第2話

 事態が変じたのは、明朝の事であった。ビラー軍からの早馬が、急報を知らせたのである。


「ジッリョとの交渉は決裂! 急ぎご出陣を!」


 馬一頭を潰して駆けてきた使者は、バルトサールの返答も聞かぬまま、新たな馬に飛び乗り、早々に下山していった。高原の三都市へも、同様の情報を伝えにいくのだろう。


「あの使者の慌てよう、ビラー本隊も相当荒れておるのでしょうな。よもや、反故にされるとは、思っていなかったのでは?」

「馬鹿な。やつら、阿呆の集まりか。あの女傑がなんの意もなく、返答を先延ばしにするはずがあるまい。あの優柔不断が時間稼ぎである事は、火を見るより明らかであろう」


 ジッリョ領主カテリーナは、厳格で思慮深く、文武に優れた統治者であった。何においても不正を嫌い、何人を前にしてもその精神は不屈である。故に、彼女の審判は権力にも金にも左右されず平等であるとして、領内外に多くの支持者を得ていた。

 辺境の地においてもそのように噂される人物が、曖昧な態度で返答をはぐらかし続けていたのだ。当然、何か裏があると考えるべきである。


「ともかく、沙汰が下りたならば、応じぬわけにもいかぬ。急ぎ進軍の準備を整えよ!」


 伝令兵が走り去り、暫くの後、天幕の外は騒然とし始めた。甲冑が鳴り、馬が嘶く。戦支度が始まったのだ。


「いよいよでございますな。本当のところは、もう少し情報を集めておきたかったのですが」

「始まってしまったものは、仕方あるまい。情報戦に関しては、あちらが上手であった。今、我らにできる事は他にある。お主も一度自分の天幕へ戻り、支度を始めよ。私も、そうする」


 敬礼して応じるアドルフを残し、バルトサールは自身の天幕へ戻った。天幕の傍らでは、すでに愛馬の装備が整えられている。幕の内側では、従騎士エスクワイアのまとめ役であるシェルが甲冑の準備をして待っていた。

 シルバーグレイの装備一式は美しく磨かれた状態で並べられ、あとはこれを身に着けるのみである。シェルはバルトサールの姿を認めると、たった一言断りを入れて、早速装着に取り掛かった。

 シェルが次々に武具を取り付けていくのを眺めながら、バルトサールはどこか感慨深く、奇妙な親心のようなものを感じていた。

 シェルを騎士見習いとして預かってから、もう十年になる。実際のところ、ほとんど血の繋がりもない遠戚の子であったが、さすがに十年間もその成長を見守っていれば、ごく自然に愛情も湧いた。

 バルトサールには神転する以前から連れ添う妻がいるが、子宝には恵まれなかった。その事もあってか、妻の母性は惜しげもなくシェルへと注がれている。シェルも、それを受け入れていた。アドルフはそんな二人を本当の親子のようだと驚くが、ルンド家にとっては当然の事であった。シェルの人生で言えば、すでにその半分以上を、実の両親ではなく、ルンド夫妻と共に過ごしているのだから。

 シェルは並べられた装備類とバルトサールの間を、忙しなく往復している。十年前には鎧を運ぶにも一苦労で、重みに振り回され、ふらついていた。それが、今では危なげもなく、扱う様子も手馴れている。体格は申し分なく、頭も良い。日々の鍛錬を怠らず、バルトサールの教えにも従順であった、その成果である。

 アンファベールにおける男子の成人年齢は、十七と定められている。シェルも次の誕生日には、その年を迎える。バルトサールはこれを機に、シェルを正式な騎士として叙任するつもりであった。

 手放すのは惜しいが、将来有望な部下の成長を妨げる理由にはならない。最近では、優秀な若者を早々に昇進させ、自身の引退を正当化する口実としようなどと考えていた。

 思考はあらゆる方向へと転じていったが、ここに来てバルトサールの脳は、思わぬところへと回路を繋げた。ジッリョにも、シェルと同じ年頃の若者がいる。

 考えるまでもない、当然の事だった。しかし、そのうちの何名が兵士として戦列に加わっているのか。自分はいったい、どれほどの前途ある若者の首で、刃を濡らさねばならないのか。

 仕方のない事だというのは、よく分かっていた。これは、内戦である。正規兵であろうと、自警団であろうと、新米であろうと、古参であろうと、つい先日まで守るべき対象であった自国民に手をかけるという事実は変わらない。不毛であると分かっていて、それでもバルトサールは考えずにいられなかった。

 せめて武器を持たぬ者だけでも、逃がす事はできないか。それさえもできないで、どうして騎士を名乗れよう。自分たちの本来の任務は、民を守る事であったはずだ。いったいどうして、このような事態に陥ってしまったのか。どこで、間違えたのか。

 黙している時、任務についてあれこれと、要らぬ事を考えるのは、つい最近になってから身についてしまった癖だ。老いたのだと思う。不老となり、半永久的に生きられる肉体を持ったとしても、心まではそうもいかぬ。若かりし頃は、与えられた命を正義と盲信し、遂行する事ができた。それで良いのかと問われれば、そうとも言えぬが、善し悪しに関わらず、楽でいられたのは明白であった。


「閣下、御支度が整いましてございます」


 シェルの一声が、バルトサールを思考の深海から引き上げた。浮上する意識と対比して、身体は現実的な鋼の重みを感じ始める。全ての装備が然るべき位置に据えられ、緊張感を伴ってバルトサールの心身を覆っているのだ。


「早かったな」

「お仕えして十年ともなりますれば、お考えになる事も少しは分かるものです」


 シェルの微笑みに、苦いものが混じっている。バルトサールの僅かな表情の変化を察しての事だった。自身への視線と、ほんの一時遠くへやった憂いを含む視線、そういうものから人の気持ちを悟る。

 シェルは昔から察しの良い子どもで、父母と慕うルンド夫妻の事ともなれば、それはよく勘が働いた。バルトサールの思考が悪い方へ向かった時、控えている従騎士エスクワイアのうち、声をかけるのは決まってシェルなのである。


「お主をアドルフのもとへやるのが惜しいな」

「閣下、ありがたいお言葉ではございますが、その仰りようは、まるで娘を嫁にやる父親のようでございます」

「似たようなものよ」

「お側を離れる事にはなりますが、私が辺境騎士団の一員である事に、変わりはございませぬ」


 叙任後、シェルはアドルフの指揮する舞台に配属され、騎士団の寄宿舎へと転居する。

 副官アドルフ直属部隊ともなれば、辺境騎士団の中でも花形である。アドルフ自身の人柄もあり、入隊を希望する者も多い。しかし、その反面で脱落者も多かった。アドルフ隊独特の訓練に耐え切れないのだ。

 アドルフは部下を労う男だが、決して甘やかしはしない。その違いをよく理解し、鍛錬ではむしろ厳格ですらあった。大事なのは、戦場で部下を犬死させない事で、そのための指導は過酷を極めた。

 故に、バルトサールも新兵の編成には、大いに頭を悩ませた。辺境騎士に選ばれる若者は、いずれも優秀な事に変わりないが、アドルフの調練に耐えうるかは、また別の話である。

 シェルのアドルフ部隊配属は、バルトサールにとって獅子が我が子を千尋の谷に落とすようなものだった。妻は、この人事に否やを唱え続けていたし、バルトサール自身も限界までその決着を繰延べていた。辺境騎士団でなくとも、出世の道はいくらでもあるのだ。

 それでも最終的に決断を下したのは、シェルの実力を認めての事であった。バルトサールとて、彼を我が子のように思っていたとしても、ぬくぬくと育ててきたつもりはない。


「後任のまとめ役には、エッボを推薦させて頂きたいのですが、如何でしょうか。幼い者たちをよくまとめております。仕事にも調練にも真面目で、努力によって実を結ぶだけの才もございます。閣下のお手を煩わせるような事はないかと」


 エッボは、シェルより二つ年下の少年である。努力家で、訓練も勉学も怠らない。従騎士エスクワイアとなって日は浅いが、ルンド家に仕える少年たちの中では、一目置かれている様子であった。バルトサールも、彼の勤勉さを高く評価している。シェルの後任として、申し分ない成長を遂げるだろう。

別れの時は近い。その時まで、せめてシェルが厳しい訓練の日々に耐え、生き抜いていかれるよう、万全を尽くそう。

 シェルが両手で掲げ持った剣を差し出した。バルトサールは、自らの手で腰に佩く。


「シェル、ついて参れ。出陣である」

「仰せのままに」


 シェルによって持ち上げられた天幕を潜る。

 バルトサールは、望まぬ戦へ向けて大きく一歩を踏み出した。

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