第3話
明朝、バルトサールは留守居の部隊をオルティーグ山の要塞に残し、全軍の七割を高原攻略軍として編成。自らはそれを率いて、進発した。
ビラー軍から余計な不信を買わぬよう、出立は異常なほどに兵を急がせた。
その代わりに、行軍は歩兵の足並みに任せるまま、ゆっくりと。
精鋭揃いの兵たちも、気が進まない戦への歩調には、まるで覇気がない。
しかし、バルトサールは敢えて、士気を上げるような事はしなかった。
最初の標的は、ジッリョ領側における最北の都市ルジアンナである。
この緩やかな進軍の間に、少しでも多くの民が避難してくれる事を、バルトサールは願っていた。
このままルジアンナを包囲してしまえば、戦火は必ずや罪のない市民にも振りかかろう。
それは辺境騎士団にとって、極力避けたい事態である。
アーシア高原の七都市は、ビラー領とジッリョ領でも特別な自由交易区域となっている。
山々に囲まれた都市群は整備された街道で繋がれ、お互いの生活を支えあっていた。
街道沿いに関所はなく、盗賊避けの衛所が転々としているだけである。
それらも、今は各都市の防衛のためか、衛士らは出払っているようであった。
いくら牛のように足並みを緩くしたところで、よく整備された妨害のない街道をこのまま行けば、攻略軍は二日と経たずルジアンナの包囲を完了してしまうだろう。
バルトサールの期待も虚しく、未だ一般市民が避難した様子はない。
それどころか、偵察部隊の報告によれば、市民らは避難勧告が出されているのかさえ怪しいような、普段通りの生活を送っているという。
まるで逃げる気配がないのだ。
「足元を見られておるな」
馬に揺られるバルトサールのため息は深い。
相手方は、バルトサールら国境騎士団の立場からくる、民への同情を利用するつもりなのだ。
バルトサールの後方で、アドルフは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「民を盾にするとは、なんと卑劣な……」
「このやり口は、騎士団のものではなかろう。ジッリョには、自警団と傭兵ギルドがあったな。そのどちらかが、我らの相手だ」
「民を守る自警団が、このような手をとりましょうか?」
「彼らも一市民である事を鑑みれば、一般市民への協力も得やすいだろう。民による民のための、というやつよ。まだ決まったわけではないが、傭兵などより確率は高い。どちらにせよ、正規の騎士団を相手にするより厄介ではある」
「カテリーナ様が交渉を引き延ばしていたのは、このためでしょうか?」
「全てがこのためとは限らぬが、目的の一つではあったろうな。いずれにせよ、ジッリョを守る三つの盾は、こちらの即席連合軍などより、よほど上手く連携をとっておる。非正規軍と甘く見ておると、足元をすくわれよう」
「すでに足元を見られておりますからな」
アドルフはこうして軽口を叩いているが、バルトサールには笑えない冗談であった。
オルティーグ山を後にしてから、どこか薄ら寒いものを感じているのだ。
思考に靄をかけられているような、拭いきれない違和感。
その正体が分かるまでは、口にするわけにもいかない。
判然としないまま、部下たちの不安を煽るようなまねはできなかった。
「ともかく、このままというわけにもいきますまい。いかが致しましょう」
「使者をたてよ。市民らを避難させるだけの猶予を与えると、市長へ伝えるのだ。期限は、二日後の包囲完了まで。それ以上は待てぬ」
二日後、連合軍はなんの障害もなく、ルジアンナに到着。
要塞出立から三日と経たず、その包囲を完了させた。
北門にはバルトサールの本隊が構え、西門はアドルフに任せた。
東門、南門は、ヴァルコイネンの軍が控えている。
民は依然として市内に留まったまま、避難を開始する気配もない。
閉じられた門扉や壁外の連合軍を尻目に、普段通りの生活を送っているというのが、偵察隊からの報告であった。
「なんとも肝の据わった民である事よ。いかにフロストが隣接する領地であろうと、この落ち着きようは異様ではないか」
バルトサールの違和感は、いよいよ警告に近いものとなりつつあったが、その正体は知れぬままである。
夜の帳が下りて、一日が終わろうとしていた。
使者は、いまだ戻らずにいる。
さらに催促の使者を出したが、しばし待てと門前払いされるだけであった。
自軍本隊を一望できる小高い丘で、バルトサールは使者の帰りを願った。
野営地の灯が、夜空の星を鏡で映したかのように瞬いている。
バルトサールの傍らには、シェルが控えていた。
「使者殿は、苦戦しておられるのでしょうか?」
「やもしれぬ。あるいは……」
バルトサールは、最悪の場合を考えていた。
使者を害すは、どの軍においても法度である。
正規軍でなくとも、その事に変わりはない。
そもそもジッリョ領主カテリーナに知られれば、いくら戦に勝とうとも、後の処分は免れまい。
これまで一切の内情を悟らせず、偵察も阻止してきたような用心深い相手が、そのような手を取るはずもない。
分かってはいるが、これほどに帰還が遅くなると、万が一にもないとは言い切れなかった。
「何にせよ、返事を待つしかあるまい」
とにかくバルトサールにできる事は、あらゆる場合を想定して、これに備える事だけである。
兵士たちが囲む無数の焚火が揺らめいて、バルトサールの思考を静かに支えた。
シェルもただ同じように灯りを眺めている。
しばらくそうしていると、遠くから馬蹄の音が近づいてきた。
バルトサールとシェルは腰の剣に手を添えて、音が来る方へと神経を尖らせる。
やがて暗がりから現れたのは、味方の伝令兵であった。
馬上から飛び降りた彼は、その勢いを殺せず、ほとんど転がるようにしてバルトサールの前に跪いた。
「何事ですか?」
シェルは、バルトサールを庇うようにして進み出た。
「申し上げます! 東門にて、ヴァルコイネン軍の将校が多数死傷!」
静かな夜を引き裂いて、戦慄が走った。
ついに、敵の攻撃が始まったのだ。
いや、すでに始まっていた。
恐らくは、連合軍がアーシア高原に足を踏み入れた、その時から。
「何があった」
反省なら後でもできる。とにかく、状況把握が優先であった。
「闇討ちにございます。詳しい事は、まだ何も……。東門も状況整理をしながら、伝令を飛ばした模様です。閣下におかれましては、急ぎ天幕へお戻りくださいませ」
バルトサールは頷き、愛馬に飛び乗った。
まさか自警団がこのような策に出るとは、思いもしなかった。
正規軍でない事を看破しながら、甘く見ていたバルトサールの失態であった。
悠長に降伏を待っている場合ではなかったのだ。
後ろからはシェルと、駆け付けたばかりの伝令兵が、やはり馬を急かして追ってきていたが、バルトサールの馬には到底追い付けずにいるようだった。
彼らを気遣う余裕はない。
駆け足になるのを、自重する事はできなかった。
ヴィートを出陣した折から、悪い予感はしていたのだ。
そういう時ほど、感というものはよく当たる。
心の片隅へと追いやった、もやもやとした不安は、いまやバルトサールの目前まで来ていた。
煩いほどの警鐘が、脳内を侵している。
まずは状況把握が先決である。
ルジアンナによる襲撃である事は間違いない。
それも部隊による夜襲というよりは、同時多発的な暗殺である。
おそらく、目的は指揮系統の混乱だろう。
痛い所を突かれた。
将校の欠員は、連合軍にとって大きな損失である。
遠征中の彼らにとって、将校の補充は一般兵のそれに比べて容易ではない。
ヴィートとヴァルコイネンの間で使い回しが効かず、領地から呼び寄せるわけにもいかないからだ。
そこまで考えたところで、バルトサールはふと視界が傾くのを感じた。
背中に激痛が走った。
「父上!」
シェルの叫びを聞いた
。振り向きながら、視界に捕らえた敵の姿を確認する。
先ほどの伝令兵であったが、それは今にも、人の形から大きな鳥の姿に変わろうとしていた。
半獣である。このまま空を駆けて、逃げ切るつもりなのだろう。
不覚をとったが、ただでは倒れまい。
バルトサールは馬をぐっと寄せ、剣を抜きざま、すでに梟となった刺客の翼を深々と貫いた。
ほとんど反射といってよい。
目にもとまらぬ早業で、とても怪我を負っているとは思えぬほどであった。
それは正確に翼の付け根を捕らえて、これ以上羽ばたくのを阻止している。
梟を仕留めると、今度は急に力を入れる事ができなくなってしまった。
もはや体を支える事もできず、バルトサールはそのまま地に落ちた。
駆け寄ったシェルは倒れ行く養父を抱き留め、背に負った傷をその手で押さえた。
傷は掌で隠せるほどの小さなものだったが、そこから溢れる血はとても抑えきる事ができなかった。
次から次へと、流れ落ちていく。
夜の暗さで黒く見える血液が、指の隙間から漏れるたび、シェルはひどく震えた。
傷を負ったのは自分ではないのに、呼吸がしづらく、悪寒までする。
シェルは自らの服を引き裂き、傷口に押し当てる。
また別に裂いた布で、それを固定した。
バルトサールの眼は、あらぬ方を向いている。
今にも意識を失いそうだ。
「お気を確かに! 人を呼んで参ります」
とても動かせる状態ではない。
シェルは傷口が地に触れぬよう、バルトサールを慎重に横たえた。
養父を労わるゆっくりとした動作を終えると、逸る気持ちで立ち上がった。
一刻も早く、軍医を連れてこなければ。
ところが、シェルは立ち上がったきり、最初の一歩を踏み出せなかった。
バルトサールが、彼の足首を掴んだのだ。
弱っているとは思えぬほど、その手は力強かった。
シェルは再び膝をついたが、気持ちは焦るばかりだった。
「父上、お放しくださいませ。急いで軍医を連れてまいりますゆえ」
「待て、ゆくな」
バルトサールの声は、常時とは比べ物にならぬほど力なく、ともすればこの闇夜の静寂の中でさえも聞き逃してしまいそうだった。
シェルには、とても聞いていられなかった。
「そればかりは聞けませぬ。父上、どうか行かせてください。手遅れになる前に……」
「……もう、間に合わぬ。死に目に会えねば、そなたは後悔するだろう」
「お救いできなければ、尚一層後悔いたします」
これほどまでに、シェルが養父に従わなかったのは、これが初めての事であった。
それだけ、養父を救おうという思いが強かったという事だが、バルトサールにはこの問答の時間さえも惜しい。
己の状態は、己が一番よく分かっている。
いくらシェルが走ったところで、軍医は間に合わないだろう。
「ならば、この父を担いでゆくか」
これには、強情を通してきたシェルも押し黙るしかない。
重傷を負ったバルトサールを無理に動かせば、死を早めてしまう。
是とも否とも、答えられなかった。
「よく聞くのだ、シェル。例え私が治るとして、このまま意識を失う事に変わりはない。開戦までに目覚める事も難しかろう。ならば、今ここで、そなたに後の事を頼むほか、手立てはあるまい」
今度は、シェルも頷いた。
ぐっと唇を結んで、今にも飛び出していきたいのをなんとか堪えた。
「では……、今後の指揮はアドルフに任せる。まずは先の報告が真か否か、急ぎ確かめるのだ。真であれば、ただちにオルティーグ山まで退け。報告が虚言であれば、このまま包囲を続けよ。しかし、油断してはならぬ。我らは敵を自警団と踏んでいたが、このやり口、傭兵団との混成部隊であろう。いや、むしろ指揮官は傭兵と見える。やつらは、過程を顧みぬ……」
バルトサールは、ゆっくりと瞼を下した。
まだ伝えねばならない事もあったが、もはや語るだけの気力がない。
最も油断していたのは、己である。
民を相手と見て、侮っていた。
これは、その報いである。
公正なジッリョ領主が戦に民を用いるのは、それだけ勝つ事に意味のある戦だという事だ。
それを分からぬアドルフではない。
ならば、不安の種は確実に取り除かねば、連合軍として戦う事はできないだろう。
後の事は、アドルフを信じるしかなかった。
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