112 - 脱出
ぐんっとひとつ大きく揺れて、船が岸を離れた。彼らの乗る小さな船は最後尾の黒い大型船と綱で繋がっており、トリスタンの乗り込んだその船に引かれて動き足したのだ。
最低一人でも操舵できる仕組みになっているその船は、船底に一部屋と甲板があるのみの簡単な作りになっている。
シンは、帆柱から垂れた縄をアレスに握らせ、
「オレが縄を切ったら、こいつを引いて帆を張れ。アーシャとヘルガはその辺にしっかり掴まって身を低くしておけよ」
そう言うと舳先で跪いた。
3隻の船は、ゆっくりと青い光の射す方へと進んでいく。海側の、唯一の出口だ。
幅は確かにあるように見えたが、高さは足りない。この小さな船はまだしも、あの大型船が潜り抜けるのは不可能としか思えなかった、その穴に向かっている。
先頭の船がどうなっているのかは見えない。だが、このまま進めばぶつかってしまうではないか。
「どうやって出るの!? 大丈夫なの!?」
入って来た時の様子を知らないヘルガは青ざめて声を上げた。
船は、速度を緩めず進んでいく。
衝突を覚悟して思わずぎゅっと目を閉じた、瞼の向こうが急に眩しくなる。
「問題ない」
シンの静かな声が答えた。
何の衝撃も破壊音もしない。疾うに先頭の船が壁に到達している頃だ。
そろり、と目を開いて蹲った身を起こすと、唐突に光が広がった。
前を行く黒い船の向こうに、海を通して揺らめく青い光でなく、そのままの太陽の光が水面を照らす。
「!?」
驚きで、言葉にならない。
まるで扉が開くように、岩の壁が割けてその向こうに青空が見えていた。
前の黒い船が洞窟を出ていく。それに引かれ、自分たちの乗る小型帆船もまた、光の中に飛び込もうとしていた。
潜り抜ける瞬間に横を見ると、どことも変わらない濃い灰色の岩肌は、大の大人が両手を広げても足りないほどの厚みがあった。そして、彼らの乗る最後の船が出ると、一瞬にして水に濡れた岩の壁が現れる。まるで元からそうであった様に、何一つ動いてなどいないかの様に。
「大地、魔法……?」
アーシャが呟くが、応える者はいない。
「わぁ!?」
船が大きく揺れ、四人はとっさに身を低くして船にしがみ付いた。水飛沫がかかる。外に出たのだ。風が強く波の高さが格段に違う。
「落ちるなよ」
言って、舳先に跪いた男は腰の剣に手をかける。
洞窟を出て、トリスタンやイオルズ、そしてジェイの乗る船はすぐに左に舵を取った。海岸線を北へ向かうつもりなのだ。
「アレス、帆を張れ!」
シンは、前の船と繋がるその綱を一刀のもとに断ち切った。
言われた通りにアレスが縄を引くと、船に対して存外大きな帆が広がる。そしてすぐさま風を捉えた。
風と、大型船の航跡の波に何度か大きく揺られた後、四人の乗る船は南へと向いた。
3隻の大型船とは逆の方だ。
「あっ……!?」
正面前方に船団が見えた。
遥か彼方、ではない。その数や大きさが肉眼で十分確認できる距離。
「討伐隊!?」
ヘルガが悲鳴の様な声を上げて背後を振り返った。
イオルズらの乗る船は次々に帆を張り速度を速める。だが、まだ安全といえる距離はない。
どうにか逃げきって、と彼女は祈った。
「チッ、ちょいと早すぎんじゃねーの、――ちゃんよぉ」
「!?」
シンの呟きに、アーシャはハッとなった。
今、彼は何と言った? 否、誰の、名を呼んだ!?
「今、なん……!」
「アレス! 縄をそこに縛ってこっちに来てくれ!」
彼女が口にしかけた問いに気付くことなく、彼は青い髪の少年に呼びかける。
「舵を頼む」
「わかった!」
言われた通りに駆け寄るアレス。シンはその場に、少女の傍に跪く。
「あのっ」
「アーシャ、お前、水だったな」
「!?」
もう一度尋ねようとした少女は、不意に間近で見つめられてドキリとした。
透き通る様な緑玉の瞳。
「手を貸してくれ」
言うが早いか、やや呆然としたアーシャの、下についていた手に手を重ねる。
「え!? なに!?」
その瞬間、掌が船底まですり抜けて海の水に触れた気がした。
全身をざわざわと駆け巡ったものがそこに集中する。
吹くはずのない下からの風が彼の頭巾を退かすと、漆黒の髪が風になびいた。
そして、突き上げるような衝撃と共に、船が大きく揺れ、舳先の向こうに見える海面が大きく盛り上がった。
「きゃあ!」
簡単に飛び越えられてしまいそうな舷に縋り付いていたヘルガが悲鳴を上げる。
舵を握るアレスからも、慌てたような声が聞こえた。
「な……!?」
青い水が飛沫を伴い光を反射してきらめきながら伸び上がり、姿を変えていく。
大きく開いた咢、鼻先の真珠色の角、見開かれた螺鈿色の双眸。一抱えもありそうな頭部を鬣の様に縁取るのは、透明感のある魚の鰭の様な美しい皮膜。
――水竜……!?
「……いいから、さっさと行けよ。オレのためじゃない、゛水の乙女゛の願いだ」
耳に届いた呟き声に、アーシャはシンを見た。
釣り目がちな翠緑の瞳が美しいその横顔は、怜悧さと共にどこか人懐こい印象を湛えている。
更に長く、高く水面から伸び上がる、その竜の身体は水柱の様で、急流の様で、小川のような水の流れだった。透明な青、深い青、様々な青の光が大きくアーシャ達の乗った船を、前から後ろへ弧を描いて飛び越える。つられ首を巡らせると、水面を下から眺めた時の揺らめく美しい光と波の模様、その向こう側の空に、円を描くように飛ぶ鳥の姿。
「そんな、そっちは……!」
振り返った後方、次々と現れる水竜たちが群れを成して海賊たちの船を追う。
「大丈夫だ。アーシャはそんなこと、望んでねーだろ?」
口元を隠していた布を取り去って、シンはニッと笑った。
うねりながら船に追いつき、やがて海に流れを生み出した水竜たちは信じられないような速度で遠ざかっていく。
「すごい……!!」
青い空に、海に、神々しい光纏った水の竜が舞い踊る。
その背に乗り、海賊船はいつの間にやら遥か水平線の彼方へと導かれていた。その後ろ姿は、無数の水竜に隠されてはっきりとは見えないのだが。
呆然と見送る三人を余所に、シンはアーシャの手を放して立ち上がると前方に目を遣った。
船団が、ユーディットが先ほどよりも随分と近付いてきている。
「さーて、どーやって言い訳すっかなー」
そう、彼らは海賊の正体を知らないと主張しなければならないのだ。
だが、そう言ったシンの声は不安ではなくどこか何かを期待するような響きを持っていた――。
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