Allegro 八分の六拍子
「……えっ?」
ぼくがずっと握りしめていた都築さんの左手には、そういえば今日はシュシュが巻かれていなかった。そして、今ぼくが手を放した、その下から現れたのは……。
「綺麗……」
思わずぼくのもらした呟きを聞きとったのだろうか、都築さんが首をかしげる。
「わたしの手が、どうかしたんです、か?」
「綺麗だ……」
「えっ? あ、っありがとう、ございます?」
何を勘違いしているんだろう。先ほどまでの昂揚感も冷め切って、底冷えのする怒りが腹をくすぐった。
「なんで、なんで綺麗なんだよ!!」
阿佐ヶ谷のホームにぼくの怒声が響き渡る。酔っ払いが何人か驚いてこちらの方を振り向く。
「ねぇ、都築さん、七月末、手首のリストカットの跡、アップロードしたよね。あんな大きな傷、たかが数か月で消えるわけないもんね、なんで? なんでなにも残ってないの? おかしくない? ケロイド状になってたり、少なくとも線が残ってたりとかしないの? どういうこと? どうして? どこいっちゃったの? 確かに左手だったよね? シュシュ巻いてたのって、リスカの跡隠すためじゃないの?」
都築さんはすっかり怯えてしまっている。
「へっ、えっ? リ、リスカ? してな……あっ」
思い当ったようだ。
「あ、あの写真、すぐ消したのに、見てたんです、か?」
「えぇ、見てましたよ。貴女の発言は基本的にすぐに見るようにしてたんです。それで、あんな徹底的で、芸術的で、冒涜的な貴女の手首はどこに行ったんです?」
そういえば。ラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』は、第一次世界大戦で片腕を失ったピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインの委嘱によってラヴェルが作曲したものだが、ラヴェルが体力の衰える中、渾身の力を込めて作曲したのにも関わらず、ウィトゲンシュタインは最初、そのラヴェルの要求する超絶技巧を理解することが出来ず、初演時には大幅に書き換えをして、ラヴェルと絶望的な仲たがいをした。そんな状況、今のぼくたちにはぴったりじゃないか? ラヴェルはどこまでも隻腕のピアニストのために心を配ったが、ウィトゲンシュタインはそれを全く理解できていなかった。
「あれはね、だから、違うの。気の迷いでね、リスカの跡とかアップロードして、そしたら誰か構ってくれないかな、って、そう思ってやって、やっぱりキャラじゃないから、と思って消したの、ただそれだけなん、です」
ほんとうは愛する人の体が傷一つない美しいものだったんだから、喜ぶべきことなのかもしれない。でも、そんな風に思えないのだ。
あぁ、熱で頭が朦朧とする。それでもベンチから立ち上がる。
「ねぇ、じゃあ答えてくださいよ。あなたはつらくなかったんですか? 結局、あなたもよくいるリア充気取りだったってことですか? つらいアピールでネット上で人気取りですか? いっつも左手にシュシュ巻いてたのももしかしてリスカ跡をほのめかすアピールだったんですか? それで? 年下の男の子を誑かして捕まえて? 恋愛ごっこ? 楽しかったですか? ほんとうはぼくじゃなくても、馬鹿な男で、そばにいてくれるならだれでもよかったんでしょう? それで? キスされてあの慈愛顔ですか。
笑わせますね」
運命なんてものは存在しなかったのだ。ぼくも彼女も、結局そこら辺の大学生と同じだ。運命的な、真の愛なんてものはどこにもなかったのだ。性欲だ。羨望だ。恋人がいるべきだという社会通念だ。そういったものに突き動かされただけの、なんの変哲もない男女だったんだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ、なんで怒ってるのか、まったく、わから、ない」
ぼくは、左手のシャツの袖を乱暴にめくって、包帯をほどいた。まだ生々しい傷跡が現れる。
都築さんが息を呑むのが聞こえた。
「あなたに近づこうと思ったのに」
ベンチに座った都築さんに一歩近づく。
「ぼくたちだけは、違うと思ってたのに」
「そんな、だって、いいじゃないです、か。別に、浮ついてても! だって、確かにしあわせだった、でしょう? それすらも否定するんですか? ほら、ラヴェルとウィトゲンシュタインだって、大ゲンカしたのちに和解しているじゃないです、か! 謝る、謝りますから、ね?」
ぼくは首を緩やかに降った。
「そんな、だって。いいじゃないですか、人と同じしあわせでも。世界で一組だけ、なんて、最初から無理です、よ。中二病じゃあるまいし」
それじゃあ、ぼくのこの左手はどうなるんだよ。
全部独り相撲じゃないか。馬鹿らしい。いい加減にしてくれ。
ふらふらとした足取りで、もう一歩近づいて、左手の傷を見せようとする。これがぼくの、愛の大きさの、正しさの、唯一の証明だ。上り列車が三鷹方面からホームに滑り込んでくる音が聞こえる。
「っ」
都築さんが傷口から目を背けて、ぼくを突き放そうと軽く肩を突いた。
何がいけなかったのだろうか。
リストカットによる大量失血だろうか。ロヒプノールによる酩酊感だろうか。それがなければ、もしかして、ということもあったのだろうか。よろめいて、予想していたよりも、二歩も三歩も後ろに足がもつれて止まらない。
都築さんに突き飛ばされたぼくが最期に見た景色は、彼女の驚いた顔ではなく、慣れ親しんだオレンジ色の車体の鼻先で。
――――――――――――中央線の車体とレールがきしむ音は D メジャー、ニ長調の主和音だ。
『群玉の枢にくぎさし堅めとし妹が心は
【万葉集・四三九〇】
左手のためのピアノ協奏曲 田村らさ @Tamula_Rasa
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