069 - ユトの村
翌朝早くに王都シュスを発った彼は、街道とは呼べないような、まさに人間が切り拓いた道を北東へと向かった。
ただ均しただけの地道のすぐ両脇は濃い緑の木々が壁を成し、そこから何度か魔物が飛び出してきたりもしたが、いずれも大した敵ではなかった。
それよりもやはり気になったのは立ち枯れた木々。目に付く数から、この広大な森林の中で一体どれだけの樹が枯れてしまっているのだろうかと考えると確かにゾッとするものがあった。
休むことなくひたすら歩き続け、目的地であるユトの村にたどり着いたのは日暮れ前。
黄昏に染まる土の地面、木造の簡素な家々、家畜小屋からは独特の匂いが漂う。
村の規模としては、想像していたより大きいものの王都から距離的にはそう遠くないにも関わらず、随分寂れていた。
商店らしきものは見当たらず、またすれ違う人々の冷たい眼差しに、宿があったとしても泊めてもらえるだろうかとやや不安になりながら、彼は村の中心広場に向かって歩みを進めた。
「ん……?」
背に負った荷物を担ぎ直した時、ふと言い争う声とその方を遠巻きに見つめる人々に気付いた。
まだ甲高い少女のものと、野太い男の声。そして手酷く何かを打つ音、散らばる音――
「……っ!」
ただひそひそと何かを囁きあうだけの村人たちの向こうで、今まさに幼い少女が尻餅をついて持っていた荷物を取り落としたところだった。
そして更に拳を振り上げる男。
「おい!」
彼は咄嗟に人々を掻き分け、声を上げた。
「やめろよ、おっさん」
黒い髪は、村人に紛れていても違和感は無い。だが、肌の色の薄さは、彼が異国人であることを明らかにしている。
驚き向けられた視線にすぐさま険しいものが注した。
「……よそ者が、事情も知らずに口出しするんじゃない」
「あぁ、事情なんて知らねぇけど。こんな往来で子供相手に暴力を振るうなんて褒められたもんじゃないだろ。……おい、大丈夫か?」
彼はしゃがみ込み、散らばった荷物を集め渡してやる。
「……」
顔を上げ、大きな瞳で彼を睨み付ける少女の頬は赤く腫れ上がっていた。
「怪我を……」
少女は差し伸べられた彼の手を叩き、荷物を引っ手繰った。
「……ほら見ろ。そのガキにそんなことをしてやる必要ねぇ。そいつぁデタラメばっかり言いやがる、どうしようもないクソガキなんだ」
「ミナ、嘘言ってないもん!」
低く言った男に、少女が反論する。
「大きな樹が枯れちゃってるから、他の樹も枯れちゃうの! なんで分かんないの!?」
「大樹が枯れるわけがないだろうが! そもそも、大樹は目に見えないもんだ! それがなんでお前に分かるって言うんだ!?」
「だって、見えるんだもん!」
「黙れ、この、クソガキ!!」
男が顔を真っ赤にして再び手を挙げた。
「止めろって、二人とも!」
彼は再燃した二人の口論を、割って入って制する。
「その辺にしとけよ、嬢ちゃん。それ以上言っても無駄だ。また痛い目見るだけだぞ。おっさんも、そんなことで子供に手を揚げるのは自分の印象を悪くするだけだ。やめとけ」
大樹が"見える"少女と"見えない"男の問答だと確信しながら、平行線を辿りそうな二人に、彼は静かに言った。
少女は彼を見上げ、何かを訴えようとして口を開きかけ、噤む。そして口をへの字にしたまま荷物を抱えて逃げる様にその場を走り去っていった。
「……よそ者が……」
男もまた、吐き捨てる様に言って傍の小屋へと入っていった。
様子を伺っていた村人たちは、それを見届けてわらわらと去っていく。
旅人に向ける視線はやはり冷ややかだった。
激しく言い争っていた少女と男。そして年端も行かない少女が暴力を振るわれていたにも関わらず、止めもせずにただ見ていただけの村人達。
「……なんだったんだ?」
訳が分からず、彼はその場に立ち尽くした。
太陽は既に姿を消し、辺りは薄暗くなってきている。
「……」
溜息をつき、とりあえず宿を探そうと歩き出しかけた時
「……あの子を助けてやってくれてありがとうね……」
一人の女が、すれ違いざまに呟いた。俯いたまま、聞かせることを意図しない小さな声で。
「!? おい!」
反射的に、彼はその女の肩をつかんで引き止めた。
髪を後ろで団子にまとめた、この地方でよく見かける風体の中年女性。
「ひっ」
女は、旅人の思わぬ反応に驚き一瞬身をすくませたが、
「どういう、ことなんだ……?」
静かな声で問う、真摯な光を湛えた翡翠の瞳に気付いて僅かに警戒を解く。
やや釣り目がちで目尻は鋭いが、決して意地の悪い風ではない。
「……グェンの気持ちも、分からないでもないけど。ちょっと、やりすぎよね」
幼い子供があのような仕打ちを受けるのは忍びないと女はひそめた声で言う。
そして、彼が黙って先を促すと、自分も全部を知っている訳ではないがと前置いて話し始めた。
森の木々が突然枯れ始めたこと、村人が奇病で死んだことは既知であったが、あの少女ミナの両親が最初の犠牲者であったというのは新たな情報だった。
ミナの父親は村の薬師の家系で、より進んだ薬草学を学ぶために学都へ行き、数年後帰って来た時には妻と3歳になる娘を連れていた。
間もなく父親――ミナの祖父が亡くなり、その後を継いで村の薬師として、村人達から本当に頼りにされていたと言う。
だがある日、夫婦は突然病に倒れ、足や腕が枯れ枝のようになって死んだ。
その後五名が同じ症状で犠牲となり、村は一時恐慌状態に陥ったのだが、教会の救援で被害は収束。
「その頃からかねぇ。あの子、ミナが母なる大樹が枯れているって言い出したんだ。悲しい、恨めしい声をあげてるってね。大樹なんて、人の目に見えないものなのにね、それが見える、しかも枯れているなんていうもんだから、みんな気味悪く思ってるんだよ。……グェンもね、息子を例の奇病で亡くしてるもんだからさ、その、大樹の恨みとか、呪いみたいなもんで死んだって言われてるような気になるんだろうね。あの子に辛く当たっちまうのはさ」
そこまで言って、女は溜息をついた。
「本当の所は誰にも分からない。だって、大樹が見えるって言ってるのはあの子だけなんだし……。いずれにせよ、関わらないことだよ。……宿は、その先んとこにある。1晩泊まるくらいは構わないけど、とっとと出て行った方がいいよ」
話すだけ話して、女は宵闇に消えていった。
「七人も死んでるのか……」
街で聞いた人数より多い。大変な被害だ。
だが真相や原因はまだ今ひとつ見えてこない。
彼はとりあえず言われた通り、宿のある方へと向かった。そして、何気なく大樹を見遣る。
「オレはともかくとして、村人であの子にだけ見えるってのはどういうことなのかねぇ?」
そう呟いた時、物陰から視線を感じた。
瞬きもせず、じっと此方を見ている――先ほどの少女、ミナだった。
彼が気付いたことを知ると、少女は駆け寄り彼の手を取る。
「お兄ちゃん、見えるの!?」
村のささやかな灯火を弾く瞳は大きく、髪と同じ深緑色をしている。
つんと上を向いた鼻や、濃い眉が愛らしい。
赤く腫れて痛々しい頬をそのままに精一杯見上げて問う少女に、嘘など吐けるわけがない。
「あぁ、見えるよ」
彼は頷き、その頬の傍に手を翳した。
淡い緑の光が瞬時に少女の傷を癒す。
「!?」
少女は突然消えた痛みに大きな目を更に見開いて驚き、そして彼の手を引いた。
「来て! ミナのうちに来て! おばあちゃんのお話、聞いて欲しいの!」
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