第3話 ヘンリー(1)


 ヘンリーがいくつかの季節を経てシカゴに戻ると、街は初秋の色に染まっていた。


 あまりに長い行路を徒歩でやってきたこともあり、ヘンリーは久々の故郷の代わりように、呆然とするばかりだった。


 万博後のシカゴはありったけの金と移民を吸いこんでおり、新世紀を象徴する摩天楼が競うように天に向かって伸びていた。幼い頃になじんだ街並みの異常な変化に、ヘンリーはもしかしたら自分この地の生まれではなく、異邦人なのではないかとしばし、訝った。


 ヘンリーはシカゴに着いたその足で、かつて世話になった児童施設へと向かった。


 本来であればまだ、学校に通える年齢ではあったが、ある事情からヘンリーはすでに教育を受けることを断念していた。両親はすでにこの世に無く、天涯孤独の身であるヘンリーにとって、唯一、知っている人間がいる場所がこの施設だったのだ。


 石造りの古びた建物が見えると、路地から吹きこんだ風がヘンリーの頬をなぶった。


 ヘンリーは思わず外套の襟を掻き合わせた。外套は、遥か三百キロ彼方にある別の施設で職員からもらったもので、シカゴまでの旅路の間、ヘンリーを夜風から守ってくれた大事な「武装」だった。


 ヘンリーは施設を訪れる前に、かつて在籍していた学校にも顔を出そうかと一瞬、迷った。だが、シカゴ時代のヘンリーにとって学校は窮屈で理不尽な場所でしかなく、そもそもシカゴを離れ、遠いイリノイの施設に行かざるを得なくなったのも学校でのごたごたが原因だった。


 ヘンリーは1892年、シカゴで生まれた。フルネームはヘンリー・ダーガー。

 ヘンリーが数年ぶりにシカゴに戻ってきた理由は、よそで暮らすことにたえられなくなったからだった。


 元々はシカゴで両親と暮らしていたが、四歳の時に母親が病死。生まれたばかりの妹も養子に出され、父親と細々と暮らす生活を余儀なくされた。


 ヘンリーには、生来の特徴があった。現在の言葉に直せばアスペルガー障害という範疇に入るかもしれない。コミュニケ―ョン能力に難があったのだ。


 ノッカーを二度ほど鳴らすと、間延びした表情の中年女性が姿を現した。女性はヘンリーの姿を認めると「おや」と言って目を丸くした。ヘンリーは咄嗟に「こんにちは」と返した。女性は施設の職員で、ヘンリーとは面識があった。


 ヘンリーが施設を出たのは小学生の時で、今は十六になっているから、もう少しましな挨拶をすべきだとわかっていたが、年相応の振る舞い方というものをヘンリーは知らなかった。


「どうしたの、急に。久しぶりだねえ。随分と大きくなって。学校はまだ休みなのかい?」


 女性職員はどうやら、ヘンリーが夏期休暇を利用して故郷に遊びに来たのだと思っているらしかった。ヘンリーは子供がよくするように無言でかぶりを振ると

「学校には行ってません。またシカゴで暮らしたいんですが、仕事や部屋の世話をしてくれる人はいないでしょうか」


 ようやくそれだけを言うと、ヘンリーは俯いた。ヘンリーの目には女性の足元しか見えなかったが、それでも彼女が困惑していることがありありとわかった。


「……まあ、おはいり」


 女性はそう言うと、ヘンリーを建物の中へ招じ入れた。部屋の中には昔、ヘンリーが世話になっていたころと同じように、綺麗に片付いた広いテーブルがあった。


「とりあえず、教会にでも行ってみるんだね。あんた、礼拝だけはかかさなかったでしょ」


 昔と同じように、窓に近い椅子に無言で収まったヘンリーに女性が言った。いささか困っていることはヘンリーにも理解できたが、そうかと言って自分の力だけで居場所を見つけられるほど知識や経験があるわけでもなかった。


「もう一時間もしたら他の子が来るからさ、ひとやすみしたら教会に行ってみなよ」


 あからさまな厄介払いにも、ヘンリーへ決して腹を立てることはなかった。


「どうもありがとう。教会に行ってみます」


 ヘンリーは女性職員に礼をを述べると施設を後にした。記憶を頼りに街を歩き出したヘンリーは、繁華街の様子が昔と比べて随分と賑やかになっていることに気づいた。


 労働者の多い、決して華やいでいるとはいえない地区でも、写真や色鮮やかな版画を用いた広告が至る所に貼られ、ヘンリーの胸を高鳴らせた。


 特に目を引いたのは、少女モデルの写真だった。リボンをつけ、毛先に洒落たカールをほどこした少女たちが、商品と一緒にほほ笑んでいる写真はまるで、少女だけの別世界が存在するかのようだった。


 実際、往き過ぎる高級そうな車の中から、写真の少女を思わせるような可愛らしい子供が顔をのぞかせることもあった。ヘンリーは歩道に置き去りにされたグラフ誌や、ショーウィンドウの中でほほ笑む人形などを物珍し気に眺めて歩いた。時折、聞こえてくる陽気なリズムの音楽もまた、ヘンリーの気分を盛り上げた。


 さほど広いとは言えない地区を二十分程歩いて、ようやくヘンリーは昔、通った教会にたどり着くことができた。柵の外から前庭を覗きこむと、見覚えのある神父の姿があった。ヘンリーは声をかけるかどうか一瞬、戸惑った。すると神父の方がヘンリーの気配に気づいたらしく、表情を崩して近寄ってきた。


「随分と久しぶりじゃないか、ヘンリー。まだ夏休みなのかい?」


 神父は女性職員と同じことを言った。ヘンリーはああ、またかと思った。


 どうして大人は皆、同じようなことを言うのだろう。イリノイの施設からシカゴに戻る道中でも、通りすがりの大人たちに物珍し気な目を向けられ、呆れられてきた。その多くは「なんだってそんなに長い距離を歩いてきたのか?」という疑問から来るものだった。


 だが、大人たちはヘンリーと話しているうちに、次第に腑に落ちたというような顔になってくるのだ。


 ――そうだよ、ようするに、ちょっとおつむが足りないんだ。かわいそうだけどね。せめて周りに面倒を見てやれる大人がいればね、こんな無茶はしないだろうに。


 ――いや、この手の子供は案外平気な顔で何十マイル、何百マイルをあるいたりするものさ。線路伝いにね。疑問って奴を抱くようにできていないんだよ。


 大人たちはヘンリーの「事情」を知ると一様に優しげな、憐れむような目を向けた。


 そして大抵の場合、ヘンリーはそうした奇異の目に無関心だった。何かを強要されたり、自分の邪魔をされたりするのでない限り、どう見られようといちいち気にしない、そういう習いになっていたのだ。


 二十世紀も半ば以降になるまで、精神障害や知能遅滞の扱いは、病院でさえ旧態依然とした人権侵害がまかり通っていた。当時の精神医学や脳科学では、発達障害やADHDといった個性を「神からの贈り物」などと捉える余裕はなかった。


 さらに当時の人権意識や社会通念を考えてみても、ヘンリーのような「厄介者」を受け止めてくれるコミュニティは神の名の元に平等な教会以外にはあり得なかっただろう。


「学校は行ってません。施設もいじめられるからうんざりです。どこか住む場所と働き口が欲しいんです」


 ヘンリーは女性職員に訴えたのと同じ口上を繰り返した。神父は目を丸くし、やがて考え込むような表情になった。


「そうか、なるほどね、ううん……」


 ヘンリーは神父の反応を待った。自分の扱いに困った大人たちが、しばしばそういう間を生み出すことをヘンリーは経験的に知っていた。……が、それに対し気を遣うとか申し訳なく思う気持ちは無かった。周囲が困惑しているその最中も、ヘンリーの中では様々なとりとめない物語がうずまき、動いていたからだった。


「そうだな、掃除や皿洗いの仕事なら、なくもないだろう。しかし……施設を逃げ出してきたんだろう?一日中人に使われるような生活ができるのかな、ヘンリー?」


 神父の不安げな表禱にも、ヘンリーの心は動かなかった。遠いイリノイの施設からひと夏を歩いてシカゴに戻ってきたのだ。仕事くらい、できないわけがあろうか?


「やれます。紹介してください」


 ヘンリーは即座に言った。神父はその屈託のなさに一度、ため息をつくと「いいだろう」とうなずいた。


「話が決まったら伝えるから、すぐに行くんだよ。いいね?」


 ヘンリーは「そうします」と言って必要以上に深くお辞儀をした。


「部屋は今日中に探してあげよう。しばらくは屋根裏や物置のような狭苦しい場所になるかもしれないが、我慢できるかな」


 ヘンリーは「もちろん」と答えた。この数か月の間、屋根のない一夜を過ごすことが何度となくあったのだ。それに比べれば物置部屋など天国と言っていい。


 神父は「そうか」と返した。子供だから、知能が遅れているからと言って汚い場所、狭い場所で十分だなどとは思いたくない、むしろ小奇麗な、住み心地の良い部屋をせめてあてがいたいというのが本音だったが、いきなり訪ねてきた少年のために、ただ単に旧知の仲であるというだけの自分ができることは限られていた。


「ところでヘンリー」


「はい」


「このあたりに住むとして……また教会には通うのかい」


「はい。出来る限り」


「そうか、それはいい」


 神父はヘンリーに声をかけられてから始めて、心の底からの笑みを浮かべた。


              〈第四話に続く〉

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