第8話 ヘンリー(2)黒き御使いの翼
「道具の使い方はわかるね、ヘンリー?」
年かさの職員は言葉を切ると、モップの柄をこれみよがしにヘンリーにつきつけた。
「はい、わかります」
ヘンリーは素直に応じた。髪が半分白くなった、ヘンリーよりおよそ二十以上は年上の清掃員は、健康状態の悪化を理由に間もなく職を退くのだという。
「まず、この部屋で前日のゴミを分別してから、病棟の清掃に入ってくれ。ゴミは大きく分けて紙と空き瓶、それ以外ということになる。……一番、厄介なのは生ごみだが、まあいちいち文句を言っていたらきりがない。それから紙なんかの燃えるごみは、外の焼却炉の脇に積んでおいてくれ。自分で燃やそうとするんじゃないぞ、いいな」
「わかりました」
ヘンリーは一度で飲みこんだ、というように大きく頷いた。清掃員の満足げな表情を見て、ヘンリーはいままでの大人たちと同じ反応だな、と思った。それは「少し足りない」ものたちへの期待とあきらめ、そして憐憫だった。
「できます」
「病棟の方は一日三回、モップで廊下と階段、そしてトイレを綺麗にしてもらう。これはさほど難しくない。丁寧にさえやってくれればいい。できるな?」
「はい、できます」
ヘンリーは機械的に頷いた。この程度なら、時間内に十分、こなせそうだ。
「君たちのような連中があまりさぼらないことは私も知っているが、くれぐれも手を抜かないようにな。誰も見ていなくても神様は見ているぞ。君をここに紹介してくれた神父さんの顔を潰さないよう、気をつけてくれ」
清掃員の言う「君たちのような連中」とはつまり、単純な作業を飽きることなく、黙々とこなす人たちのことを言うのだろう。ヘンリーがかつて施設で見た「少し足りない子」たちもそうであった。ヘンリーの場合はしかし、彼らとは多少異なっていた。ヘンリーには強い空想癖があり、そのために手が止まったりすることもしばしばだったのだ。
――誰も見ていなければ、わかるまい。ここは僕におあつらえ向きの職場だ。
ヘンリーは一人でする仕事を紹介してくれた神父に感謝した。一日の大半を一人で過ごすと言うことは、大人たちの世界から解き放たれ、自分の世界に浸れるということだ。
施設で自分をいじめつくした嫌な大人も、目の前にいる現実に敗北した哀れな大人も、どちらもいない、勝者だけの世界だ。
「それじゃあ、早速仕事にかかってくれ。病棟の清掃は急がなくていい。……なにしろ週末のゴミが山と溜まっているからな」
清掃員はそう言うと、口笛を吹きながら立ち去った。あの様子では昼間から酒を煽ってさらに健康を害するに違いない。駄目な大人の典型だとヘンリーは思った。
「さあ、今日からここが僕の城だ」
ヘンリーは誰に言うでもなくそう、宣言すると、蓋が外れたごみ箱へと足を向けた。
※
ヘンリーが病院の清掃を始めてから、数週間が過ぎた。
無造作に積み上げられたゴミの山は、はた目にも汚らしいものだった。
ヘンリーは分厚い手袋をはめると、蓋を押し上げているゴミに視線を落とした。
紙屑の上にべとついた空き瓶、さらにその上に灰皿の中身がぶちまけられ、いたるところにこびりついていた。見るからに面倒なそれらのゴミにも、ヘンリーは躊躇することなく手を伸ばした。
ヘンリーは空き瓶を一本一本、丁寧に探りだすと、集めて少し離れたコンテナまで持っていった。ヘンリーの動きはよどみのない、きびきびしたものだった。
ヘンリーは吸い殻も生ゴミも、顔一つしかめず淡々と処理した。妄想癖のあるヘンリーはゴミの処理を進めながら、心だけを別の場所に飛ばしていたのだった。
ヘンリーの関心は処理中のゴミの山にではなく、出入り口近くに積んである雑誌の山にあった。ゴミ箱の中身を選り分け終えると、ヘンリーはまっすぐ雑誌の山へと向かった。
ヘンリーは上の方に固めておいた雑誌を手に取ると、目的のページを広げた。そして「収穫」である少女の写真を素早く破り取り、ポケットに押し込んだ。
わずかな期間の勤務でヘンリーは雑誌の山からお気に入りの写真を選びだし、作業の合間に収集するという手順をものにしていた。写真は広告などで、ブロンドや黒髪の少女スターがドレスに身を包んでほほ笑んでいるものばかりだった。
あっという間に雑誌数冊分の写真をポケットに詰め込み終えると、ヘンリーは充足感に満ちた息を吐いた。ヘンリーは少女たちが、この時のために自分のことを待っていてくれたのだ、と作業を終えるたびに強く実感するのだった。
作業を終えるとヘンリーは雑誌の山を外の焼却炉へと運んでいった。雑誌を紙屑置き場に放り込み、少女たちを大人たちの世界から「救出」すると、ヘンリーはポケットの中の解放された少女以外のあらゆるものは、何の価値もないという気分になるのだった。
――ああ、神様。今日も僕は世界を守る少女たちを、邪悪な大人の世界から解放しました。
ヘンリーは満ち足りた気分でそう呟くと、ゴミ収集室の中を見回した。特に問題なし、そう思いかけた時だった。ヘンリーの目がある奇妙な光景を捉えた。
空のゴミ箱の蓋の上に、鳥くらいの大きさの黒い影が乗っているのを見たのだ。
――なんだ、あれは?
ヘンリーは黒い塊の正体を見極めようと目を凝らしかけた。と、それを察したかのように、塊が身じろぎをした。どうやら黒い塊は生き物のようだった。
――やあ、ヘンリー
ヘンリーは驚き、目を瞠った。生き物はカラスくらいの大きさで、実際、背中に羽を思わせる被膜があることから鳥の一種にも見えた。が、鳥類と大きく異なっている点が一つだけあった。顔が、どう見ても人間の顔面なのであった。
――ヘンリー。私が何に見える?
生き物はいきなりへンリーに向けて問いを放った。ヘンリーは動物が喋るという状況に戸惑いながら、何と返した物かと考え始めていた。生き物は尖った耳と猛禽類に似た脚、そして黒く長い尻尾を有していた。
「悪魔だ。悪魔に見える」
ヘンリーは直感的に連想したものの名を、ためらうことなく口にした。生き物は大きな口の端を楽し気に吊り上げた。その表情はまさしく悪魔そのものだった。
――そうだな。私を見る力が備わった者たちは、だれしもそういう印象を持つ。きっと私は君たちが「悪魔」と呼ぶ存在に近いのだろう。あいにくと私自身は自分が悪魔なのかそうでないのか、知り得たことがないのだが。
生き物は長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら言った。なぜ?とヘンリーは問うた。なぜ自分にだけ悪魔の声が聞こえ、悪魔の姿が見えるのだろう?
――私の名は『御使い』。自分で名付けたわけではない。現実と非現実のあわいで何百年も生きているうちに、いつからかそう呼ばれるようになったのだ。
「何百年もだって?……いったいどこに隠れて、何を食べて生きていたんだ?」
――ふふ、ヘンリー。素直ないい質問だ。私がここに「出現」できているのは、君が私を見つけてくれたからだ。私はかなり前からここにいたのだが、現実の力に薄められ、ここにいながら、「ここにいない」状態にあったのだ。君の妄想力が現実の確かさを弱め、私を出現させた。ありがとう、ヘンリー。
〈第九回に続く〉
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