074 - 大樹の名

分かるか、と聞かれた子供は、分からないと答えた。

それは真実だった。

何が起きたのか、何処にいるのか、何故なのか。

子供には何も分からなかった。


子供の答えに、男は安堵し優しく微笑んだ。

 その時から、子供は食べる物と眠る場所、着る物を与えられ、学び神に祈ることを課せられた。

神によって救われた命を神に感謝し神に捧げるべく費やせ、と。


男は、記憶のない真新な子供に進むべき道を示した。


 だが、子供は記憶を失ってなどいなかった。

父と姉が殺されたこと。その惨い仕打ちを。

そして共に生き延びたはずの母もまた、度重なる奇怪な儀式の末に命を奪われたこと。

自分の身に刻みつけられた烙印も全て、子供は憶えていた。

だが何故そうなったのかは分からなかったし、そう答えたのはある意味生存本能に所以していた。

分かるかと問われる度子供は首を振る。

信じられるものは何一つなく、全てが敵だと思っていた。


 あの、無垢なる微笑を向けられるまでは――



 白の眩しさに思わず瞳を閉じてしまっていたのか、感覚すら曖昧で果たして定かでないが、視界が開けた時景色は一変していた。

 目の前には赤褐色の壁が迫り――否、それは巨大な樹の幹だった。

乾いた音を立てる草の足元、数歩先から恐ろしく澄んだ泉が広がり、大樹はその泉の中央から遥かな天空に向かって伸びていた。

泉の縁から大樹まで、どれくらいあるだろうか。その規模に遠近感がおかしくなりそうだった。

泉の底には大樹の根が、時に水面に顔を出しながら縦横に張り巡らされている。

 水はこんなにも清らに満ち溢れているのに、樹は枯れていた。

そして大樹と泉を取り囲む立派な木々やそれを拠り所とするあらゆる植物もまた、枯れ果て変色してしまっている。

思わず戦慄してしまいそうになるような光景が広がっていた。

甘い花の香りも、鳥たちの鳴き声もない。

何一つとして、命を感じられるものがなかった。

「……」

ミナが無言で彼の手に縋る。

やっと辿りついた、大樹の元。

だがそこは、不安を感じずには居られない空間だった。

『よくものこのことやって来られたものね、人間よ』

唐突に、細く鋭い声が降って来た。

「!?」

驚き二人は辺りを見回す。

「おにいちゃん、あそこ……!!」

ミナが示した大樹の傍、泉の上にうっすらと浮かぶ人影があった。

淡い緑の光を湛えたおぼろげな人型。

向こう側が透けて見えるその姿は、だが徐々にその輪郭を明らかにしていく。

華奢な腕で何かを抱く姿勢のまま見下ろしている、細面の女性だった。

足元まで伸びた長い髪は緩やかに波打ち、長衣と溶け合っている。

年の頃は、リーよりもやや上だろうか。

『これ以上何を奪いに来たの? それとも赦しを乞いにきたのかしら?――今更だけれどね』

穏やかに閉ざされていた瞳がカッと見開かれ、黄金の眼光が二人を捕らえる。

「何!?」

同時に、枯れた色をした木の根が蔦が二人を襲った。

リーは咄嗟にミナに伸びた触手の様な枝を払ったが、どこからともなく素早く迫る無数の全てから守ることは不可能だった。

瞬時にして手に、足に、首に蔦が絡まり自由を奪われ地面から引き剥がされた彼は、抵抗も出来ないまま泉の上に浮かぶ人型に引き寄せられていった。

「ぐ……」

「キャーっっ!」

ミナの幼い身体もまた蔓に絡め取られ、腕と共に胴を縛る形でリーの隣に並ぶ。

『ははは! 全て枯れて、息絶えてしまうがいいわ! 罪の代償と言うにはあまりにも軽すぎるけれどね!』

何も映していないような瞳で咽喉を仰け反らせて叫ぶ。

その、狂気染みた声音と共に、締め上げる力が強くなる。

「くっ……!」

なんとか首まで持って行った手で絡まるものを解こうとするが、指先の入る隙間はなく、空気の通り道すら塞いでいった。

『さぁ、もう消えて頂戴……!』

「おにいちゃん! おにいちゃん!!」

もがきながらミナが、泣きそうな声をあげている。

「っ……!!」

苦しい。息が出来ない。

目がチカチカとして、力が入らない。

音が、意識が、急速に遠ざかっていく――。


『私はここにいるの。全てが枯れ果てるまで、ここに……。

あぁ、どうか赦して頂戴、愛しい子供たち。全てはあの人間が犯した罪……あなたたちまで、枯れさせるつもりはなかったの……でも、もう、駄目。

託し与えなければならなかったのに、私は、奪われてしまったの……。

私の名も意味も知らない人間に……!』


激しい苦しさに、他の感覚が酷く曖昧だ。

それにも関わらず、彼女の声は鮮烈に響く。


――ここに私はいるから

――私はずっとここにいるから

――覚えていて 忘れないで

――そして 名を呼び 私に触れて


そう、確か石座に刻まれていた。

大樹の名。

あの女性の人型はその名を呼ばれることを望んでいるのだろうか――。



 光を見た。それは、彼にとっての"救い"だった。


木漏れ日の中に眠っていた幼子。

緑の草の上、優しい動物や鳥たちが集い、時がまどろむ場所。

色素の薄い髪と真珠の肌が御伽噺の妖精の様に儚く思えた。

近付く気配に目を覚まして、うっすらと開かれた瞳が彼を映して微笑んだ。


大木のような柱が立ち並ぶ聖堂に足を踏み入れたのは、神に祈るためではなかった。

硬い石の空間に満ちた、厳かな香と捧げられた花の香りが鼻腔をくすぐり、ステンドグラスに彩色された光が鮮やかに降り注ぐ。

薔薇窓から差し込む光の中で跪き祈りを捧げていた後姿を幾度となく探して、見つけて、でも、容易く近付くことは出来なくて、息を殺してただ見つめていた。


振り返り、柔らかな表情で名を呼んだ。

彼の、名を。

――セフィに名前を呼ばれるのが好きだった。

その声音は、彼を無条件に肯定してくれた。

微笑みの暖かさを信じていいのだと思えたから。


名を呼び、と石座には刻まれていた。

あれは恐らく、大樹の声。

――そう、名前、だ。


――『古代語で意味を示す名前が与えられているのだそうです』

柔らかな唇が紡いだ言葉。

優しく歌う様に語った。

水、炎、大地、風、そして、大樹――その名を、彼は知っていた。


――デラグファート……!


声は、既に出なかった。

だが手繰り寄せた記憶にあったその名を彼が心の中で叫ぶと僅かに、力が緩んだ。

『何者だ、そなた。何をしに来た?』

彼を見る表情が狂気――侮蔑と憤怒から驚嘆と狼狽、そして期待へと変わる。

その彼女の姿を苦しい体勢からなんとか視界に納めて、搾り出すように彼は言った。

「あん……たの名を、呼び、に、来た……デラグ……ファー……ト!!」

『!!』

リーの翡翠の瞳は確かに、彼女が息を飲み目を見開くのを――その、涙を零さんばかりの切ない表情を捉えていた――。

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