Page6.雨音が耳にこびりついて・4

「あ、どうしました? 何か要りま、――――っ!?」


 雨が降り続いて、外の音なんて何も聞こえない古びたバス停。

 独りになりたくて来たこの場所に、いつものような天真爛漫を装った――「明るい後輩」の顔に、私に対してはそれ以上の関係を求める欲望を上手く隠せていない様子で近付いてきた風香ふうかに、キスをした。

 唇は冷たいような温かいような、よくわからない中途半端な温度で、重ねた瞬間にピクっと震えて、「んっ」という可愛らしい声とともに艶かしい吐息が漏れる。


 鼻先をくすぐられる感触に何かが芽生えるのを堪えながら、風香の口内をまさぐる。

 嗜虐心のまま?

 そんな意識があったかも定かではないけれど。


 傷つけばいいと思った。

 愛もなにもないキス。

 それが、あなたが求めたものに対する答えなんだって、突きつけてしまいたい。

 わかってるのは、これはただの八つ当たり。

 たまたま傍にいたのが、風香だっただけ。たぶん、私を拒まない相手。そして、私の気分がとても悪かった。そんな私に中途半端な気持ちで近付いてきた彼女を、傷つけたかっただけ。ただ、それだけのことなのに。


 どうして、私の胸が苦しくなるの?


 まだ傷をつけ足りないのに、息が苦しくて。

 唇を離したときに聞こえた嗚咽が私のものだと気付くのにも、頬を伝っているのが雨ではなく涙だと気付くのにも、時間がかかった。

 視界が滲む。こんな姿を見せたくはないのに。思わず漏れる声に、風香が息を呑むのがわかった。そして、何かを躊躇するような動きをしたことも、滲んではっきりしない視界の中でわかった。


 尚もうるさく続く雨音と荒い吐息、どこかの街灯に照らされて静かに輝く2人の唾液だけが、黙っている私たちの間には存在していた。それ以外のものは、たぶん何も意味を成さない。

 少しだけ気になって、風香のことを見る。

 私をまっすぐに見つめてくる、優しい瞳。それは、いつも仕事中に見ているような頼りなくて、少しあざといところがあって、天然なのか計算なのかわからないような言動が多い「犬のように人懐っこい後輩」の瞳ではなかった。


「大丈夫」

 その声も、どこか深く優しいものに聞こえた。

「今は、大丈夫だから」

 実際、その声は優しかった。傷ついた私には、何よりも優しかった。

「今なら泣いてもいいし、わたしは誰にも言わないから」

 甘くて優しい、毒。

「だから我慢しなくていいんだよ、綺音あやねさん」

 それなら、飲み干してしまえばいい。


「…………っ」

「うん、大丈夫だよ」

 たとえ毒でも、今は。


 慈愛の皮を被った欲望でも、この傷を癒してくれるならそれでいい。

 こうして私は、優しい捌け口を手に入れた。


 しばらく降り続いた雨がやむまで、私は彼女を使って自分の傷を癒して、紛らわせて、予想通り彼女もそれを拒むことはなかった。互いに毒と傷を循環させる時間は、雨が上がって、彼女の電話の着信音が鳴るまで続いた。

 それからの帰り道で絡められた指に。

 別れ際向けられた意味ありげな瞳に。

 私はちゃんと望むものを返せたかな。


 すっかりいつも通りに戻った呼び声。

「なに、風香」

 私もいつの間にか、自然にいつも通りの口調になっていた。


「今夜は、星が綺麗ですね」

「……そうだね」


 それだけ言い残して遠ざかっていく後ろ姿を、私はしばらく目で追った。

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