3

 二年前。学校の放課後だった。はじめは雑木林をひとり探検した。

 どうしてこんな森の奥に屋敷があるのだろう。つたの絡まった壁が、歴史を感じさせるような洋館だった。

 気にも留めず遊び場にはいい環境だ、とはじめは思った。

 屋敷から現れたのだろうか、同い年の赤毛の少女がいた。彼女の白いワンピース姿は、はじめには天使のようにみえた。髪留めには真っ赤な大柄のリボンをしている。

「?」

 彼女は、庭先で綺麗に咲き誇るユリの花に見とれていた。小さな手で小さい如雨露じょうろを重そうに抱え、ユリの花に水を与えている。

「きれいでしょ! わたしの名前と同じ」

 彼女と同様に、はじめもユリの花に見惚みとれる。

「えっと、これって、なんの花だっけ?」

「ユリの花よ」

 赤毛の少女は、はじめに微笑みかけた。はじめも微笑みを返した。

「ねぇ、お名前なんていうの?」

 はじめは迷うことなく『カズ』と名乗った。よく家に訪れる親戚の祖父が、彼のことを『カズ』と連呼していたからだった。

「カズクン、一緒に遊びましょ!」

「うん!」

 はじめは、その日以来ユリに会いに行くのが楽しみになった。学校が休みの日は、朝から夕方まで遊ぶようになった。



 通い始めて半年が過ぎた。

 近所の人は、学校裏でよく見かけると、はじめの母親に話した。

 母親は少し気になった。学校が終わっている時刻にも関わらず、帰ってくる時刻があまりにも遅いことがあったからだった。

 さりげなく、はじめにいた。

「カズちゃん、ずいぶん遅くなることあるね。いつも誰と一緒にいるの?」

「学校の近くにいるユリちゃん」

「ユリちゃん?」

「うん!」

「ひょっとして、学校の裏のあの森?」

「うん、そうだよ!」

 母親はそれ以上の言葉は避けていた。友達ができたのであれば、喜ばしいことだと思ったようである。



 夏のある日だった。いつものように庭先でふたりは遊んでいた。

 館の主が、お菓子をご馳走ちそうしてあげるとはじめに言い寄ってきた。彼女は、『パパと一緒に行かないで』とはじめを説得した。

 彼女は知っていたのだ。自分の父親がはじめを実験材料にするため、研究室にはいらせるつもりだということを。だが、はじめが反応したのは、『お菓子』の言葉だった。欲望だったのだ。

 彼女にはわかっていた。どういう研究をしているか、はじめに危険が迫っているのだということを。だからこそ、父親の研究から逃げたかった。

 しばらくして、はじめは、研究室から出てきた。彼女は不安な表情を浮かべていた。

「カズクン、平気だった? どこも痛くない?」

「うん、平気! でも、ユリちゃんのお父さんって、変わった人だね!」

「パパは、本当のパパじゃないの……」

「えっ!? そうなの?」

「私、あのパパは好きになれない。本当のパパは死んじゃったっていうんだけど、どこかで生きているような、そんな気がするの」

「……」

 彼女は思いつめた顔で、はじめに話す。不安な心に押し潰されそうに項垂うなだれていた。

「わたし、実験中に殺されちゃうかもしれない」

 いぶかしげにはじめは彼女の顔を見つめ、首をかしげた。

「どうして?」

「今の実験が、どうしてもわたしがいないとダメなんだって……」

 言い終えた彼女は、はじめの眼をじっと見た。そして、彼の両手をしっかりと握り締める。つぶらでまっすぐな双眸そうぼうには、真剣さがうかがえた。

「ねぇ、カズクン、お願いがあるの……」

 はじめには彼女の必死さが両手を通して伝わってくるように思えた。

「なに?」

「わたしといっしょに逃げて! わたしをどこか、遠くに連れてって!!」

「えっ!?」

 はじめは戸惑った。とても10歳の少女とは思えない、純粋で力強い円らな瞳だった。彼女の眼力に、はじめは吸い込まれそうになった。

 彼女は自分の本気を見せるためか、髪留めにしていた赤いリボンをはじめに手渡した。リボンは、クルクルとまとめ上がり、彼のてのひらに納まった。

「カズクン、約束よ! このリボン、失くしちゃダメよ!」

「ユリちゃん、カズがユリちゃんを守るよ! きっとだよ」

「うん、明後日の夕方、お庭で待ってる!」

 はじめはその約束が果たせなかった。彼の心にそれが残った。



 約束の日。ものすごい暴風雨が地域を襲う。

 前日からはじめは高熱にうなされ学校すらも出られなかった。

 数日後、改めて屋敷に近づいたはじめは驚いた。屋敷の少し離れたところから、警察関係者が誰も近づけさせないようにするため、非常線を張っていたのだ。

 何があったのだろうかとはじめは、気になった。野次馬でごった返す人だかりの中で、彼にとって耳を疑う話が飛び込んできたからだ。

『なんでも、屋敷から変なガスが噴出して、近所迷惑になったのよ』

『何を研究しているか知らないけど、ほんと、いい加減にして欲しいわね!』

 気の強い女性がブツブツと呟いていた。

『もう、何年も前に所有者の娘が死んでしまったっていうのにね』

『その娘って、たしか、髪の色が赤い……」

 声の主のところまで行き、うそだ! そんなはずはない、とはじめは大声で叫んでいた。掌にはユリから預かったリボンを握り締めている。


―――そんなはずは……現にリボンだって存在しているのに。


 はじめは、自分の言葉に念じ、その場を逃げ出した。


 六ヶ月間遊んでいた記憶は、幻だったのか。あのユリちゃんは? 彼女の微笑みは幻影だったのか。約束は……? ―――はじめは頭が混乱した。


 それ以来、はじめは館に遊びにいくことがなかった。屋敷の出来事、思い出を心の奥底に鍵を掛けた。必死に勉強にのめりこむようになる。

 家庭環境が変化したものの学校は変わらなかった。最初の家から引っ越したからでもあったようだ。

 やがて、学校の教材でタブレット端末を使用した授業が増え始める。 

 屋敷の様子を柿谷から聞いた時、はじめは柿谷が口にしていた、女の子の噂と隠し扉が妙に気になった。

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