展開部〈デヴェロップメント〉
都築さんと出会ってから四か月が経っていた。その間にぼくらのサークルは一度定期演奏会を終えた。
ぼくはと言えば、もう完全に頭が融けきっていたと言っていい。
つらすぎる、片思いがつらすぎるのだ。
相変わらず都築さんが練習に来ることは二回に一回かそこら、というくらいだし、平均して月に三~四回顔を合わせて会話しているだけ、である。そして、彼女と会っていない日をどう過ごしているかというと、ただひたすら都築さんのことを考えているのである。
SNS 上のストーカーももちろん続けていた。ちょっとした発言から裏を探り、この発言は実は、ぼくのことを厄介だと思ってることを示唆してるんじゃないのか? とか、また一日現れなかったけど、ほんとうはぼく以外にもっと親しい友達が居るんじゃないのか? とか。
もちろん実際に顔を突き合わせているわけでもないのに、ずっと、それこそ起きている時間の九割を彼女が何を考えているのか、ということを考えることに費やすのは、ただただ不毛であることは分っていた。データの足りない状態で推論を重ねたところで、ぼくの恣意や希望的観測が介入することは明らかだし、それどころか、ぼくは半ば故意に自分を追い詰めるような思考に陥ってしまうことも多かった。非リアぶってこんなことを言っているけど、この発言とこの発言を合わせて考えたら実は彼氏の一人や二人いるのではないか、と考えてみたり。
キャンパス内の食堂で、彼女がぼくの知らない男と二人で居たのを目撃した時には、眩暈がした。
ぼくは都築さん以外にまともに会話できる人間なんていないのに、都築さんは別にそうでもないんだ。別にあの男が彼氏とか、そういう勘違いをしたわけではない。ぼくなんかは結局友達の一部でしかなくて、いくらでも替えの効くものでしかないんだ、そんな風にしか考えることができなかったのだ。
のちになって、その男が次のコンサートでエキストラとして他団体から応援に来てくれる人で、彼女が会っていたのは譜面の受け渡しと、若干の説明をするためだった、という極めて事務的な会合であった、ということが分るまでは本当に月並みな表現である以上に現実を正確に描写している常套句として、「夜も眠れない」ということばを使うしかなかったくらいだ。一週間でこの強さの睡眠薬を一シート使うのは確実に健康に悪いだろうな、とか考えながら。
こういった有形無形のやきもちとしか言いようのない不安感の他にもまだまだ片思いにはつらいことがいっぱいある。
たとえば、都築さんと会話をしたり、都築さんのためになにかをしたり、都築さんのことを考えている以外の時間に全く価値を見いだせなくなった。微笑ましいエピソードに聞こえる? 全くそんなことはない。一度この感覚を味わってみてほしいのだが、つまりこれはどういうことかというと、勉強していてもつらい、ということなのである。
音楽を聴くのとかは、彼女との共通の趣味であるから、まだいい。次に会ったときの雑談の種にでもなるだろう。
しかし、それ以外の行動はほんとうにすべてが無意味に思えてしまうのだ。ぼくにも数少ない友人と言えそうな人物が居るのだが、そいつらに誘われて遊びに行った日があった。
確かに半日、カラオケに行ったりだとか、呑みに行ったりだとかで、都築さんのことをひと時でも忘れていることができたし、屈託のない笑みを浮かべることができたように思える。
帰宅してからが大変だった。アルコールが抜けて、ノートパソコンに向かってぼくが遊んでいる間に都築さんがしていた発言を見るだけで、思わず涙をこぼしてしまった。
こんなことをしている場合じゃないんだ。こんな楽しみなんか捨ててしまわなければならない。常に彼女のことを考えていなければならないし、ぼくの人生の楽しみはすべて彼女から与えられなければならないんだ。心の底から本当にこんなことを思うようになってしまったのである。
といっても、結局彼女と会えるのは月に三、四回、それも練習終わりと、帰宅時の電車内で数十分というところである。つまり、それ以外の時間は全てがつらいのである。彼女のことを考えていれば、どうしても後ろ向きに、都築さんは自分のことなんかほんとうはどうでもいいんだ、という前提から、それと全く同じ結論しか導き出せないし、それ以外のことをしたり考えたりしていれば、感じる必要のない背徳感と罪悪感で押しつぶされそうになるのである。
もう一つつらいことがある。ぼくがこれだけ常識離れした時間彼女のことを考えていても、都築さんはぼくのことを考えていてはくれない、という思い込みだ。
絶対にそんな風に考えてはいけないことは分っているものの、どうしても不公平を感じてしまう。
当たり前だ。好きになればなるほど相手が自分を好きになってくれないこととのギャップが明確になっていくのは。それなのに嫌いになれないから、なおのこと困るのである。
などと、自らの首を自らで絞めることに精いっぱいになっていたぼくを、一通のメールが現実に引き戻してくれた。
……! 都築さんからだ!
三か月前にアドレスを交換してから、はじめてのことではないだろうか。当然である。アドレスを交換したらまずメールを送るなどという文化を身に着けていれば今頃こんな安い下宿でひねもすのたり懊悩していたりなどはしない。
件名なし。いかにもぼく達らしい。本分に目を通す。
「ごめんなさい、一週間前に貸した本、返すのはいつでもいいよって言ったんだけど、急に必要になっちゃったから明日会って返してくれるかな?」
なにがごめんなさいなんだろうか! ぼくは貴女に会うためだったらどんな他にどんな用事があろうと駆けつけるというのに。
ぼくは震える指先を抑えて、せいぜい平静を装うために、わざとらしく十分くらい間をおいてから受諾の旨を返信した。
駅前に現れた彼女の服装が普段より、余程可愛らしいことに驚いてしまった。
いつもの練習の時のような、武骨なパンツスタイルではなく、エスニックスタイルのロングスカートに、重ね着のトップスは袖口がふわりと広がり、そしてほんの薄く花柄の入ったコート。手首に巻かれた薄紫のシュシュだけがいつもの彼女の面影を残している。
かわいいって言いたい、余程口を滑らせてしまおうかと思ったが、繰り返しになるがそれをできるようならぼくも今頃こんなところで屈託していないわけである。
その服装はぼくのため、だろうか。そんなことを考えるのは思い上がりだろうか。
「ごめんなさい、待ちました、か?」
「いえ、今来たところです」
あぁ、一度このやりとりをやってみたかったのだ! もう死んでもいいかもしれない。
とりあえずここじゃなんですから、角の喫茶店にでも入りましょう、とのことなので、仰せに従うこととする。
借りていた本を返却し、そのままその内容についての雑談から、またいつものようにとりとめもない会話に。中身なんて全くない会話だけど、これがないとぼくはもう生きて行けないのである。「読み物として面白いのは確かなんですけど、なかなか教科書には載らないような土地風俗にかかわる資料が図版付きで乗ってるので、小説なのに資料集としても便利なんですよ、ね。今必要になるとは思わなかったです、けど」「ぼくはこの作者だと以前にお貸ししてもらったあのシリーズ、あれの四巻が一番好きですね。どうもネットの評判じゃ一番評判が悪いみたいですけど」
……一時間ほどしてからだろうか。少しだけ、会話の途切れた瞬間があった。少し傾いてきた日が彼女の横顔に差している。
「え、と。……この後、お時間ありますか? 暇なんだったら、お買い物に付き合ってくれません、か」
……っ!
まるで用意してきた文章を、ちょっとうつむいて早口で告げる彼女よりもいとおしいものがこの世にかつて存在しただろうか!
駅ビルの中で、彼女がスカートやハンドバッグを物色するのをただただ口出しするわけでもなく眺め、そのあと中古の CD 屋によって、普段なら二人とも聞かないようなテクノの名盤に手を出して。
そんなことをして、彼女と別れ、下宿にたどり着いた時には、ぼくの頬は弛緩しすぎてもう二度ともとに戻らないんじゃないかとすら思われた。
その後、ぼくに続いた一連の幸福なときについて簡単に描写しよう。
都築さんの誘いで、高名な指揮者の来日コンサートに行った。弦の不揃いなアインザッツから、あからさまに準備が足りていない演奏であることはすぐに分った。でも、そんなことは問題にならなかった。下手な演奏はそれ自体が二人の会話の種になったし、と、いうか、そもそももうぼくらの間でクラシック音楽の話題に頼ることは少なくなっていた。
彼女のことを好きになったのは、ある種の運命めいたものだとぼくは感じていた。
たとえば、世界の人口の内、なんの屈託もなく、妥協しているくせにそれを全く自分で悟ることはなく恋をすることが出来る人間が九割八分居るとしよう。少なくともぼくは、そして、見立てが違わなければ都築さんもそういった人間ではないのではないか。ぼくたちがそんな、世界に二パーセント程度しか存在しない、ほんとうに好きになった相手だけを許容する、それ以外の人間は切って捨てる、ということが出来るひとたちで、そんな二人が出会えたということについて、ぼくは神に感謝せざるを得なかった。
もう後は、いつ告白するかだな、なんてことすら考えていた。彼女がぼくのことを好いていてくれるのかどうかは、結局わからない、けれども、嫌いってことはないだろう、それだけは確信できた。
しかし、何よりも怖いのは、告白することで関係性が崩壊してしまうことである。今まで時間をかけて仲良くなってきたというのに、一度告白してフラれてしまえば、それはつまり、友達としてやり直すこともなかなか難しいだろう。それでも、今の関係のまま、ずるずると仲のいい友達を続ける、というのだけは我慢できなかった。それだけはぼくの美学の上で、許してはいけない欺瞞だった。ぼくらがあまり人のことを好きにならず、人の欠点を見つけては嫌いになることを繰り返しているかといえば、世界で一人の人間だけを愛するためだし、その愛は彼女のために捧げたいと思っていた。もうそれしか考えられなかった。
しかし、告白してフラれるにせよ、受けてもらうにしろ、もう一度くらいデートに誘ってもばちは当たるまい、調子に乗ったぼくは、なんと自分から都築さんを遊びに誘い出そうとした。幸運なことに断られることもなく。二人ともが好きな作品の舞台となった、都内の観光地を回って、帰ってきたのが今、日付が変わりかけている時刻である。
あまりにも楽しくて、楽しすぎてわけが分らなくなっている。
会えなくてつらさが溜まっているときには、前述のように彼女と関係ないことをすることでさえつらいので、洗い物が溜まるという実質的なデメリットがある。ぼくは今を機にとばかりに洗い物を含め、家事を片づけていた。
全ての庶務を終わらせるころには、すっかり深夜になっていた。
もう寝よう、そう考えてその前に彼女の発言をチェックしておこう、そう考えた。
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