、中から黄色い体液とともに鉤爪に似た数本の触手が飛び出してきたのだった。


  わああああっ!


 ヘンリーの左手首を捉えた鉤爪は、そのままヘンリーの身体を前に強く引いた。身体の重心を失ったヘンリーは、空き瓶を手にしたまま思わず床に膝をついていた。


 次第に迫ってくる『死天使』の下腹部から、今度は先端に穴の開いた肉芽が現れた。

 

先端の穴にはぐるりと鋭い歯が並び、獲物を捕食しようとするかのようにヘンリーを待ち受けた。


 ――今です、ヘンリー様!


 ふいに少女の声が耳に突き刺さり、ヘンリーのポケットから数葉の写真が飛び出した。


 写真の少女たちはいずれも、ヘンリーが今日、集めた中で一番気に入った子たちだった。


 ヘンリーの手が呑み込まれる直前、少女たちは『死天使』の下腹部に集まり、肉芽を覆い隠すように貼りついた。口を塞がれた『死天使』がもがき、鉤爪の力がふと緩んだ瞬間、ヘンリーは鉤爪から手首を勢いよく引き抜いた。

 

 少女たちのけなげな戦いぶりに、今が「裁き」の時であることを確信したヘンリーは、右手の空き瓶を大きく振りかさずと、『死天使』の「頭」にあたる部分に勢いよく打ちおろした。


 ぎゃあああああっ!


 手の先に内臓がつぶれるような感触が伝わり、『死天使』が呻き声を上げて転がった。


 ヘンリーは恐怖に駆られ、二度、三度と瓶を打ちおろした。やがて瓶が割れ、あたりにアルコールの匂いが立ちこめた。『死天使』は仰向けになると、二、三度手足をひくつかせ、動かなくなった。ヘンリーは空き瓶を放り出すと、荒い息を吐いて死体を見下ろした。


 死体に貼りついている少女たちを通して、赤黒い体液がじわじわと染み出すのが見えた。


 酒と体液で黒く濡れそぼった写真を見ているうちに、ヘンリーはやりきれなさといとおしさが同時に込み上げてくるのを感じた。


 ――主よ、お許しください。今日、僕はおぞましい敵を倒すために僕のいとおしい少女たちを犠牲にしてしまいました。


 ヘンリーは「生き残った」少女たちを丁寧に拾い集めると、折りたたんで再びポケットの内側に戻した。

 ヘンリーのために身を挺して戦った写真の少女たちは、もはや動くことなく、濡れそぼった紙屑へと変わり果てていた。動かなくなった『死天使』の身体はじわじわと床の色に染まってゆき、やがて端の方から溶けるように消えていった。


 初めてみる光景だったが、ヘンリーにはそれが当たり前のように思えた。彼らは敗北によってこの場にとどまる資格を失った、だから去るのだ――と。


 だが、勝者である自分もまた、少なからぬ痛みを負った。使命に乗っ取って勝利を収めるということは、必ずなにがしかの犠牲を伴う物なのだ。


 冷静さを取り戻したヘンリーは、『御使い』の姿を探した。だが、収集室のどこにも悪魔を思わせる『御使い』の姿はなかった。


 彼もまた去ったのか……そう思っていると、ふいにドアを叩く音が聞こえた。


「ヘンリー?そこにいるのか?一体、さっきのは何の音だい?まさか空き瓶を割って遊んでいたんじゃないだろうな」


 かすかな苛立ちを含んだ声は、同じ病院で働く清掃員のものだった。ヘンリーはやれやれというように両肩をすくめると「なんでもありません」と叫んだ。


 ――そうさ、空き瓶を割ったんだ。だが、それのどこがいけない?これは正義の戦いなんだ。悪を根絶やしにするためなら空き瓶の一本や二本、割ったって構うまい。……まったくあいつらはなにもわかっちゃいない。


 ヘンリーはドアの外が静まるのを待って、空き瓶の欠片をのこらず始末した。それでも床の上のしみと、アルコールの匂いが残った。


 ヘンリーはあたりに漂う匂いを忌々しい思いで嗅いだ。あの、昼間から飲んだくれている、人生をあきらめたような男が漂わせていたのと同じ匂い。忌まわしい大人たちと、現実そのものの匂いだ。


 ヘンリーは写真を収めたポケットをいとおしげに抑えると、戦いの場を後にした。


             〈第十話に続く〉

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