第二カデンツァ

 起きたのは、夜の十一時だった。ほぼ丸一日を寝て過ごしたことになるらしい。頭がふらふらする。当然だ。あれだけの血を失って、ロヒプノールを過剰摂取して。むしろ死ななかったことに感謝すべきだろう。薬の成分はまだ体に残っているようだ。

 傷口はしっかり化膿が始まっていた。大きくえぐれた穴に、自分の体から出たのか不安になる色の液体がいろいろと詰まって、周りの肉は赤く腫れ上がっている。切った時の激痛はないが、じくじくとした痛みがゆっくりと、確実に、波のように襲い掛かってくる。とりあえずの応急処置として、流水で洗浄することを決めた。誤った手法ではないだろう、が、当然激痛がまた走った。歯を食いしばって耐える。適当に見切りをつけて、包帯を巻いた。ガーゼで消毒、というのも考えないではなかったが、その際の激痛を考えるだに恐ろしい。

 さて。もうやることは決まっていた。

 右手だけで携帯を捜査して、アドレス帳から都築さんの電話番号にかける。

 深夜ではあるが、全く気にもかけなかった。

「……はい、もしもし。どうしたの、こんな時間、に」

「あ、はい。ぼくです。くるるです。お話したいことがありまして、直接会ってお話したいので、今から時間いただけますでしょうか」

「……えっ、今から、ですか?」

「はい。今からです」

 電話口の向こうで、ため息を吐いているのが分った。

「分りました。……何時に、どこです、か」

「十二時半に、阿佐ヶ谷です」

「分りまし、た……。何か、大切な事情があるんでしょう?」

 えぇ、これ以上にないほど、ね。


 ぼくは、おそらく目つきも虚ろで、歩き方もしっかりしない状態だったんだと思う。そういえば、熱があるような感じがする。当然か。睡眠薬の過剰摂取と、大量失血と、おそらく炎症かなにかも起こしているに違いない。周囲の人が、酔っ払いか何かと勘違いしたのだろう。ぼくのことをあからさまに避ける。

 総武線のドアが開き、ホームによろめきだしたぼくを、支えてくれる人が居た。……都築さんだ。

「こんばんは。気になったので、改札を入ってホームまで来ちゃいまし、た」

 そういってまた、口元だけで笑うのだ。ぼくも同じような笑みを返しながら、半ば肩を借りるようにして歩き出す。

 下り電車から吐き出された大量の人の流れをやり過ごすと、僕らは上り電車側ホームのベンチに座り込んだ。都築さんが温かい飲み物を買ってきてくれる。

「で、一体どういう要件なんです? わたしたち、昨日も会ったばかりでしょう」

 そうなのだ、あんなことをしでかしたり、一日中寝てたりして、また時間の感覚がおかしくなっていたが、昨日のことだ。

「そう、昨日のこと、昨日のことなんです」

 ぼくはここで深呼吸をする。

「昨日、二人で遊びに行ったの、楽しかったですか?」

「恥ずかしいことを訊くんだ、ね」都築さんはぼくからちょっと顔を離して「……もちろん、楽しかった、です」小声で囁くように言った。

「よかった。……もう一つ質問です。ぼくと一緒にいて、楽しいですか?」

 都築さんは、今度はぼくの顔を見て答えてくれた。

「もちろんです。……それを、確認しに来たんですか? 不思議な人ですね。悪い夢でも見たんです、か?」

 悪い夢だったらどれだけよかったことか。

 左手は動かないが、右手で都築さんの左手をつかむ。

「ぁ……」

「都築さん。もうとっくに、分ってると思うけど。……好きです」

 ほんとうは、こんな薬でふらふらで、眼窩も虚ろな状態で、駅のホームでする予定の告白ではなかった。細かくは言わないが、人並みに考えはあったのだ。だがもう、仕方がない。

 ぼくの右手の中で都築さんの左手の力が抜ける。こぼしてしまわないように、強く握り直す。

「だから、もし都築さんもぼくのことを好きなら、付き合ってくれませんか」

 目を見て言えた。もうそれだけで満足だった。

 都築さんもぼくの目を見返してくれる。

 そうしたまま、たっぷり二分は経過しただろうか。一本の上り電車が目の前を通過していった。上り電車だから乗客は少ないのだが、それでも不信の目を向けられる。が、ぼくたちは二人ともそんなことを気にも留めなかった。

 都築さんが目を閉じて、左手を強く握りかえしてくれる。

「こんなわたしでよければ、よろこんで……!」

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