Page8.お好きなものは?・2
『今なら泣いてもいいし、わたしは誰にも言わないから』
『だから我慢しなくていいんだよ、
もう数か月くらい経つというのに、あの降りしきる雨に隔離されたバス停で聞いた言葉が、まだ耳を離れない。
たぶんあの日、私は自分の中の何かを壊した。
壊れたものが大事なものだったのかもわからないけれど、それからというもの、私と
「綺音さん、今日はどうしますか?」
「んー……」
最近は、よく風香のお宅に泊まらせてもらうこともある。別に何をするわけでもなくて、ただ普通の友達みたいに一緒に過ごすだけの時間を朝まで過ごす。次の日の仕事に支障をきたしても嫌だから私は早く寝るけど、風香はどうしているのか……(私より遅いのは確かだ)。
『あれだけ夜更かししてたら、そりゃ注意も散漫になるから。もっと寝なさい』
なんて言いたくなったりするけど、どうやら遊んでいて遅くなるわけではないみたいだ。机に突っ伏して眠っている彼女を覗いてみたら、業務で使うソフト操作の仕方とか、他の人たちから受けたアドバイスをまとめているらしかった。
それに何より、彼女の夜更かしを知っていることを知られるのも嫌だった。ここの人たちの娯楽は、他人の噂話だから。
そういうのに、まだここに入ったばかり……とまではいかなくても、まだ1年といない風香を巻き込みたくない。そのせいで辞めていった人を、何人か知っているから。
そもそも今こうしてるのだって、誰かに見られて面白おかしく語られているのかも知れないし……。
「じゃあ、明日にしますか? わたしはいつでも空いてますから」
色々考え込んでいたら、少し寂しそうな顔でそう微笑まれて。罪悪感で胸を締め付けられた。軋むように痛い。
「あ、うん。ごめんね風香」
本当はそんな言葉じゃ足りないけれど、そんな安っぽい言葉しか出てこない。大事なところでいつもそうなってしまう自分の語彙を憾みながら、私は自宅に向かって歩き始める。
一緒にいたかったな、なんて後ろ髪を引かれるけれど、振り返れない。
……私は、最低だ。
彼女の好意に甘えて、彼女を使って自分の傷を癒していることだけではない。私がいない間の、「ばいばい、綺音さん」と言葉を送ってくれた風香のことを信じられていない。
一応、知っているのだ。
彼女がそこそこ多くの男子社員から人気なことも、たまにそのうちの誰かから風香がつけているのと同じ香水が香ってきてることも。
彼女と一緒にいたいのも、彼女と一緒に帰るのも、それに彼女の教育係を未だに続けているのも、きっと風香のことが好きだからというより、信じられないから。私の監視下に置いておきたいから。
所有物みたいに束縛しておきたいから。
そんな自分を思うたびに、その醜さが嫌になる。
ねぇ、風香。
そんな私が、あなたに好きになってもらってていいの?
見上げた夜空では星が綺麗過ぎて、目に痛かった。
* * * * * * *
「先輩♪ お昼一緒に食べません?」
「え? そうだね、食べよっか」
昼休み。風香は最近、いつも私を誘ってくれる。もちろん、あのバス停での一件より前から誘ってくれたはいたけど、最近は特に、まるで周りに見せつけるみたいに。
そんなことしなくたっていいのに。
つい隠れてしまう後ろめたさを恥じながら、彼女の後をついていく。
と思っていたのは、ついさっきまでのこと。
社食で向かい合った風香は、にまにまと目の前のプレートを見つめている。乗っているのは彼女らしいといえば彼女らしい、口の周りがあまり汚れなくて見た目もかわいらしいデザート系が多い。もちろん風香が本当に好きなのもあるだろうけど、たぶん周りから見られたときにキャラクターを崩さないようにかも知れない。
だけど、そのぶり大根は好きで入れたんだろうなぁ、見つめている顔がキラキラしてる。
と、ふと私のプレートも覗き込んでから風香が笑いかけてきた。
「おいしそうですね、先輩!」
たぶんこういう可愛らしい表情を一瞬で作れるところが、人気の秘訣なのかな。そんなことを考えている間にも、アップルタルトの甘い香りが鼻腔をくすぐって。
今はこの甘さの中で。
そう思いながらアップルタルトを口に運んだら少し甘酸っぱくて。その味加減に舌鼓を打ちながら、思った。
ぶり大根か、作れるかな。
作ったら食べさせてあげようかな。
たぶん、前に2人きりで行った居酒屋で気に入ったらしいぶり大根をこんなにおいしそうに食べている幸せそうな顔を知っているのは、今のところ私だけだから。
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