123 - エルヴェイの宿屋
近付くにつれて並木道をそぞろ歩く人々が増え、村は大変な賑わいを見せていた。湖畔の平らな土地に灰色の石造りの家が立ち並ぶ、素朴ながらも可愛らしいスプル村は、これまで街道沿いに見られたどの村よりも規模が大きく、街と呼んでも良い程商店や飲食店、宿泊施設等が充実していると聞く。
ハックフォック街道の丁度中程に位置し、周辺の丘や森の向こうにも小さな集落が点在する為常から訪れる者は多いのだが、レグアラの封鎖も解かれ、今は特に花祭の時期。村人、旅人、行商人に旅の技芸者と思しき者達。さまざまな背格好や成りの者が皆、うきうきと楽しげに行き交っている。
宿や商店の前では、値段や名物を連呼しながら呼び込みをする者達が笑顔を振りまき、飲食店や酒場のある辺りは、決して広いとは言えない路地の其処此処に椅子と卓が設けられ、麦酒片手に既に出来上がっている者達も居る。
馬を下りて引きながら、五人はユインの導きに従って通りを抜け、やや奥まった場所にあるエルヴェイの宿屋へと向かった。
「あ、母さん!」
扉の前で腕組みをして立つ細身の女と、その隣にはユインと同じ年頃の少女。先ほど通りで出会ったフィオナだ。ユインの友人らしく、どうやら先に彼の帰宅と来客を伝えに来ていた様子。
「まぁったく、この子は! 片付けもしないで一体どこに行ってたんだろうね!?」
ロルの腕から降り、ぽてぽてと駆け寄った幼児を足元に纏わりつかせたまま、腹の大きな女は少年に詰め寄る。短い麦藁色の髪に、快活そうな瞳はルテと同じ淡い緑。
「……どこだっていいだろ。お客さん連れて来たんだし」
「よくないよ。黙って居なくなって、心配させて!」
ぷいとそっぽを向いて頬を膨らませた息子を見下ろし溜息を吐く。
「……」
「ユイン!」
悪びれる様子もなく無言で視線も合わせようとしない息子に、母は思わず声を大きくした。だが、
「……分かったから、いいだろ! もう!」
「あ、ちょ、ユイン!」
「こっち、ついてきて。厩、連れてくから」
少年は、言うが早いかセフィとアーシャの持つ手綱を奪い取るように握りしめて母に背を向けた。
「にいちゃん、ルテも!」
と慌てた様子で弟が兄に駆け寄り、アレス、ロル、リーはちらと少年の母に目を遣り、苦笑して頭を下げてからユインに続く。
「――みっともないとこ見せちまって、すまないねぇ」
「しっかりしてらっしゃいますね」
腰に手を当て大きく溜息を吐いた女に、セフィは微笑んで応える。
「あぁ、まぁ、そうなんだけど、勝手なことをするもんだから。お客さんたちも、無理矢理連れて来たんじゃないかい? 悪いねぇ。こんなはずれの小さな宿だ。なんだったら、もっと大きくて豪華な……」
「確かにちょっと強引だったけど、気にしてないわ。周り静かでいいし、ね?」
「そうですね」
恐縮がる女の言葉を遮るようにアーシャが明るく言いセフィも同意すると、彼女は苦笑した。
「そうかい? そう言ってもらえるならありがたいんだけど。あぁ、フィオナ、ごめんよ、ありがとう。さっき言ってた物、後で届けてくれるよう、母さんに伝えてくれるかい?」
「えぇ、わかったわ。それじゃ」
先ほどからそわそわとしていた少女は、二人の旅人をちらと見上げてから女に向き直りにっこりと大きく頷いて去って行った。
若草色の二本の三つ編みを揺らしながら路地を駆けていく少女を見送り、二人は女に促され宿の扉を潜った。
入ってすぐに簡素なカウンター、奥には大きな暖炉と出窓のある居間。そこはどこかほっとするような民家の風情を感じさせる、温かみのある内装を施した空間だった。
「ユインが自慢気に言う訳ね。とっても素敵だわ」
規模の大きな贅を凝らした宿などは、どこの街にもある。だが、その土地の趣を感じさせてくれるのは、こういった村の宿ならではのものだ。
アーシャが感想を述べたのに、女はありがとうと嬉しそうに微笑んで宿帳を取り出した。
「部屋は今準備してるからね。夕食も、言ってくれれば用意するけど。せっかく祭時期にきてるんだ、外でにするかい?」
「そうですね。そうさせて頂きます」
「おーい、イネスー。部屋の準備が……あぁ、ようこそ。いらっしゃい」
女の名を呼ばわりながら階段を下りて来た男が、二人の姿を認めにこりと笑んだ。歳の頃はおそらく、妻に同じく30に手が届いた辺りだろう。短く刈った茶色の髪と日に焼けた肌、優しげな濃い色の瞳をしている。
「ウォルター」
「あれ、子供たちは?」
「今、お客れさんたちを厩に案内してるよ」
「そうかそうか。そんじゃ、そっちは任せて大丈夫そうだな。部屋の準備はできたし、おれは裏で作業してくるよ。どうぞ、ゆっくりしてって下さいね」
お世話になります、と二人が言ったのに軽く会釈して、男は奥に姿を消した。
「ユインも立派な働き手なのですね」
長男の働きぶりを信頼している風だった父ウォルターの物言いに、セフィは感心して呟いた。
「まぁね。特に今はあたしの腹がこんなのだからさ。助かってるといやぁ、助かってるわね」
そして母イネスは少し照れたように苦笑して突き出た腹を擦った。
「しっかりしなきゃってなるわけよねぇ」
アーシャもまたその腹を見てうんうんと頷く。
「いつ頃産まれるのですか?」
「んーあと一、二か月もしたらってとこかな」
「……触らせて頂いても、構いませんか……?」
躊躇いがちに窺う美貌の旅人に、
「あぁ、勿論」
にかり、とイネスは笑って頷く。
促されセフィは手袋を外しそっと指先を、それから両掌全体をそこに触れさせた。
服の上からでも分かる、やや硬く張った腹部の丸み。
心音が感じられる訳ではないがそこに、確かに生命が宿っているのだと思うと、得も言われぬ感動と、何ものにも代えがたい愛しい気持ちが込み上げてくる。
「動いたり、するの?」
まるで神聖なものに触れるようなセフィにつられ、アーシャもまたイネスの腹に触れる。
「するよぉそりゃもう、痛いくらいの時もあるからねぇ。女の子も欲しいんだけど、また男の子なんじゃないかって」
「もしかして、すごぉくお転婆な女の子かもよ?」
「確かにその可能性もあるね。あたしに似てたら確実にそうだわ」
アーシャの言葉にイネスはあははと笑う。そして、自身もそっと腹部に手を置いた。
「ま、無事に元気に産まれて、健康に育ってくれたら、どっちだって構やしないんだけどね」
「そうですね」
二人の人間が出会い、愛を交わして初めてこの世に存在し得るものとなった、新たな命。そのかけがえのなさと有り難さ。
そして、妊娠・出産とは命を懸けるほどの行いであると知りながら、それでも、生まれてくる子の幸を願う、その強さと深い愛情。
大切なものを慈しむ母の表情にセフィは頷き、
「本当に……素晴らしいですね。女性って」
その身に命を宿すことの、なんと尊いことだろうか。
そこに触れたまま、それはもう幸せそうな微笑みで、感嘆の吐息を漏らす。
「……え?」
旅人の美しい笑顔に見惚れた後で、イネスは頓狂な声を発した。
「?」
「え? だって……?」
「!」
「?」
「あはははは!!」
自分だってそうだろうに、何を言っているのだという様な表情をるす女に、その思いに気付いたアーシャは思わず笑った。
そして少女の反応に、イネスはハッとなる。
「えぇっ!? あ、いやぁ、そうなのかい!? ごめんごめん。あたしぁてっきり……」
言われてみれば、と女はセフィを見る。
声音や背の高さ、凹凸のない体つきは確かに、女性のものではない。
「いえ、あの……すみません、紛らわしくて」
「いやいやいや、こっちこそ、申し訳なかったよ。でもこんな別嬪じゃあ、間違うなって方が無理な話よねぇ」
「そうなのよね。あたしも最初女の人と思ってたし。しょっちゅう間違われてるもんね」
「……時々、くらいだと思うのですけど……」
女二人にまじまじと見つめられた上に、少し驚いたような面白がるような口調で言われ、セフィはやや小さくなりながらも異を唱える。
「時々じゃないわ。八割から九割ね」
「……せめて六、七割くらいだと……」
「や、八割は堅いって。てかセフィ、それでも半分以上なの、わかってる?」
無駄な抵抗とも取れる主張をするセフィに、アーシャがぴしゃりと言った。
「それは時々とは言わないねぇ」
「……」
二人のやりとりにクスクスとイネスが笑う。そしてセフィが微妙な表情で無言になった時、
「何か楽しいことでもあったのー?」
開け放たれた扉の向こうから、荷を携えた三人が入って来た。
「なんでもありませんよ」
「ま、いつも通りのやり取りがあっただけよね」
すみません、ありがとうございます、と言いながら荷物を受け取るセフィと、ニヤニヤ笑いのアーシャ。そして何かを察したロルが思わず笑みを漏らした。
あんまりいじめちゃだめだよー、いじめてないわよぉ、と言い合う二人を余所に、
「ところで、ユインがあの小島に古い塔があると言ってたんだが、どういうものなんだ?」
リーがイネスに問うた。
「゛風の塔゛だね」
「風の塔?」
「ま、塔、と言ってもね、登れるわけじゃないんだ。今じゃ周りの木が育って隠れてしまってるけど……白くて高い石柱があってね。そこに、淡い琥珀色の宝珠が祀られているんだ」
「琥珀色の、宝珠……!?」
そのいかにも曰くありげな呼称と゛宝珠゛という言葉に、彼らは思わず詳細を知りたいとイネスに瞳を向けた。
「そう。それが何なのか、何故そんなところにあるのか誰も知らないんだけど、ずーっと昔からそこにあるものなんだよ。他にも大昔の建物だったんだろうって、石の柱やらなんやら、遺跡っていうのかね? まぁ、そんな様なもんがあるのさ」
「へぇ、それは興味深いな。その島に、オレたちが足を踏み入れることはできるのか? 誰かの許可が要ったりは?」
「立ち入るのは自由さ。気持ちのいい散歩道があるよ」
女は頷き、腕を組んで応える。
「行ってみたいですね」
「
湖に突き出して船着き場と、浮かぶいくつかの小舟が遠目から見えていた。アーシャが問うと、
「あぁ、島まで行ってくれって言えば連れて行ってくれるよ。……と、いや、この時間じゃあ、もう無理かな」
イネスは窓の外に目を遣り、日の傾きを確認して苦笑した。
丘と丘の間、窪地に当たるこの場所は、太陽の姿が見えなくなるのが早い。行って、ぐるりと一通り見て、帰ってくる時間を考えると、きっとすっかり暗くなってしまうだろう。
「祭りの時期は、湖から花を見たいってことで多少遅くまでやってる小船屋もあるんだけど、暗くなるとやっぱり危ないからさ。明日の朝なら大丈夫だと思うよ。なんなら、知り合いに声掛けておこうか?」
「えぇ、お願いできますか」
「お安い御用さ。あ、それから。悪いんだけどさ……」
イネスは部屋の鍵を手渡し、それから片腕を組んでもう一方の手を頬に当てる、どこか困ったような仕草をしてセフィを見た。
「ユインとフィオナにはあたしから訂正しとくけど、気付いてない様だったら言ってやってね? あれでなかなか難しい年頃みたいだからさぁ……」
やれやれ、といった風な口ぶりを努めていたが、堪え切れていない笑いが漏れていた。
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