第7話 桜色の海

気づくと海にいた。

何をやってるんだ俺は。

その思いだけが頭を駆け巡った。


それから逃げるためなのか、無意識に彼女に電話をかけていた。

誰でもいいから話したかった。

違う、嘘だ。彼女と話したかったんだ。

それがさらに自分を傷つけるとしても。


コール音が十回を超えても電話は繋がらなかった。

それが彼女が成功したことを意味するなら、俺は喜ばなくちゃいけないはずなんだ。

一緒に前に進もうとした仲間として喜ぶべきなんだ。


それなのに俺の心は怪物に荒らされたようにざわついていた。

彼女が一人だけ成功したからじゃない。

多分これはもっと別の話。

許されないであろう一つの思い。


俺はいつからこんなに性格が悪くなったんだ。

自分で自分が嫌になる。

なんて言っておけば、まだ大丈夫だと思ってるんだ俺は。

本当は別に嫌になんかなってない。

むしろこの気持ちを正しいものだとさえ思っているのかもしれない。

だから電話をかけようとしているんだ。

そういうところが嫌なんだよ。


ただ、そんな心の怪物はおさまることになる。

十五コール目、彼女の声が耳に響いた。

「はい」

その声を聞いた瞬間俺の心は驚くほどに落ち着いた。


「こんばんは」

「ああ」

彼女は少し泣いているように思えた。

その涙がどっちの涙かはわからなかった。


彼女の告白は成功したのか聞きたいのに、言葉が出なかった。

どんな声で、どんな風に聞けばいいのかわからない。

また怪物が出てきそうだ。


「フラれちゃいました。やっぱりうまくいきませんね」

俺が何も言えないでいると、彼女が精一杯取り繕ったかのような声でそう言った。

それを聞いた瞬間、正直に言うと俺は安心したんだ。

心の底からホッとした。

それは最低な感情で、でも怪物はそんな感情でしか去ってはくれなかった。


「そっか、俺もだよ。本当難しいよな」

何言ってるんだ俺は。

告白することすらしなかったくせに。

俺にそんなことを言う資格なんかない、彼女と話す資格なんかないんだ。


「本当ですね。さくらんぼ作戦失敗です」

「そうだな。こういう時、あいつがいてくれると気持ちが軽くなるんだろうな」

「あいつって、前に行ってたタイムカプセルの人ですか?」

「ああ、あいつならなんとかしてくれる気がするんだ」


「そうですか。でも、タイムカプセルって面白そうですよね。私もやってみようかな」

「いいんじゃない。何入れるの?」

「私、日記書いてるんですよ。だから今日のこととか書いて、それを何年かたった時に見て懐かしむんです」

「そっか」


なんでもないような話をひたすら続けた。

お互い会話が途切れないように、ずっと話し続けた。

多分、二人とも分かってたんだと思う。

会話が途切れたら何が起こるかを。


そしてその時が訪れた。

不思議な沈黙。

今まで焦るように話してたのに、急に静寂が場を支配した。

お互いが探り合い、話し始めようとする。


「あのさ」

「あの」

二つの声が重なった。


「あー、ごめん。先どうぞ」

「すみません。そちらからどうぞ」

また重なる。

「いいよ。君から話して」

俺は先に話すのが怖くて逃げた。


「じゃあ、あの……すみません、私嘘つきました。本当は告白なんかしてません、できませんでした」

なんとなくわかってた。

自分がそうだったからわかるんだ。

あの喋り方、あの雰囲気は前に進めなかった人のものだ。

でも、俺はそれを責めようとは思わない。

いや、責める資格なんかないんだ。

だって俺は、きっと彼女よりもひどい理由で告白ができなかったんだから。


「うん、ごめん俺も……俺も告白してない。あと一言、一言だせばいいとこで日和ったんだ。怖くなった。本当、ダメだな」

そうだ、本当に俺はダメなんだ。

彼女に先に話させて、安心してから自分も話す。

そしてその話した内容すら嘘なんだ。

本当はそんな理由なんかじゃない。

でも、それを言おうともしないんだ。

本当にずるい。


「あー、やっぱ難しいな。勇気ってそう簡単に出ないよな。失敗したらとか考えちゃうと、怖くて踏み出せない」

「…………」

返事は返ってこなかった。

沈黙は怖い。

だから、俺は話すのをやめなかった。

一人で話し続けた。


「あのっ!」

俺の声を遮って彼女が大きな声を出した。

「違うんです……私、違うんです」

「…………」

今度は俺が黙る番だった。

「私が……私が告白できなかった理由は……」

ダメだ。これ以上は聞いたらいけない。

そうわかってるのに、俺に彼女の言葉を止めることはできなかった。


「その……先輩に会いに行ったんです。行ったのに、いざって時に、その……あなたの……」

止めなきゃいけないんだ。

でも、やっぱり俺にはその涙交じりの声を遮ることはできなかった。

もしかしたら期待しているのかもしれない。

そんなのはダメなのに。

俺は卑怯だ。


「あなたの……あなたのこと思い出して、それで……」

「わかってる! わかってるんだ。ごめん」

もう耐えられなかった。

自分の卑怯さに、ずるさに、汚さに。

そして、自分が満足するために俺はこれからもっと最低なことを言う。

無責任で最低なことを。


「ごめん……俺が言わなきゃいけないんだよな。それなのに……それなのに俺は、全部君に言わせて。自分が傷つくのが怖いから、だから、無責任なことは言わないって言い訳して……最低だ」

彼女の泣き声が聞こえた。

これ以上は言っちゃいけないなんてわかってるんだ。

でも、自分を抑えるのはもう無理だった。


「俺も一緒だ。告白しようってときに君の声が、君のことが頭に浮かんで、言えなかった。

わかってる、無責任だって。俺は君と同じ時間にいられないのに、それなのに俺は君のことが……」

その先は言えなかった。

言う勇気なんてなかった。


「なんでですかね……なんで。今、同じ場所にいるんですよね、私たち。同じところにいるのに、同じ景色を見ているのに、同じ匂い、同じ音、同じものを感じているのに、それなのに私たちの距離は世界のどこよりも遠い。こんなに想ってるのに私はあなたと同じ時間を生きられない。私だってわかってます。言っちゃいけないって。想ったらいけないって。でも、私もあなたが……」

彼女もその先を言わなかった。

二人ともわかってるんだ、この気持ちがダメだってことくらい。

同じ時間を生きられないのに、こんな気持ちになったらダメだって。

それでもこの気持ちが消えることはなかった。

彼女との距離は世界で一番近いのに、世界で一番遠かった。


もうどうしたらいいかわからない。

彼女になんて言えばいいのかわからなかった。

「ねぇ、いま何が見えますか?」

彼女が突然聞いてきた。

それが何を意味するのかわからなかったけど、それでも俺にはその問いに答える以外の選択肢は浮かばなかった。


「何って、海と——」

「桜、ですよね」

確かに桜が見える、海と桜、不思議な光景だ。

「珍しいですよね、海と桜が一緒に見れるの。だからお気に入りの場所なんです。前にも言ったでしょ、『さくら』は私にとって特別だって、その理由わかりますか?」


理由、それはきっと、

「名前?」

「正解です。あなたがいま見てる桜、それが私の名前です。多分これから言うのはすごい勝手なことだと思います。でも、少しだけわがまま言ってもいいですか?」

「そんなのいくらだってきくよ」

それが俺にできることならなんだってする。

「じゃあ、桜を見たら少しでいいんです、私のこと思い出してもらえませんか? ほんの少しでいいから私がいたって、春になるたびに、少しだけ私がいたことを思い出して欲しいんです。桜が見える間だけ、私をあなたの心においてください。お願いします」


「思い出すよ、何回だって思い出す。少しだけなんかじゃない、もっと、もっと」

うまく話せない。

目には多分涙がにじんでいた。

「ありがとうございます。じゃあ覚えててもらえますか? 私の名前は、さくら——」

彼女が言い終わる前に、ツーツーという電話が切れる音が耳に響いた。


それから何度かけ直しても電話はつながらなかった。

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