再現部〈リキャピチュレイション〉
――しかし、なんの気なしに彼女の発言をチェックすると。
「もう、なにがなんだか分らなくなってきた」
「どうしてわたしじゃなければダメなのかな」
ハイだった気分が一瞬にして芯から醒めた。なんだ、この発言は?
ぼくはとてもとても、生まれて初めてってくらい楽しかったのに。なんでこんな後ろ向きの言葉が並ぶんだ?
ぼくがはしゃぎ過ぎていたのが、さすがに伝わったのだろうか。嫌われてしまったんだろうか。どこで間違えたんだろうか。
やっぱり、ぼくはまだまだ絶望しきっていなかったのだろうか。結局、浮ついた気持ちで女を求める本能で都築さんを好きになったから、そんなことをひょっとして見抜かれたんだろうか。
そもそも、本を返すついでにお茶をして、買い物に付き合わされたのも、単なる友達としての行為でしかなかったのか? まぁ、確かにこれくらいなら勘違いするぼくの方が悪いと言える。でも、そのあとのも? 全部社交辞令だった? 都築さんって、そういうことできる人だったのか? 何もかもが分らない。何が、何がいけなかったのだろう。
思えば、最近まったくつらくなかった。考え方が、唾棄すべきリア充たちのそれに近づいていく自分と、それでも楽しいんだからいいじゃないか、と流してしまう自分がいた。
普通ならば、そのまま真っ当な人間になってしまえばいいのである。だが、ぼくたちの場合は事情が違うのだ。考えなしに人を好きになり、考えなしに人を嫌いになる彼らと同じレベルに落ちてはいけないのだ。
これだから、ぼくはダメなんだ。本当に絶望しきったことがないから。ただ単に自分のぱっとしない現実から目を逸らすためだけに、つらいつらいと連呼して。甘えに他ならなかったのだ。ぼくはこちら側の人間じゃなかったんだ。それもそうだ。ぼくのつらさなんて、結局が、受験に落ちました、友達ができません、やりたいことも見つかりません、それだけじゃないか。ほんとうは全くつらくないのに、もう少しだけ努力してしあわせになることを放棄して、つらさに甘んじていたから、それをほんとうにつらい人には見抜かれてしまったんだ。
ここでぼくは、あの写真を思い出した。保存してあるはずだ。ダブルクリックしてイメージビューワーに広げる。
854*480 ピクセルの小さなキャンパスに大写しになったなまっちろい手首はよく見ればエロティックで、それなのにそこから流れ出る血は単純な光景だけにグロテスク極まりない。
都築さんの白い腕、流れる鮮血、赤に染め上げられる花柄のハンカチ。そして、鳩の血色の深くて暗い、溝。
そうだ。これだ。ぼくと彼女が分り合えない理由は、これなんだ。
皮肉なことに、ぼくが全然つらくなかった、ということを都築さんに見抜かれて、嫌われてしまったがために、ぼくは死ぬほどのつらさ、というのを実感することが出来たのだ。
自分の手首を眺める。静脈が浮き出て見える、傷一つない綺麗な手首。
そうだ、都築さんのことをもっと知りたい、そう思ってずっとストーキングしてきたんじゃないか。ならなんで、もっと彼女に近づこうとしないんだ?
イエズス会宣教師のあの特徴的な髪形は、荊冠を被ったキリストの御姿に少しでも近づくためのものであるといわれている。坊主の髪型も同様に、仏に近づくためのものだ。
彼女がなぜ手首を切るに至ったのかという直接的な理由は分らない。だが、切らねばならない、その切迫した感情は、第二カデンツァは、確かにいま、ぼく自身が感じている。
引き出しを漁ってカッターナイフを探す。クソッ、なんでこんな時にないんだ。仕方がない、小学生のころから使っているはさみを取り出した。
頭が痛い。手が震える。心臓が不規則に鳴る。立っていられない。崩れ落ちるように布団の上に座り込んだ。
柄をしっかり握りこんで、冗談みたいに光を反射しないそのちゃちな刃先を左手の手首に添えた。ふと、疑問になる。こういうのって、手首のどれくらいの位置でやるものなのだろう?
この期に及んでそんな牧歌的な疑問を抱く自分の脳みそが馬鹿らしかった。どのくらいの位置でやるか? 決まっている。都築さんの腕にある傷と全く同じ位置だ。それしかない。
やるぞ。やるんだ。
頭の中に都築さんの顔を思い浮かべる。もう四か月間繰り返してきた手順だ。手馴れている。想像の中の都築さんはいつもみたいに、口元だけの、それでも十分魅力的な笑みを浮かべている。その魅力は、背負うものの大きさから来ているんだ。今はっきりと分った。
息を止める。柄を握りこむ手に力が入って、ぶるぶると震える。
――――――――――――ッッ!
……かなり力を込めて引いたはずなのに、手首には傷一つ付かなかった。思い切りが足りないせいもあったのだろうか。それとも、小学生用の安全はさみだったのが問題なんだろうか。
「んあああああああああああっっっ!!!」
目を瞑ってもう一度、今度は容赦なく、上から叩きつけるように、のこぎりで引くように、刃先で突き刺すように、とにかく、自分を壊そうという明確な意図のもとではさみを振るった。
激痛に耐えかねて右手に握ったはさみを放り出してしまった。どれだけ固く握りしめていたのだろうか、右手はまだはさみを握る手の形のまま固まって、ぶるぶると震えている。
目も固く閉じられたままになっていたことに気付いた。無理やり、と言った感じで瞼を開くと、血まみれになったぼくの左腕があった。
安堵の息を漏らす。血だ。真っ赤な血だ。布団にも大量に飛び散っている。そういえば、血の臭いを嗅ぐのはいつぶりだろう? ティッシュでどんどん流れ出てくる血液を拭うと、傷口の形が明らかになる。全然大きさが足りない。取り落としたはさみをもう一度固く握ると、先ほど出来たばかりの、今なおリアルタイムの痛みを発信する傷口に押し当てて、勢いよく引いた。
歯を食いしばっても居なければ、目を閉じていたわけでもない。自分でやっておいてなんだが、完全に油断していた。一度目とは比べ物にならないほどの激痛が走る。まだだ、足りない。構わずに何度も、何度も何度も何度も何度もはさみを左手首の上で滑らせた。
ぐっちゃぐちゃになった左手首を見て、ようやっとぼくは満足した。そうだ。これでいいんだ。都築さんの顔が再び脳裏に浮かぶ。今度の顔は、少しも笑ってなんかいなかった。
激痛は今だに収まらない。仕方ない。またベンゾに頼ろうじゃないか。
右手だけでシートから錠剤を取り出すと、またも水なしで数錠飲み込んだ。成人一日一回一錠は重々承知だ。薬剤の効果なんだろうか、大量失血によるショックによるものなのだろうか、専門的な知識がないから分らないが、ぼくはほとんど気絶するように、先ほどからぼくの血を浴びてじっとりと重くなった布団に倒れこんだ。
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