096 - メーヴェン・ネスト

 御者台に座る男は、まるでそうなることがわかっていたかのように馬車の準備を整え裏庭で娘達を待っていた。そして行き先を聞くと何も問わずにすぐさま手綱を握り馬車を出した。

 先ほど上ってきたばかりの坂道を下り、港へと向かう。太陽は既に中天を過ぎていた。

 やや賑わいの収まった市の傍を通り、アルジュート家の船が係留されている港へとたどり着いた。途中すれ違った船舶関係者の中には、荷の積み下ろしをするでもなく、ただいつ出るとも知れない船の点検や整備をしている様子の者も見受けられた。

目的の船、ユーディットもまたそういった出港準備ではない作業に当たる船員たちに、これでもかと言うくらいぴかぴかに磨き上げられていた。

「トラウゴット船長! こんにちは!」

ヘルガは船の傍に見知った人物の姿を見つけ、馬車上で立ち上がって手を振る。

他の船員と変わらぬ作業用の衣服を身に着けた壮年の男は、彼女の声に応えるように一度手を上げて駆け寄ってきた。

「こんにちは、ヘルガお嬢さん。お元気そうで。いつもながら唐突にお越しになりますなぁ」

捲り上げた袖を下ろし、作業に乱れた衣服を何とか整えながら彼は苦笑した。嫌味な風ではなく、親しみのこもった声音で。

「うん。ごめんね。出港準備をすぐに始めてほしくて」

「おお、そいつぁ嬉しい知らせですな。して、どちらへ?」

「レグアラよ」

「レグアラ……!?」

馬車を下り、今度はやや見上げる姿勢で言ったヘルガの言葉にトラウゴットは浮かべた笑顔を一瞬にして曇らせた。

「そうよ。明日、は難しいわよね? できるだけ早く出港したいの。準備にどれくらいかかるかしら?」

「ヘルガお嬢さん……大変申し上げにくいんですが……」

うきうきと明るい表情で船を見遣る娘を、男は申し訳なさそうに見詰め、

「ジズナクィンへは船を出せないことになってるんですよ」

沈んだ声音で言った。

「え? どうして?」

「ルティウス様からのお達しでさぁ。船はご自由に使って頂けますし、ジズナクィン以外の行き先なら我々もお供出来るんだが……」

「ジズナクィン、レグアラへの船は出すなってことなの?」

「いや、まぁ、市として禁止されているわけではないんですがね。我々はアルジュート氏に雇用されている船員なもんで、港湾管理局からの出港許可が出たとしても航行先として主人の認めていない場所に行くわけにはいかないんでさぁ」

「お兄様の認めていない場所っ!?」

ヘルガは思わずカッと頬が熱くなるのを感じた。

それはつまり、兄の計らいにより船は使えるがレグアラには行けないようになっているということだ。

船を使うことを許可しながら、既に行き先としてヘルガの行きたい場所を禁じている。馬鹿にされたような気さえした。

「正式に通達が着たのは、つい先日のことなんですがね。海賊被害が収まるまで無期限で……」

「どうにも、ならないの?」

縋る様にヘルガは男を見つめた。

トラウゴットの船にはこれまで幾度となく乗ったことがある。多少の無茶や我侭なら聞いてくれたものだ。

だが男は、瞑目して首を横に振る。

「危ないから、なんて子供だましの理由じゃ納得してもらえんでしょうね。……契約や保障の問題があるんでさ。我々はこうやって船を出せない間も、最低限の賃金を頂いている。それは、専属雇用してもらってるからで、だからこそ雇用主の決めたことには従わなければならんのでさぁ」

何よりルティウスがジズナクィンへの航行を禁じたのは、船や船員の身を守るためでもある。

実際、危険であることも確かなのだ。

それを分かっているから、その通達は決して理不尽なものではないし、トラウゴットの意思に反するものでもない。

「……」

ヘルガは唇を閉ざしたまま視線を落とした。

そういえば彼にきつく叱られたことがあったのは、"危ないこと"をした時だったと思い出す。

 眉尻を下げたトラウゴットは心底申し訳なさそうに続ける。

「もちろん、行き先を偽って船を出すのは難しいことじゃあない。でもね、ヘルガお嬢さん。それをしては信頼を失ってしまう。雇用主の信頼を裏切る行為を、わしはしたくないし、もちろん船員の皆に強要することはできんよ」

責任も立場も、そして思いやりのある船長としての言い分。

 何事においても、殊に商いにおいては信頼関係というものが大事なのだと、それはヘルガにも勿論理解できた。だから今、不満を感じるのは寧ろそういった通達をしておきながら、ユーディットを使っても良い風に言った兄ルティウスに対してだ。

「そう、よね」

――だったら最初から、使っていいなんて言わなければいいのに……!

兄に侮られているような気がして、惨めさと怒りに思わず、握り締めた両の拳に力が入る。

「すみません、ヘルガお嬢さん」

「いいのよ、わかったわ。ありがとう」

そう応えてなんとか笑おうとしたが、上手くいかなかったのか男の表情は解れないままだ。

理解はできる。だが、どうすればいいのか。無理を言ってトラウゴットには申し訳ないことをしたと心から思うのだが、出鼻を挫かれた不満と不安を隠すことは出来なかった。

「……ところでヘルガお嬢さん。船乗りでは、わしらのように長期継続的に雇用されている者の方が実は少ないことをご存知ですかな?」

「え……?」

踵を返しかけたヘルガに、トラウゴットは思わせぶりに片眉を上げて見せる。

「船を所有する者が出航したい時に雇ったり、自分が持つ船に乗り輸送の仕事を請け負う者も居る。……つまり船の所有者が船長として仕事のみ請け負うことも、船を持たず船の所有者にその都度雇われて航海に出る者も多く居るってことでさぁ」

「! それって……!!」

 彼の言わんとすることを理解したヘルガは瞳を輝かせた。

ジズナクィンへの航行を禁じられていない――誰にも雇われていない船乗りを自分で見つければいいということだ。

 にこりと笑って頷いたトラウゴットから、船乗り達が行きつけにしている店や宿の多い場所を聞き、すぐさまヘルガはそこへ向かった。


 ファジョド地区。港に程近くの入り組んだ辺りだが、馬車で行くのが困難な程ではなかった。

アルジュート家でも人手が足りない時には都度契約の船乗りを雇うことがある。そういった際に訪ねて行く店を数軒、トラウゴットが知っていたので、もしかしたら顔見知りの船乗りを見つけることが出来るかもしれない。自分を知る、自分の知っている人物を見つけることが出来れば、話は早そうだ。

 強い日差しは白い壁に反射して本来日陰である場所をも明るく見せている。日が暮れる頃には恐らく、若い娘を歩かせるにはやや安全とは言えぬ雰囲気になるのであろうが、眩し過ぎる光が現実味を奪い去り常とは違う場所の様に思わせていた。だから、彼らの目指す場所が、出入りする者達の風貌が余りに世俗的で、逆にその風景の中では異質に浮き上がって感じられた。

 まずたどり着いた一軒目の店、メーヴェン・ネスト<鴎の巣>の傍で馬車を留め、降り立ったヘルガにすかさずヨハンナは続いた。

「ギュンターは、ここで待って……」

振り返って言いかけた彼女に首を振り、

「いえ、行きますよ」

そして厩番に馬車と馬を――どこか手馴れた様子で預けて、ギュンターも彼女らに付き従った。

こんな時間から、多分に酒気を帯びた連中が出入りしている店だ。威勢のよい世間知らずな若い娘二人だけで入らせるのは、やはり心配に思えたからだ。

 紫煙が漂う店の中は、日中にも関わらず酒と食物と人間の爛れた生活の臭いが立ち込めていた。

黙々と酒を煽り食事をする者、既に酔いつぶれて突っ伏している者、仲間同士でなにやら額をつき合わせている者達、陰気な顔つきの男や、気だる気な女。彼らはうっそりと三人の新たな客を一瞥して、興味なさ気に元の姿勢に戻った。

 ヘルガは店内の様子を見回し、そして腰に手を当てて大きく息を吸い込んだ。

「ちょっとみんな聞い……」

「!!」

そのよく通る声で言いかけた彼女を、ヨハンナとギュンターが慌てて制する。

「もごっ……何するのよっ」

「いけません、ヘルガお嬢様っ」

止められたヘルガが抗議の声を上げるが、侍女は必死の表情で首を振った。

「こういった店には、こういった店のやり方があるんです」

ギュンターもまた、焦った様子で娘に言い聞かせ、辺りを見回す。数名が何事かと此方を見たが、声を掛けて来る者は居なかった。

御者と侍女はほっと胸を撫で下ろし、主である娘をカウンターへと引き摺る様に連れて行くと椅子に掛けさせた。

そうしてヘルガを挟む様に自身らも座って、店主に向かい手を上げる。

「……注文は?」

「仕事の合間なんでね、酒分抜きのを頼むよ。こっちの娘二人には、甘い何かを」

彼ら三人の身なりは、質素とはいえ周りに居るもの達よりも幾分品の良い物だったから、店主は始め訝しげに眉を顰めていたがギュンターの場馴れした様子に黙って頷いた。

 程なくして、三人の前に飲み物が出されると、そのままギュンターはカウンターの向こうに居る店主に話しかけた。

「最近どうだい? 調子は」

「……良くはないね。なんと言っても、一番のお得意さんが仕事にあぶれてるようじゃあね」

おそらく最初から話をすることが目的だったと気付いているのだろう、店主は聞く姿勢を彼らに向けた。

「そうかい。どこも似たようなもんだな。……ところで、もう察しがついとるかもしれんが、人を探してるんだ。船さえあれば乗ってもいいというような船乗りはいないか?」

「そんなもん、さっきそこのお嬢さんがしようとしたように大声張り上げりゃあ、いくらでも手が上がらぁよ」

ふんっと、鼻で笑って自らのグラスを煽る。彼の顔が赤いのは、何も店内の熱気のせいだけではないようだった。

「確かにそうだろうな。ただ、誰でもいいってわけじゃないんだ。信頼の置ける……出来れば部下を従えている、船長だ。多少の無茶にも付き合ってくれるような人物だとありがたいんだが」

「……世間知らずな娘二人連れて、ワケありかい?」

「……」

思わせぶりに片眉を上げた店主に、ギュンターは無言の肯定をする。

「まぁ、いいさ。ウチは船員の斡旋なんかはやってないんだがね。……オツェアン船長に頼んでみたらどうだい? 引き受けてくれるかどうかは五分五分ってところかもしれんが、面白そうだと思わせることができれば可能性もあるだろうよ」

「面白そう? そんな、面白いかどうかで仕事を引き受けるか受けないか決めるっていうの?」

それまで男達のやり取りを黙って見守っていた娘が、思わず、といった風に口を開いた。

自分が船員を求める理由は遊びなどではないし、真剣なのだと言外に主張する口調と瞳で。

その言葉に店主は、

「言わせて貰うがね、お嬢ちゃん。みんながみんな、ご大層な使命感持って日々暮らしてるんじゃねーんだ。

汗水流して必死こいて働いて、稼いだ金で美味い飯食って酒に酔って気持ちよく眠る。そんな日常すら贅沢な方さ。こんなご時世の船乗りなんて、毎度毎度の仕事が命懸けなんだよ。命を危険に曝せって言われて、高い給金以上にどんな大義名分があれば引き受けるっていうんだ?」

静かな苛立ちを湛えた低い声で言う。

「日々食うに困ってるようなやつなら、給金さえ貰えりゃって、こだわりや信念のないのも多いさ。あんたらがそういう人間を雇いたいなら、勝手に探せばいい。金を出す雇い主にさぞ忠実に従ってくれるだろうよ」

「そんな……」

「おれぁ"信頼の置ける""船長"って言われたから、教えてやっただけだ。そしてあの人は、給金だけでなく命を懸けるに足るだけ面白そうでないと受けてくれんだろうってハナシさ。ま、嬢ちゃんのその全くの善意なんだってツラが逆にウケるかもしれんがね」

「!!」

捲し立てるように言い切った店主の表情に、どこか馬鹿にしたせせら笑いを感じてヘルガは思わず立ち上がりかけたが、すぐに両側から制されて堪える様に口を噤む。

「ま、好きにすりゃいいさ」

「待ってくれ、どこへ行けばそのオツェアン船長に会える?」

別の客に呼ばれ、三人の前から去りかけた店長をギュンターが呼び止める。

「……ティーフゼー・ペルレ<深海の真珠>って店に行ってみな」

とだけ言って、店主は他の客の所に行ってしまった。そして、そちらで何やら喋り始めてしまったため、三人はろくに礼も言えぬまま店を後にしたのだった――。

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