第2話

 三日三晩を寝て過ごし、隆臣はようやく動く事ができるようになった。まだ足の傷は痛むが、歩けないほどではない。慣れない大怪我に、身体が驚いているだけのような気もしていた。

 リリアナは一人で隆臣の世話を任されているらしく、部屋の外に人の気配はしても、中にまで入ってくる者はなかった。

 剣は取り上げられたままだが、食器はシルバーで統一され、フォークやナイフの類も使わせてもらえる。最大限の配慮がされているのは分かった。

 それでも、リリアナが部屋に入るときにできた扉の隙間から、この部屋を見張る衛兵のような姿は見えていた。リリアナは隆臣が何を聞いても、主から止められていると言って詳しい事を話さない。警戒が解かれる様子はいっこうになかった。どうにもならない状況への苛立ちが募っていくばかりだ。


「そろそろリリアナの主って人には会えるの?」


 ベッドから出て、テーブルで食事ができるようになった頃、隆臣は牛のステーキを切りながら、傍らに立つリリアナに聞いてみた。


「タカオミ様の傷も治りつつございますし、そろそろお会いになるかと存じます。わたくしも主の詳細な予定は把握しておりませんので、いつとは申せませんが」

「そう……。忙しい人なの?」

「ここのところ、忙しそうにしております。この国の内情はご存知でございましょうか?」

「内戦があるかもしれないって聞いてたけど」


 リリアナは隆臣のグラスに水を注ぎながら、考える素振りを見せた。どこまで話してよいか、迷っているのだろう。


「内戦と関係のある仕事をしてるんだ?」

「申し訳ございません。これ以上は申せません」

「十分だ」


 やはり軍か領主の関係者なのだろうと、隆臣はリリアナの主に検討をつけた。隆臣に利用価値があるとすれば、あの剣を扱える事くらいだからだ。

 客間らしき場所、メイドや衛兵を自由に使える立場にあるという事は、それなりの地位にいるに違いない。隆臣を連れ去ったあの男ではないだろう。実行犯とリリアナの主が同一とは思えない。

 何より、あの男自身にも主がいると言っていた。それがリリアナの主と同一人物なのではないだろうか。

 どちらにせよ、利用されるなら利用し返してやろうと隆臣は考えていた。悪い事が起こりそうなら、その前に先手を打つ。信用するわけではない。いくらリリアナが自分を丁重に扱おうと、それは変わらなかった。

 今は傷があって、剣はない。動けないから仕方なかった。フォークとナイフでは脱出もままならないだろうし、この場所を知らなさすぎる。太腿の傷も深かった。手負いで敵地をうろつくほど、無謀ではない。

 アロは死んだ。ここには、隆臣の味方はいない。

 ただ、今は休息が必要だった。せめて剣が振れる程度には回復しなければ。寝床と、食事と、薬が必要だ。与えてくれるというのなら、利用すればいい。

 リリアナは本当に何も知らないようだ。敵になり得るが、今は違う。必要なものを与えてくれる。それだけの相手だ。はっきりと敵になる前に、この状態から抜け出せばいい。

 食事にも薬にも、用心している。銀の食器は曇っていない。いつも美しく保たれている。それが濁ったときが、分かれ目だ。

 今にも襲いかかろうとしていないか、神経も尖らせているが、何かしようと思っているなら、隆臣が五日も眠っている間にできたはずだ。何かを待っているのなら、やはりその前に逃げ出すしかない。兆候は必ずあるはずだ。いつもと違うことが起きたら、警戒を強めよう。

 延々と続く自問自答は、不安との闘いだった。鎌首をもたげる不安を、一つ一つ潰していくしかない。

 隆臣には分かっていた。ゼクスアルシュは孤獣に厳しい。隆臣の味方はいないのだ。

 唯一味方だったアロも、隆臣が死なせてしまった。あれだけ警戒していたのに、自分が足を引っ張った。そんな思いは二度とごめんだ。どうせなくしてしまうなら、最初から持っていなければいい。


「ようやく分かった」


 食後の紅茶を淹れているらしいリリアナに、隆臣の呟きは届いていないようだ。反応はなかった。

 ゼクスアルシュは、隆臣を歓迎してはくれない。行く場所も、帰る場所もない。孤独だ。

 それでも、生き延びなければならない。死を目前に感じたあのとき、絶望の淵に立たされたあのとき、初めて自分の命を惜しいと感じた。

 生きて、元の世界に帰らなければならない。適当に流されるままの人生でも、心底惜しいと感じたのだ。今度こそ、自分の意志で生きてみせる。

 必ず生きてここから抜け出し、隆臣を召喚した女を探しだす。あの女が敵でも味方でも関係はない。敵だというなら、脅してでも元の世界に帰してもらう。

 思えば、アロは隆臣を裏切らなかったが、結果としてそうだっただけだ。結局闘いは隆臣に任せきりで、利用価値があったから一緒にいただけなのかもしれない。隆臣自身、アロとは利害が一致していた。隆臣はこの世界の事を何も知らなくて、アロの方が知識があった。だから、一緒にいた。離れられなかった。お互いに、利用し合っていたのだ。

 シモンも、袁淑も、最終的にはアロだって、隆臣を利用しようとして、失敗しただけだ。こちらの連中が隆臣を使うというのなら、隆臣だってそうして生きていいはずだ。


「今日の食後のお茶は、ハーブティーでございます。城内の庭で採れた新鮮なハーブを使用してございます」


 リリアナが最小限の音を立てて、隆臣の前にハーブティーを置いた。瑞々しい緑が陶器の中で揺れている。


「ごめん、リリアナ。これはいらない」


 カップのソーサーにはシルバーのティースプーンが添えられていたが、それでも隆臣はハーブティーに口を付けなかった。ハーブと言いながら、毒草ではないのか。茶であれば、毒のせいで苦くとも酸っぱくとも分からない。茶の味だと言われればそれまでだ。隆臣に見抜く能力などありはしないのだから。

 疑心暗鬼は深まるばかりだ。そういう思考に蝕まれるようにして、脳内が黒く染まっていく。


「左様でございますか。代わりに何か飲まれますか?」

「白湯を」

「承知いたしました」


 リリアナはまた困った様子で、ハーブティーを下げ始めた。その顔を見れば、少しの罪悪感も芽生えたが、隆臣はやはり頑として受け入れようとはしなかった。

 ――少しだけ、警戒レベルを上げただけの話ではないか。何が悪い。自分の身は自分で守らなければならない。でないと、アロのようになる。

 そうして見て見ぬふりをしなければ、以前の自分が出てきて、そんな顔をさせたいわけではないのだと、リリアナに弁明しそうだった。そんな間抜けな事は、二度としない。やるならば、リリアナを利用するためだ。実際、それも選択肢の一つに思えた。

 本当に何の事情も知らないらしいリリアナは、隆臣に対していくらか同情的だ。そこに付け入る隙はある。大人しく心優しそうなリリアナに、ここに連れてこられたときの事を語ってやれば、その同情は深まるのではないだろうか。

 ――いや、まだ彼女についての情報も少ない。足元をすくわれる可能性があるなら、こちらからカードを切るなんて馬鹿だ。

 これから隆臣がどうなるのかを知っているのは、彼女の主だけだ。それならば、交渉相手はリリアナではない。彼女の主を相手にするほかない。

 とにかく情報が足りなかった。

 隆臣はどうしてこの世界に召喚されたのか。あの女はどこに行ってしまったのか。ここにいるのか。それなら何故会えないのか。それとも、ここにはいないのか。

 ここへ連れてきた召喚師らしき男は何者なのか。主とは誰の事なのか。敵なのか、味方なのか。

 敵ならば、何故隆臣を生かしておくのか。連れてこられた理由は何か。何故丁重に扱われているのか。何をさせるつもりなのか。

 味方ならば、何故あのような酷い仕打ちをしたのか。死んでもよかったのか。


「白湯でございます。お薬もご用意致しました」


 リリアナがハーブティーの代わりに出した白湯のグラスを握る。厚い器からほんのりと熱が伝わって、溢れ出る疑問を沈めていった。

 一口飲んで、ほっと息をつく。グラスに映る隆臣は、あちらにいた頃とは比べ物にならないほど疲れ果てた様子だった。髪も髭も伸びるまま、頬はこけ、唇は荒れている。ホテルで見た自分と同一人物には思えない。隆臣は自嘲気味に笑った。

 ゼクスアルシュに来る前まで、隆臣は何者でもなかった。何者でもない自分が嫌で、誰かの何かになりたくて、与えられる役割を与えられるままに果たしてきた。それで、やっぱり何者でもなくなった。

 それがこちらに来た途端、はっきりと余所者という役名がついた。こんな屈辱は人生で一度も味わった事がないというほど、いい様に蔑まれ、打ちのめされた。怒鳴り、叫び、怒りで人を退けた。それにはどこか、高揚感があった。うちに滞ったエネルギーを解放する快感があった。あちらでは、温厚で誰とでも付き合える、当たり障りのない男だったのが、まるで人が変わったようだ。いや、むしろ人ではなくなったような気さえした。襲い来る化け物たちを切り捨てる中で、その血を浴び続け、自分も化け物になったような気になった。

 これが本性なのだろうと、隆臣は悟った。本当は化け物みたいに怒って狂っている自分が、それでは生きていけないから、いい人の皮を被っていたに違いない。だから、何者にもなれなかった。その皮は偽物だったから。

 白湯のグラスが空になって、薬のグラスを手に取った。口に含むと、酷く苦くて、隆臣は吐くのを必死で堪えるしかなかった。

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