提示部第二主題
自分にまだこんな行動力が残っていることが驚きだった。実家から届いたホルンを背中に抱え、ぼくはつい半年くらい前にぼくの入学を拒んだ大学の門を叩いていた。当然いやな思い出しかない。文系数学大問二番、二次関数と正三角形の問題、今でも思い出せるあの恐怖。絶望的な気分で問題文が回収されていくときに隣から聞こえてきた「あぁ大問二? ベクトルだよね」の声。
首を振って妄念を振り払う。
昨日、サークルの公式サイトで活動日時を確認し、掲示板の方にも入会を前提とした見学を希望する旨を書き込んでしまった。
勢いであんなことをしてしまったことをぼくは後悔しているのだろうか? 京王線に乗りながらずっと言い訳を考えていたが、不思議なことにいい意味での緊張はあっても、帰りたいという気分にはならなかった。
サークル棟のはじ、数ある音楽練習室のうちの一室のドア。防音のため他の部屋より少し分厚い鉄の扉をずりずりと開けると、バリトンサックスを演奏している女性と目が合った。ピアソラのタンゴ・エチュードの三番。記譜のダブルハイ A を苦も無く奏する彼女に目を奪われる。まさか。この人が? バリトンサックス奏者が二人以上このサークルにいない限りほぼ確定である。
女性としては高めの身長を押し込めていたパイプ椅子から、ばねを活かして勢いよく立ち上がる。ぴんと張ったスラックスに白いシャツ、清潔感の権化。青い長袖のカーディガン。薄い紫とピンク色のシュシュが手首に巻きついている。
彼女はスタンドにバリトンサックスを立て掛けると、ぼくとほとんど変わらない目線を合わせたままちょこっと首をかしげる。
「あぁ……昨日の」
予想より低い声。
「あ、あっ、はい」しまった、人と長らく会話していないから声帯が。
「んっ…と、今はちょっとほかのみんなはご飯で出払っちゃってるんだけど。うちのサークルへようこそ、でいいのか、な」にこりともしない。一人前にコミュニケーション能力に問題を抱えるぼくとしてはこのくらいの対応の方がかえってやりやすい。
……前言撤回だ。会話が続かない。予測はついたことであったが。彼女の普段の発言を見ていて、あれでコミュニケーション能力に問題がないと考える方が間違っている。
「え、えと。うちのサークルの紹介とかもしたいけど、試しに演奏しようにも人がいないから……」
「演奏なら以前に文京で聴かせてもらいました、それでお邪魔してみようかなと」
嘘っぱちだった。室内楽のコンサートなんて聴きに行くわけもない。どこで興味を持ったか、と聞かれたときのために用意しておいたセリフである。
「なるほど……。……じゃあ、フランス人とか好きだったりする、のかな、んです、か?」
大して知らない年下の人間に、敬語かため口かで迷うのはぼくにも見覚えのある光景だった。
「えぇ。ラヴェルとか」
「あは、は。なかなか室内楽サークルに入っていきなり名前を挙げる作曲家じゃない、ね」ここで初めて彼女が笑みをこぼした。
あー。
声にならないため息を漏らしていた。
これは、ダメだ。絶対にぼくはこの人のことを好きになる。ぼうっとした頭を彼女が無理やり紡いだ言葉がノックする。
「ラヴェル、と言ってもどんなのが好きなんです、か? 弦楽四重奏とか?」
ぼくは完全に見とれていた視線を引きはがして彼女のバリトンサックスのキイに目をやった。
「……いや、ぼくが好きなのは『左手のためのピアノ協奏曲』ですね。と、いうか、ラヴェルで好きなのはあの曲だけで、言い換えればあの一曲のためだけにラヴェルが好きです」
「だから、室内楽曲じゃないじゃないです、か」くすくすと手の甲を口のあたりに当てて、
「でも、『左手のための~』が好きだっていうのは、わたしもすごい分ります。なんだろう、ラヴェルが初めて嘘を吐かないで書いた曲、という、か」
「! そう、そうなんです。クープランの墓なんかも、確かに佳作ではあるんですけど、ラヴェル自身が何を言いたいのか全く分らない、結局女子供がレパートリーに付け加えるためだけにあるような曲でしかないんですけど、『左手~』だけは、ラヴェルじゃなきゃ書けなかったと思うんです」
「じゃあ、ドビュッシーでは……」
フランス人の話題は至極盛り上がった。生まれてこの方ここまで女性と、いや、人間と会話したことがあっただろうか。
でも会話の内容はあんまり覚えていなくて、彼女の喋り方が、実に精妙に変ホ短調にチューニングされているな、低くて落ち着く声だな、笑っても目のあたりは全く動かないんだな、シュシュが必要な髪の量とは思えないけどな、そんなことばかり考えていた。
お互いの名前すら聞いていないということが分ったのは、昼食から戻ってきたほかの部員が椅子にも座らないで熱心に話し込むぼくらの姿を呆れるように眺めていることに気付いた時だった。
ずいぶん話し込んだ割に、彼女からはそもそもこのサークルの活動内容などすら一切説明されていなかった、ために彼女はしばらく会員によってからかわれることになる。
「ホルンはみんなオケに行っちゃって、室内楽だといっつも不足するんだよね。きみも、なんできみの大学のオケ行かないでうちに来てくれたの? 正直うちの大学のオケよりきみのとこの方が大所帯だし、有名じゃない。いや、助かるんだけど」
田崎と名乗る都市工学科の三年生だという男のヴィオラ弾き――今年度の会長だそうだ――から一通りの説明を受け、このようなことを話の流れで聞かれて、一瞬胸がざわついた。もちろん下心しかない。
聞けば、このサークルは在籍者が二〇名かそこら、その中でも練習にしょっちゅう来るのが一〇名かそこら、という狭い所帯のサークルであった。残りの一〇名は演奏会前になると突然現れる、らしい。
男女比はおおよそ一三対八。数学的な意味で言って黄金比である。
「オーケストラとかは人間関係が複雑そうで向いてないかな、って。それにあっちの室内楽サークルも見てきたんですけど、それでも人が多くてつらいかな、と」
これも大嘘だ。ぼくが大学に入ってから楽器を吹かなくなったのはただ単に受験時代にやる気を失ったからであって、うちの大学のオーケストラの見学にも行っていなければ、そもそもうちの大学に室内楽サークルがあるのかどうかすら知らない。
「へぇ、そうなのか。その点うちのサークルなんてコミュ障(コミュニケーション障害、コミュニケーションに問題のある人の俗称だ)ばっかりだからね」
全然この会長もコミュ障には見えないのだが。
「全然そうは見えませんけど」
「そんなことないって、ほら、最初きみが話してた都築さんも、かなり筋金入りだから」
ほう、都築さんというのか。
「いきなり妙なこと言わないで、ください」
「怒るなよ。お互いの名前も聴かずにプーランクのオーボエソナタの話してるやつのどこがコミュ障じゃないっていうんだ?」
「……あれっ会長、そういえばわたし、彼の名前まだ聞いてません、けど」
「……俺もそういえば聞いていなかったな。お名前は?」
自分の名前を名乗るのは正直あまり好きではないのだが……、サークルに入るって言うのにそういうわけにもいかないだろう。苗字は平凡なのだが……。
「えっ、くるる?」
はい。
「下の名前が? くるる?」
「木へんに市区町村の区で枢、くるるです」
一同に笑われる。ある意味では見慣れた反応ではあるのだが、都築さんだけは笑わないでいてくれた、というのはぼくの欲目だろうか?
ホルンを久々に演奏して、練習が終わった後にみんなでご飯を食べに行って。こんな、こんな真っ当な大学生らしい行動をしている自分にまずびっくりしたし、しかも、これらのことを何のためらいもなく楽しい、と感じることのできている自分に愕然とした。
これでは、過去の自分に言い訳ができない。何のために今まで(自発的ではないにしろ)禁欲的な生活を送ってきたというのか。
もちろん、会長を周辺とした弦楽器のみなさんが大声で恋愛関連のトークを騒いでいるのはなかなか耳障りで、遠慮したいいわゆるリア充のテンプレートで安心したのだが、都築さんと昼の続きとばかりにプーランク、サン=サーンス、そこから少し範囲を広げてドイツ人作曲家の話も、と延々好きな話題をつなげていくのは、疑いようもなく楽しかった。
「わたしも、めったにこういうアフター(練習後の会食をそう呼称するらしいことをサークルに入ったことのなかったぼくは初めて知った)には来ないんですけど、ね」
「あぁ、そうなんですか。……まぁ確かに、あっちの(と言って会長さんたちの会話の輪を見やる)空気は、やっぱりぼくもまだ付いて行けそうにないです」
「分りますか? いちおう先輩なのであまり悪く言うのはためらわれるんですが……、どうにも、ねぇ」
と、言って彼女がそのあとに続けたセリフは、以前に彼女がネット上で発言した中でも、特にウケのいいものだった。ちょっとドヤ顔でお気に入りであろうそのフレーズを語るその横顔。確かに万人が好ましいと思う表情ではないのかもしれない。でも、ぼくにとってはその表情こそが愛おしい免罪符。
……これで確信が持てた。都築さんは、ぼくがネット上でストーカーしている女性まさにその人だ。
都築さんと別れ、各駅停車を降り、駅近くの下宿の階段をのぼりながら、徐々に自分が何をしたのかについて頭が回るようになってきた。
こんなに楽しかったのは生まれて初めてかもしれない、そう思ってしまったのである。こんな、サークル活動をして、みんなでご飯を食べて、異性と会話をして。そんなことで喜ぶのは程度が低いし、自分とは縁遠いことだと思っていたのに、ちゃっかり楽しかったのである。
今までの価値観が崩壊する思いであった。こういった人間と関わることを積極的に避けてきて、それを正当化するためにいろいろと理論を建てて孤独で居たのに。社交を必要とする人間は心が弱いだけだと思ってきたのに。わざわざショーペンハウエルを読んで、「誰でも精神的に貧弱で何事によらず下等な人間であればあるほど、それだけ社交的だということが知られるであろう」とかいうアフォリズムを熱心に信奉していた時期もあった、それなのに。
意識の上では、社交なんて程度の低い人間がすることだと思っていたのに、それを実際なしてみれば楽しいし、それでも意識はなかなか変わりようがないので、ギャップが苦しいのだ。自分も結局凡百の大学生と同じだけの意識しかもっていなかったのか?
何よりつらいのが、楽しいことがあったはずなのに、それすらまともに受け入れられなくなっている自分の心であった。
今まで自分が崇高で、そんじょそこらのリア充には理解できまいと思っていた理念が、今まさに自分によって打ち砕かれている。
なによりもつらいのが、一度こうした楽しみを知ってしまったがために、こういった楽しみ方から離れたのちにこれまでなら感じる必要のなかった虚無を感じてしまいそうだ、ということである。
今日だって、とりあえず最初だから、という理由でアフターにも出席したが、都築さんも次回からはまた欠席するというようなことを言っていたし、それならぼくも二度と出ることはないだろう。
唯一、救いになったのが、それでも会長さんをはじめとする生粋のリア充の方々と話が合わなかったこと、都築さんもああいった場が苦手であるらしいことであった。
あの空気を無条件で受け入れられるようになってしまったら、これまでのぼくは完全に死んでしまうだろう。かといって、かつての自分のように、物理的にも精神的にも閉じこもって、自己完結しながらつらい、つらいと喚くだけ、というのが昔ほど高尚であるようには思えなくなってきたのも事実である。
手も洗っていないというのに、自室の布団に吸い込まれていく。
少し枕に顔をうずめた後、ホルンケースの小物入れスペースに手を突っ込む。都築さんにアフターの場で借りた、アシュケナージの CD をインポートだけしようと思ったのだ。人から CD を借りるのなんて何年振りだろう。iTunes の機能により、インストール後の自動再生が始まる。
その CD はラフマニノフのプレリュードで、つまり前奏曲嬰ハ短調が最初に来る。
三オクターブの A、六和音で構成されるテクスチュアは少しだけ『左手の~』の第一カデンツァを髣髴とさせて。
そのままずるずるとプレリュード集を聴き続ける。今やアカウント名ではなく、本名で認識できるようになった都築さんは、帰宅して、早速鬱々しい発言をまき散らしている。ぴこん、ぴこん。連続してなる通知音。呑み会の空気はどうのこうの、彼氏のいる人間の相手するのは疲れるどうのこうの。
いつも通りの彼女のキレのある発言を見ながら、それでもどこか引っ掛かるところがある、なぜだろう、か。
少し考えれば分ることだった。ぼくが楽しかった時間を、共有したはずの時間を、いくらネタの上でもつらいと評価されているのがつらいのだ。
彼女のキャラクタから考えれば、当然楽しかったと表現するわけにもいかないのだが。そんなことは分っている。
何てことだ、ついに彼女の鬱を反映した発言を見ても楽しく思えなくなってしまった、とは。
人生、もうつらいことしかない。
七九分の収録時間が終わったときには、彼女も寝てしまったのだろうか、もう二〇分ほど発言がない。ぼくも諦めて、もう寝ようか。久々に外に出て、人と話して、いろいろなことがあり過ぎた。
ぴこん。
流石に寝る前に口だけでもゆすごうかと立ち上がろうとしたぼくの耳にウィンドウズのやわらかい通知音が入ってくる。まだ起きていたのか。何を言っているのだろうか? 画面を見て確認する。
「そういえば、それでも今日は一つだけいいことがあった」
ぼくの目に入ってきたのは短くこれだけだった。どきりとする。彼女に今日一日何があったのかは全部把握しているわけではない。でも、これは、ひょっとして、ぼくがあのサークルに入ってきた、ということを指しているのではないか。いや、そんなはずはないのだ、ないんだけど、それでも頬がだらしなく一瞬緩んだのを認めざるを得なかった。
今日は久々によく眠れそうだ。
それからの生活は今までにも増して彼女への依存度を増していった。
出先でも携帯で彼女の発言を常に監視するようになったし、毎週末の練習日には足取りも軽くサークルに向かうようになってしまった。
ぼくは生来生真面目な性質というか、サボりとかそういったことに抵抗を覚えるタイプなので、当たり前に練習に出ているだけといえばそうなのだが、大学のサークルの恐ろしいところは、こういった練習の場でも平気でサボる人間が多いし、それが容認されているらしいことだ。
当然、なぜこのようなことになっているかというと、みなさん忙しいからである。バイトやら、ほかの用事やら、あまつさえ友人と遊んだり、デートだったり、そういったことに休日はまず使われる。確かに、練習は毎週あるが、他の人と予定を合わせるべき時には休日を使ったほうがいいのだろう。だけど。
そもそもぼくは常日頃から暇なので、こうやって他に予定がコンスタントに入る人間が妬ましくて仕方がないし、バイトなら仕方がないが、友達や恋人とかそういったものと、このサークルの価値が天秤に掛けられている、という状況を考えるたびに、なんでこの人たちは優先順位をつけるんだろう、何様のつもりなんだろう、とか思ってしまうのだ。
意外なことに都築さんもよく練習を欠席する。が、しかしそれは、バリトンサックスという楽器の性質によるものである。サックスは必然的に室内楽と言ってもサックス四人のアンサンブルが基本となるので、サックス全員が揃わないと練習にならないのである。そのため、事前に他の誰かの欠席が分っていると、彼女は自動的に練習に来ない。用もないのに来て、ほかの人と雑談をするくらいなら家で個人練習をしている方がマシだというスタンスらしいし、非常に彼女らしくて好感が持てる。
といっても、サックスの誰もが練習に来るという状況の方が珍しいため、彼女が練習に来るのはたいてい、事前に他のサックスの人が欠席を連絡していなかった場合に練習に来て、そこで結局今日もアンサンブルの練習はできないと知る、というパターンになる。
ちなみにぼくはホルンパートなのでそもそも出番が多い。木管五重奏にしろ金管八重奏にしろ常に出番があるのだ。そのため、毎週かかさず出席しているのは当然と言えば当然なのだが、毎週出席するたびに都築さんは居ないかと目で探してしまい、居たら居たで自分のアンサンブルが手一杯で話しかけられず、居なかったら居ないで落ち込むという一連のルーチンワークを二か月も繰り返すと、だんだんと無力感を覚えるようになってきた。
当然、彼女はぼくに会えなくてもなんの痛痒も感じないわけだ。
その事実を毎回悟らされて、そしてその度にあぁもう言い訳できないな、確実にこれは、恋をしているなと自覚させられてしまうのだ。
だがしかし、ぼくにも役得、といっていいのか分らないが、が何度かあった。
そう、彼女の住まいが阿佐ヶ谷だったのだ。ぼくのすまいが高円寺なので非常にご近所であるし、練習後のアフターを、ぼくも彼女も遠慮している、ということは帰宅時間も全く同じということになる。
井の頭線の車内で、総武線各停の車内でいろいろな会話がなされた。実にとりとめがないため、再現することは難しいが、概ね雑談めいた会話をすることができていたということができるだろう。
最初期は当然クラシックの話だった。バロック的な前打音の使い方から、ショスタコーヴィチのウルトラポリフォニーの話、はてはトーンクラスターを認めるかどうかまでが話題になり、音楽について話すのに飽いたら今度は作曲家個人のエピソードについて盛り上がった。個人的に好きになれない作曲家一位、というときに、お互いがワーグナーを真っ先に挙げたのには笑ってしまった。
そして、その話題にすら飽いてしまうと、今度はいつも SNS 上でしているような、主に人間関係の難しさについての話をするようになった。考えてみれば、コミュニケーションが苦手という共通点でコミュニケーションを取っていることの欺瞞や不自然さに気が付かないわけはないのだが、ぼくは都築さんとの間に沈黙が下りないようにするので精いっぱいだったし、ぼくの見立てが間違っていなければ彼女も同様であったはずだ。
「大体、あの人たちはすぐに人間のことを好きになり過ぎるんですよね。もっと人間って、欠点とかあるものでしょう? それを理解したうえで好きになるなら分るんですけど、彼らの場合は目を瞑ってると思うんですよ」
「うん……なんとなくわかる気が、します。相手が過去にもいろいろやらかしているクズだって分ってて付き合いを始めたのに、自分に被害が降りかかってくると途端に怒りだして縁を切る人、とか。そんなもの、最初から予想がつくはず、なのに。却って不誠実な気もします」
――僕らの会話では、〝不誠実〟という単語が多く出てきた。そう、いわゆるリア充と呼ばれる人たちのコミュニケーションは、不誠実なのだ。というのがいつの間にかぼくらのコンテクストになっていた。
彼らはすぐに人を好きになり、すぐ人を嫌いになる。恋人がいないことは異常だ、という価値観に安直に身を任せて、妥協の上で恋人を作り、すぐに破局する。たくさんの友達を抱えることをステータスにして、そのくせその友人関係には熾烈に優先順位を付けている。
なぜ彼らがそこまでして多くの人間と関わり合いを持ちたいかというと、つまりは寂しさを紛らわすためなのである。他人とともに過ごさない時間は無価値だ、という価値観に染まりきった人たちが、お互いにお互いを求めあってる互助関係でしかない。
「でも、そういうのって違うと思うん、です。無理して好きでもなんでもない人と会って時間を無駄にするくらいなら、勉強するなり、古典に触れるなり、趣味を高めるなり、いくらでもやることがある、のに。会いたい人なんて、世界に五人くらいいれば十分だと思わな……思いません、か?」
……どうでもいいことだが、彼女はこの期に及んでもぼくに対してタメ口と敬語のどちらを使うかで迷っていた。
「そうですよね。そうやって自分の能力とか魅力を高めて、それで人が集まってくるならいいんですけど、最初から多くの人と触れ合う目的で多くの人間と接触する人間は、なんだか目的と手段の同一化が起こってる気がして嫌です」
白々しい会話にもほどがある、と思った。寂しさを紛らわすための会話を全否定するならば、ぼくらがこうして吊革に繋がりながら会話をしていることすら即刻辞めるべきなのである。けど、それすら気づかないくらいに会話は楽しかった。生まれて初めての経験だった。
そして、こういった話題にも飽きると、ついに本格的にぼくらは雑談をするようになった。
たとえば、受験時代の話だとか、たとえば、宇宙開発についてだとか、自炊についてだとか、はては最近読んだ本の話まで。こういった会話が、ぼくらの唾棄していた人間たちが取る、僕らの唾棄するようなコミュニケーションであることは重々承知していた。それなのに、ぼくは彼女がおずおずと差し出してくれる河出文庫を「ありがとうございます」とかなんとか言いながら大事そうに手に取って借りてしまうのだ。
あぁ、なんとしあわせなことだろう!
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