076 - 出会う者達(前編)

 故郷を出て、初めて見た水平線を思い出していた。平面ではなく、前も後ろも右も左も、ただあるのは海と空の青。その場でくるりと回ってみても、途切れることの無い水平線。

 広くどこまでも続く海の青は空の青とは違うきらめきを秘めて、決して混じり合うことはないけれど、太陽がその間に来た時、その境界はかき消されて見えた。

 攻撃的なまでに眩しい太陽の黄金、黄金の海原――

 そして夕暮れに身を躍らせていたのは、とても美しい生き物だった。

時に船と戯れるように自在に泳ぎ、そして舞うように海面に姿を現した。

あれは一体、何と言う生物だったろうか。

 大陸が見えなくなった時に感じた寄る辺の無い不安を忘れさせてくれた。

鱗ではなくすべらかな皮膚を持ち、丸みを帯びた、それでいて流れるような外形の。

三角の背びれ、力強い尾、そして愛らしい瞳、鳴き声――

――きゅぅぅぅ……

記憶にあるその声が聞こえた気がしたが、今耳に届いたのは自分の腹が発した音だった。

美しい光景を思い出して、どうにか意識を逸らせようとしたが、身体はそれを許してくれないらしい。

情けない音が耳に入って、少女はため息をついた。

――はぁ……お腹、空いたなぁ……

穏やかな風が吹くたび、閉じた瞼を木漏れ日が射る。

繰り返す呼吸は全身に花と土と緑の香りを巡らせて、これで空腹感さえなければ最高に心地良い日和だというのに。

――こんなところで寝転んでて……どうするのよ……

――……どうなるんだろ、あたし……

――……

歩くことも怒ることも、思考すらする気にならない程に、少女は腹が減っていた。

そう、だから彼女は気付かなかった。一際大きな鳥の影が横切ったことに。

そして近づいてくる蹄の音も、それがすぐ傍に迫るまで知覚することができなかったのである――。




 遙か昔、あらゆるものが共に在った時代――その頂点に立っていたのは竜だった。

強靭な肉体と高い知能を持った竜は、変幻自在。

空を舞い、自然を操り、長い寿命を持つ最も高位な存在だったという。

それは魔王が世を乱し、サジャ=アダヌスが救い主となるよりもずっとずっと以前のこと。

 ある時、人は竜と仲を違えた。

その力を脅威と感じながらも欲した人間は、群れることにより竜を狩り始めた。

人間は弱い。だが、知能とその数で以って竜に対抗する力を持ったのだった。

竜は急激に数を減らし、その他の精霊や妖精、人外の種族もまた人間との関わり合いを断つようになっていった。

 そんな中、一人の娘と竜が恋に落ちた。今にして"竜の花嫁"と呼ばれる人間の娘。

争いの中にあっても二人は仲睦まじく、娘は竜の子を身籠った。

二人は、竜と人との共生を望んでいた。それはただ愛する者と共に在りたいという純粋な、そして至極当然の願いだった。

だが、多くの竜は狩られ、同胞を奪われた竜たちは憤怒と怨恨から凶暴化して人を襲い――この世界に竜の住める場所はなくなっていった。

そして最後の竜となった夫と共に娘は亡くなり、産み落とされたその子は永く傍で仕えていた者に託された。

竜が居なくなると、やがてエルフや妖精もその姿を消していったという。

 この世界は、人間のものとなった――魔王が台頭する、その時まで。


ここで彼は一旦言葉を切った。ちらと二人へ目を向ける。

「……」

白昼夢を見ていたような感覚に、セフィは何も言えなかった。

アレスもまた難しい顔で語り手であるロルを見る。

その美声で昔語りをする青年は、前方に視線を戻して、

「その、竜と"竜の花嫁"の子がシャハラザード王家の始祖となった。戦乱の中に芽生えた命は奇跡をもたらすことは出来なかったけど、愚かな歴史を繰り返さないために人々が集い、国を造った……だから、シャハラザードは竜の守護を受けし土地というより、竜に連なる者とそれを守ろうとする者達の国と言えるね」

「……人間のせいで竜がいなくなった……人間が、竜を滅ぼした、ということなのですね……」

憂いに満ちた呟きとともに、セフィはわずかに瞳を伏せた。 


 ランノットを発ったセフィ、アレス、ロルの三人はアムブロシーサ大陸北西部の港街ザクファンスへと向かっていた。

 宝珠が封ぜられたとされる地の1つ、メドギス。現在メルドギリスと呼ばれるその地方はジズナクィン大陸中央部に位置する同名の王国を中心とした一帯のこと。そしてアムブロシーサ大陸からジズナクィン大陸への航路が最も多くあるのが港街ザクファンス。

 三人はランノットから街道を北へ、途中いくつかの小さな村や宿場を経て、ミリオ地方にさしかかっていた。あと3日も行けば街道が交差する街ベーメンがある。その街で街道は更に北のザクファンス方面と東のディセイル方面に分かれるのだ。

 道中アレスは約束した通りにセフィから魔法を学んでいた。魔法に関してセフィは今まで読んだという多くの魔術書をもとに、基本的な理論から応用、小技まで、自分なりに発展させ、それをアレスの知る誰よりも分かりやすく教えた。

そして共に剣術の鍛錬をするロルの扱う剣とアレスのそれは、根本的に型が違うものであったため、そこから学ぶことは多くあった。

現れる魔物は、訓練の成果を試す丁度いい実践相手でしかなかった。

ロルは保存食以外の食料調達能力に長けていたし、夜間は三人交代で見張りをすればいい上にセフィとロルが結界魔法を扱うことができるため、野宿に関する負担は明らかに軽く、またロルやアレスの語る生きた物語はセフィを楽しませた。

道すがら話すのはセフィが興味を示すもの、二人が巡った異国の地、出会った出来事や人々のこと。そしてロルの知る異世界のこと、神竜信仰のことが多かった。


 徐々に強くなり出した日差しは、だがまだ暑いというほどでもなく心地よい。街道を行くその道中、シャハラザード――シェ・エラツァーデのことを聞かせて欲しいと言い出したのはセフィだった。

 聖書にもその名を刻む、古の大国。だが語られたのは、思いも寄らなかった竜の悲劇。

憧れて止まない古代の生き物が姿を消したのは他ならぬ自分達人間が"狩った"から――その衝撃に思考が追いつかなくなっているのか、セフィはわずかに遅れてその物語への感想を述べた。

「いや、まぁ結果的にはそうなんだけど、滅ぼしたっていうのは微妙に違うかもしれないんだよね」

明らかに消沈した様子にロルは慌てて言葉を続ける。

「一節によると、人間が力をつけて街を、国を築いていくにつれ、もうここは自分達の世界でないと悟った竜の長、竜王が全ての竜と一部の人外種を連れて、別の世界に渡ったとも言われている。

 また、人間の娘と恋をしたのは竜の長であり、彼は全ての竜を他の世界へ逃がし、自分だけ残った、ともね。それに、竜は愛した人間の娘との子のために、この世界に竜の卵を残しているとか。確かめる術がないから真偽は分からないけど、今もなおその存在を信じる人々がいる。

 伝えられる歴史は勝者のものであり、時に為政者に都合のいいように書き換えられるともいうけど、竜の末裔を王に、と望むのはいつの時代も民であった、ってね」

「竜の末裔……」

青い髪の少年は、いかにも曰くありげなその言葉を呟くように繰り返した。ロルは頷き、

「一度シャハラザードは途切れた。政略婚を拒んだとも、信じぬ者に王位を奪われたとも言われるけど正当な王を失った国は乱れ、人々はやはり、シャハラザードのもとに集った。

イスファル=ラ=ハイネ=フォン=シャハラザード……イスファハ=イリーネって言ったら聞いたことがあるでしょ?」

「……聖イスファハ?」

長い名を分かりやすく短縮した様な名には聞き覚えがあった。セフィは、まさかという思いで問い返す。

「そう。面白いよね。異教国家の正当な王位継承者が聖使徒なんだもん。 亡国の皇子はサジャ<異教の神>と共に世界を救い、そして故国を復興させた。実際、イスファハがシャハラザードに関係のある人物であることはかなり濃厚だと思うよ」

そこまで言って言葉を切り、一旦空を仰いで、それからセフィを見て微妙な表情を浮かべる。

「……つかさ、教会の司祭様のセフィにこんな話するのって、なんか妙な感じ~」

場を和ませようとするように、声音は柔らか。

セフィは瞳を瞬いて、

「そうですか?」

「うん。だってそうでしょ? 教会における神は創造主と救い主。勿論、聖使徒たちを祭る教会や祭壇もあるけど、それ以外に神性は認めない。神竜信仰は"神竜"っていうくらいだから、竜を神とみなす宗教だもんね」

「……ですが、知りたいと望むことは、いけないことではないでしょう? 私は、知らずに否定したり拒絶したりはしたくないのです」


神を神じ、祈りを捧げる。

その行為に疑いは無い。

思いに、偽りは無い。

それでも――

『自分の心、自身が触れて感じたことも大切にしなさい』

『神を感じるのもまた、あなたの心なのだから』

そう、母――マーサはセフィに教えた。


 ねぇ、どうして? どうして、みんな、いじめるの?

 まだほんの子供なのに……!!

 どうして?

 命は、大切にしないと、いけないんじゃないの?

 どうして、ダメなの?


ボロボロになって、既に息絶えた魔物の幼生を抱いてそう訴えた幼子。


 ヤメテ、もう、やめて……!

 お願い、逃げて……!


心無い子供たちの無邪気な残虐性を、投石や振るわれる棒をその身に受けて、それでも一途にその場に立ち続けて――自分を庇って命を落とした魔物と呼ばれる生物。


その悲しい姿を思い出して、セフィは表情を曇らせる。


――命だって!? そいつの命!? バケモノの命だぞ!? それをどう扱おうが人間の勝手だろう!? 魔物は、その存在自体が神を冒涜してるんだからな!!


 そう叫んだ、男が居た。



この世を救い賜うた神を信じている。

聖書に記された、その教えも慈悲も、所業の尊さも。

だが――

寄り添うように付き従う白い獣に目を遣った。

 逞しい体躯に、白く美しい毛皮を纏う狼。並みの狼よりもやや大きいが、2倍はないであろう程度の白狼はその視線に気付いてか馬上のセフィを見上げた。

『如何したか?』

低い声で問われ、なんでもないと微笑を返す。

人語を解すほどに強い力を持つ――それは魔物であるという確たる証拠だった。


 ランノットを発って間もなく、三人の前に白狼は再び現れた。

先に別れた時よりもやや小型化していたが、紛れも無い、それはボドワン一味に捕らわれていた白狼だった。

 白狼は三人の前に立ち塞がり、そして馬から下りたセフィの前に額づいたかと思うと、

『どうか我に名を、与えてはくれぬか』

そう、請うたのだった。

解することのできる、人の言葉で。

『――名を与え、そして共にお連れ頂きたい』

魔術を得手とする術者の中には、相手の名を読み取り奪うことにより、動物や魔物すら支配下に置く事ができる者がいるという。

だが――

「真に力あるものは名を奪うではなく、与えることによってそのものを従える……って聞いたことがあるよ」

折角解放された白狼を再び束縛することになるのではと懸念するセフィに、ロルが言った。

『そう、従うべき主を、共に征途を行くべき者を見つけた時、我等は請う。それは歓びであり、誉れである。――それが我の望み。我を救いし優しき者よ。どうか今一度、慈悲を与えてはくれぬか』

切なる願いと言わんばかりの美しい光を湛えた橙の瞳で、静かな声で、そうまで言われては観念するしかなかった。

「……わかりました。それでは――」

セフィは少し考え、

「レシファートというのはどうですか? "気高きもの"という意味を持つそうです」

思いついた名をセフィが口にすると、白狼は満足げに瞳を細め、再び頭を垂れた。

『我は名を与えられしもの。我に名を与えしものの、その血と影と剣に宿り、御身をお守りすることを、自らの名にかけて誓約する――我名はレシファート。"気高きもの"』

セフィの前に深く垂れた額から発せられた光が一瞬その白い全身を包んで消えた。

『……よい名を、感謝する』

差し伸べられたセフィの手に甘えるように身を寄せ、心地よさ気に微笑んで白狼は言った。



「名を与えて従えたといえばさ、えぇと、確か聖アフサラスの救済の……何番だったっけ? 解放のトコだったと思うんだけど……」

セフィの白狼に対する視線の意味を読み取ってか、ロルが話を再開した。

「知ってる?」

ちらとアレスを見るロル。

アレスは全く検討が着かないと言うように首を振った。

視線をセフィへと移すと、若き司祭は

「12篇、ですね?」

そう言って促されるままに続ける。

「自らをそうでないと知っていながら、救いを求める人々に神として崇め奉られていたアフサラス<ひとの子>が、偽りの神を演じたことを告白し、悔い改め、そしてサジャ=アダヌスによる許しを得、その身を賭して真実の救い主に従うことを誓ったのです」

「そうそう、それ。アフサラスっていうのは、シャハラザードの古い言葉で『天の舞姫』『神の踊り手』って意味があるんだ。この人物はもともとファヤウ=セ=フィアリュートという名で、ファヤウを始めにアフサラスと呼んだのはイスファハだったってね」

「……"アフサラス"というのが、聖イスファハによって与えられた名だと……?」

そんな話は聞いたことが無い。セフィは驚きの表情で問い返す。

「名付けたのはサジャ=アダヌスだよ。聖書には描かれてないよね。でもシャハラザードには、そういった伝承が残ってるんだ。イスファハ絡みのでね。ファヤウのあまりの美しさに天の舞姫のようだとサジャが言ったのに、イスファハがそう呼んだんだって。そしてそれが名としてファヤウに与えられたって」

「聖アフサラスって、美人だったのか?」

それまで口をつぐんでいたアレスが、首をかしげながら問うた。

聖使徒の容姿を詳細に渡って描写、記述する文言はあまりない。

「さぁねぇ? でも、美人だったって読んだか聞いたかしたような――……あれ?」

ふとロルは言葉を切って遠くを見つめた。

「どうかなさいましたか?」

「いや、なんか、赤い……」

「赤?」

す、と腕を持ち上げ、その長い指で示したのは、街道の脇左手の森から少し離れてある1本の木。

「赤い、女の子が落ちてる」

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