095 - アルジュート兄妹

「すげー賑わってるなぁ!」

「本当に……! さすがアムブロシーサ北部最大の港街というだけはありますね」

きょろきょろと辺りを見回しながら声を上げた青い髪の少年に、セフィは微笑んで頷いた。

「確かに~主要取引先との交易激減中には見えないねぇ」

「ちょっとロル、何それ? いつの間に買ったの?」

大粒の瞳を瞬く赤毛の少女に問われ、砂糖を塗した棒(スティック)状の焼き菓子を弄ぶ様に長い指先で摘んだタレ目の青年は

「さっき。そこでおばちゃんにもらったんだ~欲しかったらあげるよ。はい」

有無を言わさず彼女の手に握らせる。

「や、別にっ」

バターと小麦の香ばしい香りがふわんと漂い、少女は「欲しいわけじゃない」という言葉を思わず飲み込んでしまった。

「あ、いいな! おれも何か食いたい! とりあえずどっかで何か食おうぜ!」

ここでしか味わえないような料理の屋台も出るという話を聞いていたから、朝食を軽めに済ませてきているのだ。育ち盛り食べ盛りの少年の腹は、宿からここまでで既に空腹を訴えつつある。そうでなくても先ほどから、あちらこちらで美味しそうな湯気や香りが漂っていると見ては落ち着かないのも仕方がなかった。

 

 白い光が降り注ぐ朝、港にほど近い市街地の広場では市が催されていた。

所狭しと張られた天幕の屋台には威勢の良い呼び声が飛び交い、四人はあちらこちらと気になるものを見つけては立ち止まり、勧められるままに試食をしたり手にとって眺めたりしながら漫ろ歩いていた。

 水揚げされたばかりの魚介類、新鮮な野菜や乳製品をはじめとする様々な加工食品、日用品から家具、武具、装身具、舶来の嗜好品等々、街の人々が必要とするであろうあらゆるものが時に整然と、時に雑然と並べられ彼らの目と舌を楽しませる。

 最大の交易相手であるレグアラとの往来が途絶えて久しいにも関わらず――確かに、品数が減っている様子も見受けられたが――市は活気に溢れ、そして賑わう場所には情報も集まるもの。

他愛のない噂話や苔生した様な昔話、そしてやはり今、人々の最も関心事は海賊被害に関することだった。

 彼ら四人は、このザクファンスからレグアラへ渡り、王都メルドギリスへ向かうつもりだった。レグアラと行き来する船が減少しているらしい不確かな噂話はこれまでにちらと耳に挟んでいたが、まさか全く船がないという事態になっているとは考えもしなかった。

だが昨日の午後ザクファンスに着いて宿を取り、明けて今朝までに得られた情報ではまだまだ把握できていないことが多く、これからどうするかの判断もしようがない。とにかく情報収集にとこの市へ来たのだが――本来の目的を果たすのはどうやら一通り楽しんだ後になりそうだった。



 雑多な市場は行き交う人も様々で、旅人や船乗り、商人も居るがその多くがザクファンスの一般庶民。この市場は彼らの日常生活そのものなのだ。だが、中には馬車で乗りつけ召使を従えた居丈高な者達も居る。

 物見遊山気分のそんな態度で人々の暮らしの何が分かるのかしらと、豪奢な衣装を纏った男の一行を横目に見ながら彼女は足早に馬車へと戻った。かろうじて幌はついているもものの、彼らの乗る箱馬車の様に天蓋や窓扉はない。だが二人乗って荷物を積むのに十分な辻馬車風のこの軽馬車を彼女は気に入っていた。

「お待たせ、ギュンター。行って頂戴」

言うと御者台の男は小さく頷いて手綱を振るった。

「――やっぱり、かなり減ってるわね」

「何が、でございますか?」

帽子を目深に被り背中を丸めた御者の後姿を見ながら呟く彼女に、隣に腰掛けた娘がきょとんとして問う。

「ジズナクィンからのものよ」

「それはお嬢様、レグアラとの交易が絶えてもう2ヶ月になりますもの」

娘はさも当然という様に応える。値を上げながら在庫を保っていた店も、そろそろ品がなくなってきたということだろう。

「それは分かってるわ」

「ですがほら、ジズナクィンの物にこだわらなければ、相変わらずいい品が揃ってますし」

「そうね。レグアラからの物がなくても、私たちはそんなに不自由ないわね。でも、そういう問題じゃないの」

人込みでやや乱れてしまった髪を耳にかけながら彼女は濃緑の鋭い瞳で言う。

「私たちに……ザクファンスに売るつもりだった、レグアラの、ジズナクィンの人たちはどうしてると思う? 冬の間に作った品が留め置かれてるわ。きっと。――やっと温かくなって、人も物も動く季節になった矢先に、ジズナクィンは閉ざされてしまったのよ。7月にはあちらこちらでお祭りがあるのに。それに向けてのお金や物や人が動かないと、どうなってしまうと思う?」

「それは……」

娘は応えられずに口篭った。

市場ではレグアラとの交易が途絶えて困窮している現状と、対処がなされないことについての不満、それから海運・交易業を営む各商家の対応や評価なんかを多く耳にした。

「どうにかしないといけないのよ。少なくとも、放っておいていい訳がないわ」

幌に遮られても明るい陽光が、彼女の橙の髪を照らしている。隣に座る娘と変わりない、目立ちすぎない質素な衣装を纏っていても、その毅然とした姿勢は瞳を細めずには居られない眩しさを湛えていた。


 小さな馬車は軽快な音を立てながら路地を抜け、坂道を登って青い屋根の邸宅へと辿り着いた。

鉄柵に囲まれた緑の庭を横目に見ながら裏口へと周り敷地内に入ると、

「ちょっとお兄様に話があるわ。ギュンター、荷物をお願いね」

彼女は馬車をぴょんと飛び降りて足早に屋敷の中へと入って行く。

「お待ち下さい、お嬢様っ」

灰褐色の髪の娘が慌ててそれに続く後ろで、御者の男は縮めていた背筋を伸ばし、積まれた荷物を下ろし始めた。

「お疲れさん。手伝おうか?」

屋敷に入って行った娘二人と入れ替わりで出て来た男が彼に声を掛けた。

御者の男に同じく質素ながらも綻びのない衣の袖を捲り上げながら、日に焼けた表情を見せている。歳の頃は二人共同じ、40に差し掛かろうという辺りだ。

「あぁ、イェンス。ありがとう。馬を頼むよ」

「いいのか? 今の勢いじゃあ、またすぐに出かけるって言いそうだぞ?」

お嬢様の活発が過ぎるのはいつものこと。馬を厩舎に戻してすぐに馬車を出して欲しいと言われたことも、一度や二度ではない。

「だからだよ。水を飲ませて、少しでも休ませてやらないとな」

ギュンターは青い目を細めて微笑んだ。イェンスの言ったことなど、百も承知だと言うように。

するとイェンスもまた、確かにその通りだと笑い、水桶を用意し始めた。

「――で、今度は何事なんだ?」

荷物を全て下ろし終え、馬の世話に加わったギュンターにイェンスは問うた。

「レグアラとの交易の件さ」

答えは想像がつくものであったから、驚きもせず彼は苦笑する。

「ついにキレなすったか」

「まぁ、2ヶ月。もった方だと思うがね」

ギュンターもまた、呆れつつも愛情のこもった声音で彼らの主人を評した。

 彼らがこの屋敷に勤め出した頃にはまだいなかった、アルジュート家の末娘は蝶よ花よと育てられ、今ではすっかり自由奔放。

だがその明朗快活さ、天真爛漫さ、そしてまっすぐな正義感の強さは彼らにとって好ましいものだった。

「はてさて、今頃何と言ってルティウス様を困らせておられることやら」

彼女が何かを言い出せば、決して他人事ではないのだが――彼らは思わず忍び笑いを漏らした。


 せめてお召し物を替えて下さいと追い縋る侍女のヨハンナを振り切って、彼女は兄の書斎の前に立った。

重厚なその扉を御義理程度に叩いた後で、返事を待たずに勢いに任せて開く。

「お話があります、兄様」

言いながら部屋に踏み込むと、いつもの場所に兄は居た。

後ろに撫で付けた髪型のせいで本来の年齢よりやや老けて見える彼は、彼女の方を向かないまま書類に筆を走らせている。

「……」

無言のまま応えず、仕上がった書類を隣に立つ男、スヴェンに渡してからやっと彼女の方を見た。

僅かに眉をひそめ、それから

「何の用だ」

低い声で問うた。鋭い深緑の視線はまた、新たな書類に落とされた。

「何でもご存知の兄様は私の言いたいことなんてお見通しなんじゃないかしらと思いますけど」

腰に手を当てて、彼女は机の向こうに腰掛けたままの兄を見下ろしている。

自分の方を見ていないと分かっていても、そういう姿勢をとらずに居れなかった。

「生憎、子供の戯言をいちいち想像して気を回す暇など私にはない」

嫌味に嫌味で返してくる兄の態度はいつものこと。だからそこには気を留めず

「レグアラへの船の航行を再開して欲しいの」

単刀直入に彼女は言った。

「……街で見聞きしてきたなら、それが今不可能なことくらい分かるだろう」

「街の人の話を聞くから、交易の再開が必要だって痛感するのじゃない! 市場は確かに賑わってるわ。でも、以前の半分よ。困っている人を、どうして放っておけるの? どうにかしないとって思わないの?」

「損害を考慮しない彼らの希望に応えて船を出して、みすみす海賊どもに積荷を奪われろと?」

頬杖をついて彼女を見上げ、呆れたような溜息を漏らす兄の態度があまりにも横柄に見えて、彼女は思わず声を荒げる。

「そんなこと言ってないわ! だからその、海賊をどうにかしなきゃって話でしょう!?」

「どうにかする? 海賊どもを話し合いの卓に引きずり出せるとでも思っているのか? それとも一戦交えろと?」

「それはっ……!」

「それこそ私たちのような一商家のすることではない。積荷だけでなく、船自体、それに船員にも危険が及ぶのだからな」

口ごもった彼女に冷厳と言い放つ。陽だまりのような暖かな橙の髪とは似つかわしくない人物だ、と彼女は思った。

「でも、誰も、何もしてくれないんだから、自分たちでどうにかするしか――」

いつの間にか、机に両手をついて身を乗り出していた。熱願する想いが両の拳を握らせる。

「我々の手に負えるようなことなら、既に誰かがどうにかしているはずだ」

「でもっ! 父様や母様だったら、きっと絶対、動いてるはずよ!」

 祖父が始めた海運・交易業を引き継いだ両親は、自分たちだけでなく街の人々にも利益をもたらす仕事がしたいという理念もしっかりと受け継ぎ、利の薄い依頼を引き受けることも多かった。そうして築き上げた信頼と富だ。

今、街の人々が困窮している。こういう時にこそ、自分達のようなものが私財を投じるべきではないのか。

「その父と母に全てを任されているのが私だ。だから私は私自身の判断で物事を決めている。両親の模倣ではなく、両親に任されている自分自身の基準でな」

家督を全てを譲り渡す、という訳ではないが、彼女たちの両親はその事業を既に長男であるルティウス=アルジュートに任せている。

そして自分たちは、新たな取引先の開拓と称して一年の半分以上を外国で過ごしているのだが、彼らは決してこんなにも冷徹な判断は下さないだろうと、娘である彼女は思うのだ。ましてやこんな高飛車な発言は認めないはずだ。

「そんなの、周りの意見が聞けない自己陶酔者よ。身勝手なだけじゃない!」

ダンッ! と思わず握った拳を打ちつける。兄は動じず、また溜息を吐いた。

「ジズナクィンへの全ての航路が封鎖されるほどの海賊被害だ。私達の手に余る事態だとわかるだろう? お前は船を自分で動かせるのか? 身勝手なのは一体どちらだろうな」

「……分かったわ」

痛みよりも、憤りで唇が震えた。

慈善事業ではない、自分たちの生活の基盤を守ることがまず第一だと主張する兄とは、これ以上話しても意見が交わることはなさそうだった。

「兄様が、保身しか考えてない腰抜けだってこと、よーく分かったわ! もういい。自分でどうにかするから!」

彼女は正面に座る兄を見下ろして嫌味たっぷりに言い放つと踵を返した。

「あぁ、船を使うなら"ユーディット"にしろよ」

出て行く妹の背に、兄が声を掛ける。

兄が言ったその船は、彼女自身も気に入りで何度も乗ったことがあるいい船なのだが、アルジュート家が所有する船で一番小さいものだった。

家の船を使うなと言われるよりはマシだが、それでも使うなら安物にしろと言われている気がして癪に障った。

「分かったわよ!!」

怒りに任せて彼女は力いっぱい扉を閉めた。

 こんなにも、通じ合えない、理解してもらえないと言うことがあるだろうか。

 同じように育ってきたはずなのに。寧ろ幼い頃は歳の離れた兄は憧れであったし、大好きだったのに。

いつから、こんなにも分かってもらえなくなったのだろうか。

嘲笑ではない暖かな笑顔を向けてくれなくなったのはいつからだろうか。

変わってしまったこと、通じ合えないこと、そして分かってもらえないことが悔しくて、彼女は握り締めた拳を解けないでいた。

「――下さい! お待ち下さい、ヘルガお嬢様! どちらへ行かれるのですか!?」

無意識のまま足早に階段を駆け下りた彼女に、兄の書斎前で待っていた侍女のヨハンナが追いすがる。

あまりの勢いにまろびそうなことに気付いて彼女はヨハンナを振り返った。

「もう一度出かけるわ。帰りがいつになるか分からないから、着いてこなくてもいいわよ」

「!! そういうわけには参りません! わたしはヘルガお嬢様について参ります!!」

階段を下りたところで追いついて、灰褐色の髪の小柄な娘は彼女に詰め寄った。

 ヘルガが、これからどうするつもりなのかは分からない。それでも、扉の外にまでも聞こえていたその思いはあまりにも彼女らしくて、ヨハンナはやはり彼女について行きたいと思ったのだ。

 その鳶色の瞳を見つめ返して、ヘルガは少し表情を緩める。普段は気弱な彼女の、こんな表情を見ることなど滅多にない。それほどに思ってくれていることが嬉しかった。

「心強いわ。それじゃ、行きましょう! まずは港ね!!」



バタン! と勢いよく扉を閉めて嵐が去っていった書斎で、ルティウスは仕上げた書類を一枚、丁寧に折って封筒に入れた。

「スヴェン、ロスヴィータにこれを。連絡を取って欲しい」

封蝋を施して傍の男に渡し立ち上がる。

「かしこまりました」

と応える声を聞きながら背筋を伸ばすと露台に続く窓の外を見た。

遥かな水平線は揺らぐことなく、だが、そこに浮かぶ船は少なくどれも小さい。たまに通る大型船も、ジズナクィンへは行かない。

今朝見えていたそのほとんどが、近海で漁をする漁船ばかりだった。

 ほんの数ヶ月前までは、引切り無しに行きかう客船、大型貨物船等様々の船が目を楽しませてくれていたというのに。

どれだけの人々が今、職を失っているだろうか。現状を憤ろしく思っているのは何もヘルガだけではない。

「――さて、我が妹はどう動いてくれるかな……」

誰にともなく呟いたルティウスの声を、その良く聞こえる耳で拾ったスヴェンは瞳に強い意志の光を灯す彼の、妹と良く似ている様を想って僅かに頬を緩めたのだった――。

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