第五章

第1話

 黒い馬車に乗せられた後の事を、隆臣は覚えていない。

 がたがたと揺れて体が痛むのに何度か起こされては、同じ馬車の天井を見ただけで、自分を連れ去った男の顔もはっきりとは思い出せなかった。

 深い眠りと浅い眠りが交互にきて、その間にどこかへ運び込まれたようだが、風景をつかむこともままならない。気づいたときには、隆臣は豪奢な部屋のベッドに寝かされていた。

 ぼんやりと天蓋を眺めて、慌てて身体を起こす。酷い頭痛が隆臣を襲った。その波が引くのを待って、隆臣は広い部屋を見渡した。

 誰もいない。部屋の中には如何にも豪華な家具や調度品が整然とならんでいる。まだ眩暈のする中、必死で這ってベッドの周囲をあらためる。細工の美しいサイドテーブルに、銀の水差しと洗面器、百合の首飾りが置いてあった。水は透明に澄んでいたが、恐ろしくて飲む気にはなれなかった。

 剣は取り上げられてしまったらしい。これではどうすることもできないと、隆臣は強張る気持ちを抑えて、再度ベッドへと横たわった。

 そこまでやってようやく、隆臣は自分が着替えさせられているのに気が付いた。

 見ると、太腿の傷には丁寧に包帯が巻かれ、小さな傷にも全て手当てがされている。横たわった腕のあたりに冷たい感触があって、取り上げてみると湿った布だった。額に乗せていたのが、起き上がった拍子に落ちたらしい。再び額に当てると、冷えて気持ちがよかった。

 少しの安堵とともにため息が零れ落ちたとき、こんこんと扉を叩く音がして、隆臣は再度飛び起きた。


「------」


 何を言ったのか聞き取れなかったが、とにかく女の声がして、がちゃがちゃと鍵を外すような音がした。重たそうな扉が開かれて、その隙間から入ってきた女は、いわゆる隆臣の知るメイドのような姿をしている。手には食事の乗ったトレイを持っていた。

 隆臣が起き上がっているのに気づくと、また何か言ったようだが、聞きなれない言語で何を言っているのかは分からなかった。

 メイドはベッドとは反対の部屋の隅に設えられた、大きなテーブルにトレイを置いて、ベッドサイドと続いて自身の首元を指さした。首飾りを付けろと言っているのだと分かって、隆臣は震える手でそれを付け直した。


「お目覚めになられたのですね」


 不思議な事に、その瞬間からメイドの言葉が分かるようになった。どうやらこの首飾りは、翻訳機のような役目を果たしていたらしい。これまで出会った人々は皆、隆臣の知らない言語を話していたのかもしれなかった。

 戸惑う隆臣をよそに、メイドはベッドサイドへ寄ると、静かに、そして丁寧にお辞儀をした。


「わたくしは、貴方様のお世話を仰せつかりました、リリアナと申します」


 名乗ったリリアナは、隆臣が飛び起きた反動でベッド下まで落ちてしまった額の布を拾い上げた。静かな視線とぶつかって、隆臣は身を固くした。


「貴方様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「……隆臣」


 逡巡して、偽っても仕方のない事だと判断した隆臣は、素直に名を告げた。

 メイドはそこで初めて微笑むと、いくらか柔らかくなった表情で、隆臣の様子を覗き込んだ。


「タカオミ様、お加減はいかがでございましょう?」


 リリアナの掌が隆臣の額に伸びた。咄嗟に身をすくめて隆臣が逃げると、リリアナも無理に触ろうとはしなかった。手にしていた布をポケットにしまい、サイドテーブルの引き出しから新しい布を取り出すと、洗面器で濡らして隆臣に差し出した。

 隆臣は黙ってそれを受け取った。


「お食事をお持ちしましたが、食べられますか?」


 隆臣は首を横に振る。リリアナはトレイからグラスを取ってくると、それもまた隆臣に差し出した。


「では、お薬だけでも」


 隆臣は再度首を横に振った。化け物をけしかけてくるような男の仲間だ。油断してはならない。それは、隆臣の命を危険にさらす。

 警戒している事はリリアナにもはっきりと伝わったらしい。困ったように首を傾げると、失礼しますと声をかけて、グラスから一口目の前で飲んで見せた。


「ただのお薬でございます。お体に毒となるようなものではございません」


 それでも隆臣は受け取らなかった。リリアナは心底困ったという様子で、グラスをサイドテーブルに置いた。


「それでは、どのようなものならお召し上がり下さいますでしょうか? ミルクやリゾット、果物などもございますが」


 隆臣は答えなかった。何をどのように盛られるのか、自分では分からないからだ。


「タカオミ様は五日ほど眠っておりました。その間、わたくしは主の仰せで看病させて頂きました。どうにかするつもりでしたら、とうにしております」


 主とは、あの男の事だろうか。どうにかするつもりがないと言うのなら、剣はどこへやったのか。


「……剣は?」

「申し訳ございません。危ないからと、スティロー様がお持ちに」


 スティローとは誰の事だろう。分からない事だらけだった。それは、リリアナの方も同じようだった。


「タカオミ様の事は、主の大切なお客様とだけ伺っております。剣をお預かりしたのは、病床のタカオミ様に剣を振らせるわけにはいかないとの仰せで、お部屋に鍵をかけさせて頂いておりますのも、同じ理由と伺っているだけでございます。どうか少しだけ、わたくしを信用してはくださいませんか?」


 困り果てたその様子に、隆臣も少しだけ冷静さを取り戻す事ができた。


「……水。銀のグラスに入れてくれ」


 それでも、ようやく口に出せたのはそれだけだった。シルバーの水差しを見て、その食器の意味を思い出したのだ。


「お水ですね。承知いたしました。すぐに湯冷ましをお持ちいたします」


 リリアナは背筋を伸ばして返事をし、いそいそと部屋を出ていった。




 一度横になって待っていると、リリアナは新しい水差しと銀のグラス、小さな器をトレイに乗せて戻ってきた。

 身体はかなり渇いていたらしく、湯冷ましを三杯飲み干すと、隆臣は器の中を除いた。湯気が顔に当たり、食欲をそそるコンソメのような香りがする。


「これは?」

「野菜と鶏肉をよく煮詰めてこしたスープでございます。少しでも栄養がとれるかと存じまして、よろしければこちらでお召し上がりくださいませ」


 リリアナはそう説明して、シルバーのスプーンを差し出した。隆臣はそれを受け取って、リリアナを見返す。


「……ありがとう」


 リリアナの表情が、これまでになく柔らかくなった気がした。


「お身体がよくなりましたら、主から現状についてのお話をさせて頂きます。今はお身体を良くする事だけをお考え下さいませ」


 リリアナは隆臣が食べ終わるのを待って、そう言い残すとまた退室していった。

 腹が満たされると、また急激に眠気が襲ってくる。体力はまだ回復していないようだった。傷も痛む。隆臣はゆっくりと身体を横たわらせ、再び深い眠りについた。

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