075 - 嘆きと願い

「おにいちゃん!!」

「う、ゲホッ……ゲホッ……!!」

突然解放されて、堅い水の上に投げ出された。

激しく咳き込みながら瞳だけでなんとか透ける人型を見上げる。

『そう、そうよ……私の名はデラグファート。かつて誰もが私をそう呼んだ……母なる大樹、デラグファート、と……!』

どこか夢見るような陶然とした瞳で――怒れる黄金から、穏やかな緑へと色を変えた瞳で彼女は遠い空を見ていた。

『でも、いつからか声は途切れ……そして永く途絶えていた……。だから……とても、強く求める心を感じて、姿を見せたのに……なのに、あぁ……私は、何てことを……!! 本来託し与えるべきはそなたであったのに……!!』

「託し、与える……? 何の、ことだ?」

 足元には硬い水の地面。身じろぐとそこから、波紋が生まれ幾重にも広がっていく。

此方もまた解放されたミナが、立ち上がれぬまま跪いた姿勢のリーに駆け寄りしがみついた。

 なかなか整わない呼吸と治まらない激しい頭痛を無視して、大丈夫だと少女に言い聞かせ、彼は問うた。

『デラグファートを、よ……』

「それは、あんたじゃないのか?」

『そう、私はデラグファート。デラグファートであり、デラグファートの守人。持っていたのよ、この手に。緑の宝珠、デラグファートを……』

「!!」

やはりそうだ、とリーは思った。

 ユサトカはかつてユツェカーと呼ばれ、神の力――神珠が封ぜられた地とされている。

この守人の言によると確かに、神珠"デラグファート"があり――そしてこの大樹"デラグファート"が守っていたのだ。

「神珠を、奪われた……?」

『そう……あの人間は、私の名を知らなかった……でも、私を呼んでいた……。ひどく切実に……だから……』

守人は、自らの手に視線を落とした。

『純粋だと、感じたのに……! あんなことをするなんて……!!』

手の中に、宝珠はもうない。自らを抱きしめて、ワナワナと震える守人。

 守人の言う"人間"とは恐らく、カムヤオ達のことだろう。

「……」

何と言っていいか分からなかった。ミナも言葉を失い、ただ守人を見つめている。

 人々からその名を忘れ去られ、永き時をこの場所で、たった一人ひっそりと存在していた守人。

求められ、嬉しかったに違いない。

透けて見えるその姿から、とても人には見えないが、だからといって感情がないわけではないだろう。

人間は、差し伸べられた手に縋りつくどころかその手から、最も大切なものを奪っていったのだ。

裏切られた気持ちに悲しみと怒りが込み上げるのは当然。

「森が枯れてしまったのは、神珠がここからなくなったからなのか?」

険しくなる守人の表情から、その思考を逸らさなければと感じたリーは別の問いを向ける。

『……私が、呪ったからよ。宝珠を奪った者たちの不幸を望み、枯れ果ててしまえばいいと、人間たちが自らの罪を思い知ればと……。

 私はデラグファートを託し、守人の任から解放されるはずだった。孤独や怒りや悲しみを、もうこれ以上、感じなくて済むようになるはずだったのよ……!』

守人は祈りの形に手を組んで、瞳を伏せたまま続ける。

 "名を呼んだ者"に与えられるべき神珠は、奪われた時に呪われたのだ。それを手にした者が枯死したのは恐らくそのため。

「呪い……」

その物騒な言葉に、リーは眉を顰める。願うではなく、"呪う"という言葉に、守人の暗い思いが見て取れる様。

人を枯死させるほどの怨恨は森を枯れさせ、そして大樹にまで影響を及ぼした。

あるいはそれは、大樹の名を知りもしない者が神珠を奪うという狼藉を働いたからとも言える。

デラグファートは神珠であり、守人であり、大樹なのだ。

『そう、呪ったの。だからだわ……これは私への罰……。呪い殺めてしまおうなんて、恐ろしいことを望んだの。私のしていいことではなかった……』

 嘆き悲しむ守人の姿は憐憫の情を掻き立てる。

つられ、幼いミナは今にも涙を零しそうな表情になっていた。

「……ミナのとおさんはデラグファートさまから大切なものを奪ったから死んでしまったのね……」

「ミナ……!!」

先程の攻撃が特に自分に向いていたことから、幼い子供に対する慈悲の心はあると思えた守人だが、神珠を奪った人間の血縁者だと告げるのは、守人の反応の予測がつかない為危険なのではないかとリーは慌て制した。

だが子供は、彼の思惑など気にする風もなく、まっすぐに守人を見詰める。

「ごめんなさい……!!」

『そなた、あの男の娘か……』

守人はさして驚きもせず、激昂するでもなく少女を見た。

ミナは頷き、

「ミナ、どうしてとおさんが死んじゃったか、知りたかったの。それから、森の木々が枯れてしまうのはどうしてなのか、知りたかった。ミナのとおさんのせいだって、分かった。本当に、ごめんなさい!!でも、でも……!! とおさんとかあさんが居ないのに、大樹まで枯れてしまったら、ミナは嫌です! 森の木が枯れちゃうとみんな困るし、この大きな樹が枯れてしまうのも、とても悲しいの!! だから、ミナ、どうすればいいですか!?」

零れそうだった涙を飲み込んで、強く手を握り締めて、ミナは守人を見上げた。

稚い言詞。だがそれは、包み隠さぬ本心を見せ付けた。

 守人は少女の言葉に、幼いながらも強く真摯に見つめる大粒の瞳に、僅かに驚いた表情を見せ、そして苦し気に首を振った。

『もう、どうすることもできないの……。宝珠を、私は見失った。その行方を辿ることも出来ない……。

全うすべき役目を奪われ、私は全て枯れ果てるまでここで……。回帰は出来なくても、解放は得られるかもしれない……』

「枯れてしまったら、デラグファートさまはどうなるの? 解放って、どういうこと?」

『消えるのよ……。そうね、人間で言えば、死……でも、それは、私にとっての解放。私が消えても大樹は枯れないけれど、大樹が枯れれば私は消える……』

「そんな……!! いや、です……! 死んじゃうなんて、どうして、そんなの、いや……!」

守人の言葉に、少女の涙腺はついに堪えきれなくなってしまった。大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。

『そなたは優しい子ね。でも、それが私の望みなの……。守るために具現化された私は、消滅を得ることにより元に戻る……永き孤独から解放されるの……。悲しいことじゃないわ。それを、得られない方が苦しい……。これ以上、独人で居る寂しさを感じていたくないの。

本当なら宝珠を託して元に戻る……"大樹へと回帰"するはずだった。けれど、大樹が枯れてしまえば帰る場所がくなる――そう、ただ"消える"だけ』

孤独を感じる心がなければ、寂しさに苦しむこともない。

 守人は切ない微笑を浮かべた。それはあまりに人間的な表情。

 デラグファートは、名を呼んで欲しかった。

そうして、神珠を託し大樹への"回帰"という解放を得るはずだった。

だが、唯一の望みを叶えるものを奪われ、守人は奪った人間を呪った。

すると、大樹は枯れ――守人は消滅する定めとなった。

それは"解放"ではあるが、本来の望みではないはずだ。

 彼女はもう、それを受け入れようとしてしまっているけれど。

頭の奥の疼痛は、先程の彼女の攻撃によるものか、それとも憤りによるものかリーにはわからなかった。

――セフィが、この場にいなくてよかった。

あの心優しい幼馴染はきっと、そんな思いを察して酷く心を痛めるだろうから。この幼い少女と同じ様に。

「でも、でも……! 大樹が枯れるのは、いやなんです……!! だって、ずっと見守っていてくれたんだもの……! そう、でしょう!?」

ミナは涙を拭くこともせずに、言葉を続ける。

だが守人は力なく首を振るだけだった。

『……そなたのような人間がこの地に満つれば、私も枯死を望んだりはしなかったでしょうね。でも、もう遅すぎるの。私は宝珠を失い、大樹は枯れる……呪いは解けず、やがて人は宝珠を手放すでしょう』

何者の言葉も聞き入れないという風に守人は枯れた大樹の枝を振り仰いだ。

『さぁ、もう立ち去りなさい……ゆるゆると迫る破滅の時まで……』

「待ってくれ、デラグファート! オレはあんたの名を呼んだ。つまり神珠を受け取る資格を得たということになるんだよな?」

やっと、立ち上がってリーは声を上げた。

"本来託し与えるべきはそなたであった"と、先程守人は言った。

守人は神珠の在り処を見失い、取り戻すことが出来ないと思い込んでいる。

だが――

「それなら、オレが神珠を手に入れればいい。そういうことにならないか?」

やや強引な気もするが、理屈的にはそれでいいはずだとリーは考えた。ただ、そのような論理が通じるかどうか、だ。

『……私が見失った宝珠を、そなたが見つけ出すというの?』

驚いたような表情で眼を瞬く守人。

『できるのか? そなたに?』

「あぁ。必ず探し出す。約束しよう、デラグファート」

立ち上がって見ると、彼女はリーよりもはるかに小柄で華奢だった。

薄く向こう側の景色が透けて見える以外は至って普通の、頼りなげな娘。

「オレが必ず、神珠を取り戻す」

『本……当に……?』

震える唇で、縋る様な瞳で、守人はリーを見つめた。

「信じられないか? デラグファートの名を知るオレが」

リーは力強く頷き、そして不適に笑んだ。

「そうよ、ねぇ! ミナ、毎日大樹に向かってお話しするわ。ちゃんと名前を読んで、楽しかったこととか、嬉しかったことをいっぱいお話します! おにいちゃんがデラグファートさまの大切なものを見つけるまで、貴女が一人で寂しくないように……! だから、おにいちゃんを信じて、待ってて欲しいの!」

リーの言葉に、ミナもまた表情を明るくする。

 守人の表情がくしゃりと緩み、みるみるうちに潤んだ瞳から涙が溢れ頬を伝った。

『いいえ! いいえ……!』

顔を手で覆い頭を降る。

「デラグファート。だから……オレを信じてくれるなら、それまでどうか……」

『そなたたちを、信じたい……! でも、もう、私には大樹を回復させることは出来ないの……! 呪うなんて、本当はしてはいけないこと。まして命を奪うなんて……! 守人である私が枯れることを望むなんてことをしてはいけなかったの! 禁忌なのよ……! だからこれは、私への罰……私には、どうすることも――え……!?』

その場に崩折れた守人が、ハッとなって背にした大樹を振り仰いだ。

リーとミナもつられ其方を見遣る。

 立ち枯れた大樹が白く色を失っていた。

「何……!?」

ビシ――と音を立てて緑のヒビが走り、瞬時にして広がっていく。

『こんな……こと……』

守人が呟き、

『えぇ、でも、そうね……』

「デラグファート?」

そして頷く。まるで大樹と自分に言い聞かせるように。

『古の歌知る幼子……そして虹輝石<イーリス>の名を持つ我が眷族の"ヤティム"よ……』

立ち上がり二人を見つめ、両手を高く捧げる。

『そなたたちを信じます……だからどうか、お願い。守って……!』


次の瞬間、大樹は眩い光を放ち粉々に砕け散った。



 粉雪のような結晶が降り注ぐ。

光の衝撃に眼を眇めながら、だがその光景を全て、二人は見ていた。

視界は様々の白に染め上げられ、ただ一点、淡い緑が浮かんでいた。

誘われるように、彼らは歩み寄る。

サク、サク、サク、サク――

細かな雪を踏みしめる音。

 淡い緑の、それは種子だった。

近付くと、浮かんだ種子はそのまま白い地面に溶けて消えた。

――私には、芽吹かせる力が、もうないの……

脳裏に響く声は守人のもの。

リーは、自分が何を求められているのかを理解した。

跪き両手を地に着いて、瞳を閉じる。

「……」

呪文の言葉は要らない。

ただいつものように、いつもより強く力を請うた。

「あ!!」

ミナが小さく声を上げる。

結晶に覆われた地面からまるで孵化するようにゆっくりと芽吹き、羽を広げる仕草で双葉が開いた。

――ありがとう……

小さな命。だがそれは、守人のただ一つの、最後の希望。

――浅い眠りを繰り返しながら……もう一度大樹が、木々が育つのを待ちましょう

――もう少しだけ、様々の"感情"というものを傍において……

幽かにデラウファートの声がして、吹雪の様に白い結晶の飛礫が打ち付けてくる。

二人は咄嗟に手で、腕で眼を庇った。

視界が光に染まりデラグファートの声が遠ざかっていく――。



 大樹の元に導かれた時と同じように、全ての感覚が光に溶かされ、そして気がつくと二人は黒い石座の前――大樹を望む祭壇に立っていた。

そこから一歩も動いていない、何一つ変わっていない気がして先程までのことが急に信じられなくなった二人は無意識に辺りを見渡した。

 夕暮れ時の紺から白、黄金への美しい階調をなす空模様もそのままの、遥かな緑の地平――だがそこに、大樹の姿はなかった。

それどころか、太陽の位置が逆になっていることに気付く。

呆然とする二人の目に、眩しい朝日が今まさに差し込んだ。黄昏から暁に、確かに時は過ぎていたのだ。


 太陽が昇りきる光景を気が済むまで眺めて、二人は帰途に着いた。

その道中、見かけた立ち枯れた木々は全て姿を消し、白い結晶がその跡に降り積もっていた。太陽の光が注ぐその場所にはおそらくまたすぐに、新たな命が芽生えそして育つのだろう。

 ユトの村に帰りついた二人を迎えたのはテワンと、そして村人達だった。

二人がデラグファートと対話し、そして大樹が砕け散ったのと同じ頃、枯れた木々が白い結晶になったのだという。

そして村人たちは同じように声を聞いていた。その言葉が如何であったか知る者は居なかった。だが、それが確かに大樹の声であり、その言葉と存在を信じさせるものであったのは確かだった。

リーとミナは見聞きしたことを語り、村人たちはそれに興味深気に耳を傾けたのだった。


そして旅立つ彼に、誰かが言った。

『緑の実をつけた枯れ枝を、聖職者たちの浄化祈祷に紛れて何者かが持ち去った』と。

その意味と理由を、そしてカムヤオが宝珠を求めた真相を探ることも全て引き受けて、彼はユサトカを後にしたのだった――。

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