068 - 王都シュス
ナパート地方からフェンサーリルへの直行便は無い。いくつも船を乗り継ぎアムブロシーサ大陸へ、最寄の港街エンテスへたどり着けたら、そこからは馬で1日か2日。
トラロックを発った彼は陸路を西へ駆け、ナパートの玄関港ガドアから北へ向かう貨客船に乗り込んだ。客船は少ないが、西方へ向けての航路が多いからと此方の経路を選択したわけだが、ホソンテ大陸南西部に位置する港街に着いた彼は、そこで思わぬ足止めを食うことになった。
年中温暖な気候で降雨量も多く、鬱蒼とした森林地帯が広がっているホソンテ大陸ユサトカ地方。広大な森林と、それらを開墾した農地は豊かな恵みをもたらし、国を広く発展させた。
物資は他国に輸出しても余りある程。だが、持つ者と持たざるもの、階級社会による貧富の差は激しく、人々の生活水準は聖都や先進諸国に比べて随分低い。それでも、出会った人々の表情は明るく陽気だった。
教会信仰が深く浸透してはいるが、"母なる大樹"を崇める土着の巨木信仰も根強く残っている。港を抱える王都シュスは様々な異質の物が混在する、独特の雰囲気がある街だった。
「暑い……」
日が暮れてからは僅かに熱気は和らいだが、これまでいたナパート地方が乾燥した気候だったため、重くのしかかるような湿度の高さは正直辛い。
彼は頬から顎に伝った汗を拭った。
辺りには空気がその色に染まっているのではないかと思うほどに甘い花の香りが漂っている。
――セフィ……
もう少し清しい方が好きだな、などとひとりごちながら思い出すのは、淡紫の瞳持つ幼馴染のことだった。
――会いたい……早く、会いたい……
瞳を閉じて、思い浮かべる。
金属的な光沢を持ちながら、細く柔らかな髪を指に絡めて。
肌理の細やかな肌のすべらかな頬を両手で包み、アメジストの瞳を覗き込む。
瑞々しい唇に、触れたい。
思い描く、姿。
鮮明に思い出す、感触。
背をぞくりとした快感が這い上がる。
――会いたい、セフィ。声が、聞きたい……
花の香りが懐かしい記憶を誘う。窒息しそうな思いに深呼吸をして瞳を開くと、闇夜の空に大きな月が出ていた。
そして、月に透ける大樹。
水平線に陸地が現れた頃から見えていた、巨木。
空を貫くそれは、だが、今にも枝葉を落とし倒れてしまいそうなほどに枯れ果てていた。幾千億の葉々も立派な幹も、全て茶色く変色している。
港に下り立ち、酒場で食事を取りながら話した店主に、あれは一体何事かと問おうとして、やめた。
それが正常な状態ではないことなど、一目で分かる。だがその大樹が、自分以外の誰にも見えていないことに気付いたからだ。
「森が枯れてる?」
彼はグラスから唇を放し、聞き返した。翠緑の瞳がカウンターの向こうの店主を捉える。
色素の濃い髪と瞳、褐色の肌に白い歯がよく映える五十前後の男は、自らも酒を煽りながら頷いた。
狭い店内はまだまだ飲み足りない者たちで賑わっているが、素早く手際よく動き回る給仕のお陰で、店主はこうやって旅人と話し込むことが出来ているらしい。
「そう。そうなんだ。もういつになるか忘れちまったが……ある日突然、森のあちこちで木が枯れ始めてな。まだ寿命でもない若木や、何百年も生きてきたような古木が、本当に突然。
しかも、多くは立ち枯れたまま、倒れて腐るでもなくその下から新しい芽が出るでもない。普通の"死に方"じゃないってんで、みんなして妙だと言ってたんだが……」
そこで一旦言葉を切る。彼は黙って先を促した。
「……ユトの村じゃ、同じ頃に人死にも出たってんで、気味悪がってるんだよ」
「人死に? 死人が出たって?」
「あぁ。そっちも、ある時突然苦しみ出して、周りのもんが何も出来ないうちに死んじまったらしい。まぁ、その、人が死ぬってのは教会のナンタラってのが来て何かを祓ったとかなんとかしたから、それ以降は出なくなったらしいんだけどよ」
「――ということは、死んだのは一人じゃないんだな?」
彼が問いを重ねたのに、声を僅かにひそめ神妙な面持ちで頷く店主。
「俺が聞いたところでは、少なくとも四、五人は。うち二人は夫婦だと」
「……」
「……人の方に被害は出なくなったが、樹が枯れるのは止まってない。こっちは全くお手上げだったようでな、やつら早々に諦めて去って行ったよ」
店主は憮然として溜息を吐いた。その口ぶりから、自分の耳に十字の
「この地は母なる大樹に守られてる土地だが、それに何かあったんじゃないかって話も出てる。ユトの村は特に大樹に近いところにあると言われてるし、その死んだやつらが大樹に何かしたんじゃないか、とかな。まぁ、実際、大樹なんて目に見えるもんでも触れられるもんでもないから、その辺は定かじゃないんだがよ」
そう、店主は話していた。
それならば今、自分が見ているあの巨木は何なのか。
彼は湿気を含んだ黒髪を掻き揚げて空を仰ぐ。
ユサトカはかつてユツェカーと呼ばれた地。神の力が封ぜられたとされる地名だ。
だとしたらあの樹は、大樹は神珠に関わりある可能性が非常に高いのではないか。
そしてそれを調査するのが彼に与えられた任務――だがそんなものよりも彼にとって重要なのは、セフィに会いに行くこと。
あんな話を聞かなければ、ましてあんなものが見えなければ、ここがユツェカーであったとしても無視して素通りしたはずだ。
『ねぇ、リー、話を聞かせて?』
彼の無事を確認して、心からの安堵に綺麗な笑顔を見せて、それからセフィは言う。
『どんな世界を見てきたの?』
『どんなものと出会ったの?』
そう請われれば、拒むことなど出来ない。
オレはいつも君に世界を語る。
決して美しいだけでない世界。
それでも君は知ることを望むから。
そして君は、どんなに遠くの世界のことでも――心を痛めるだろう。
早く会いたかったから、と言えば、セフィは咎めはしないだろう。けれど。
――枯れてたけど放って置いた、なんて言えねぇよなぁ……
月の方角遠くにあってもその巨大な様は見て取れる立ち枯れた樹。
圧倒的でありながらどこか儚げで、悲しげに見えるその姿。
――……でも、オレは早くセフィに会いたい……
月に、大樹に言い聞かせるように呟く。
もう一体どれだけ会っていないだろうか。
思い描く姿が薄れることは無いけれど、会いたいという気持ちは募るばかりで。
無意識に触れた耳には、あの美しい瞳と同じ色の
「……10日……いや1週間、だな」
それで片がつかないようなら、とりあえず放っておいて何か言い訳を考えようと心に決め、彼はまだ蒸し暑い夜道を宿へと向かった――。
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