第四章
第1話
ビラーとジッリョの領境は、フロストから続く高山岳地帯を目安に引かれている。連なる山々の頂点を結び、境としているのだ。越境には峠を越えるルートが整備されているが、中でもベルナード峠を越えるのが最も一般的な方法であった。
ビラー軍はこれを占拠し、峠道には関を設けて、人の往来を制限していた。人が通わぬという事は、物資の流通も途絶えるという事である。戦の前準備は、抜かりない様子であった。
またその間、ジッリョへ講和の使者を送る事も絶やさなかった。自分たちが如何に正当であるかを語り、ジッリョ領がこれに随う事の必然性を根気よく説き続ける。これに対するジッリョ領主カテリーナ・ランドリアーニは、領の命運を分ける重大な事案であるため、返答には相応の時間がかかると言い分けて、のらりくらりと躱していた。
一方で、北方領地制圧の任を果たしたビラー軍一万は一旦領城へ帰還。その後、ヴィートとヴァルコイネンの連合部隊を手土産に、南方領地制圧の援軍として進発した。当然の事、ジッリョ領境にもその一部が合流し、当初三千ばかりであった軍勢は、この一か月のうちに一万八千へと膨れ上がっている。
ただし、そのうちの一万はベルナード峠に砦を構えたビラー軍との合流を避け、峠から東に二つほど山を超えた先にあるアーシア高原に布陣していた。手土産として北方から派兵された、ヴィートとヴァルコイネンの連合部隊である。
ジッリョ領境制圧の総指揮を務めるヤロスラフは大層憤慨した様子で、連合部隊総指揮官バルトサール・アウグスト・ルンドへ説明のための出頭を求めた。対するバルトサールの返答は、こうである。
「北の領地には、山が少ない。領内の九割が平地であり、山といえば、国境の遥か彼方に、スターリ帝国の霊峰エールブラス山を望むばかりである。故に山地での演習経験も乏しく、不慣れな土地での戦闘は兵らの負担になるばかり。標高が少しばかり高くなってしまうのは気になるところだが、体に負荷を加えた訓練ならば行っている。平地でさえあれば、皆の不安も和らごう」
暗に、お前たちは背後に自領が控えているから気楽だろうが、こちらはわざわざ遠くから応じてやっているのだから、少しくらいの自由は許せというのである。これをヤロスラフが正しく理解できたのかは定かでない。
ただしバルトサールの言の全てが、ビラーに対する嫌味というわけではなかった。実際のところ、北方連合部隊における兵たちの士気は低い。ビラーとヴィートの二領に挟まれ、ほとんど無条件に降伏せざるを得なかったヴァルコイネンの兵らは元より、ヴィート兵にも戦に対する闘志は見られなかった。内紛に巻き込まれたという意識が、その根底にあるのだ。
また、ヴィート軍は遠征に不慣れであった。というのも、ヤロスラフが援軍として求めたのは、バルトサール率いる辺境騎士団の精鋭であり、彼らの本来の任務は隣国スターリ帝国との国境警備にある。
攻めの戦を苦手とするわけではない。むしろ防衛の最前線に立つ精鋭として、全国から招集された彼らは、並の騎士団より遥かに高い戦果を上げる事だろう。しかし、彼らの騎士としての誇りは、そこに重点をおいてはいない。勇猛なる騎士としての誇りの上に、さらに高く積まれた辺境騎士団としての誇りがあるのだ。それを彼らに与えたのは、他でもないバルトサール自身であったため、その不満もよく理解できた。というよりも、自分の正直な心情は、部下たちと同じなのである。
それでも、忠誠を誓ったヴィート辺境伯に命じられれば、出撃せざるをえない。辺境伯においても、ビラーからの要請は迷惑千万であり、ほとほと困ったという様子であったために、尚更異議を唱える事は憚られた。
野営の天幕から外を覗けば、防備を固めるため土を掘ったり、柵を立てたりと、鎧姿で作業する部下たちがいる。遠くの丘に見える砂煙は、調練によるものだろう。ヴィートとヴァルコイネンの部隊で分かれ、模擬戦をすると報告があった。ヴァルコイネンの兵とも、よく連携できている。
「皆、よく働いてくれている」
「貴方や伯の葛藤を知っているからです」
バルトサールの呟きに応じたのは、傍に控えていたアドルフであった。彼には、長く副団長を任せている。バルトサールにとって、腹心の部下と言ってよかった。
誠実で、人の心に寄り添うのが上手い。また、実力も申し分がなかった。辺境騎士団の中でも、剣の腕は群を抜いており、率兵も十分に熟してくれる。ビラー領の農家で生まれ、なんの後ろ盾もなかったために、一兵卒に甘んじていたところを、バルトサール自ら引き抜いた。それが、とんでもない掘り出し物だったというわけだ。
実力主義の辺境騎士団において、家柄の良し悪しは取るに足らない問題であり、アドルフはすぐにその頭角を現した。実力は誰もが認めるところであり、人好きのする性格も相まって、部下からの信頼も厚い。
今回の遠征において、辺境伯や騎士団長であるバルトサールは、あまり多くを明言できない立場にある。その意を汲んで、部下たちを説いて回ってくれているのは、アドルフであった。
「お前にも、苦労をかける」
「お二人に比べれば、私の苦労など」
「ままならぬものだな」
「ジッリョの皆様におかれましては、私がわざわざ語らずとも、団長の御心をよくご理解頂いているようですが」
「話が早くて助かる。鈍感なのは、ヤロスラフだけというわけか」
アーシア高原には、その面積を等分するように領境が引かれており、北側のビラー領に三つ、南側のジッリョ領に四つの都市が存在する。ジッリョ側は領境さえ、守る事ができればよい。攻めなければならないのは、バルトサールら連合部隊であった。当然、高原を制圧するには、ジッリョ側に属する四つの都市を奪取する必要がある。これには、少なからず時間がかかるものと、バルトサールは踏んでいた。
現在、連合部隊は高原内の要地である、オルティーグ山を占拠している。ビラーとジッリョの交渉が決裂し、攻勢に出なければならないとすれば、当然連合部隊はこの山を下りなければならない。オルティーグ山からアーシア高原への往来は容易なため、山頂に拠点を残し補給の要としながら、本隊をさらに分割して、各都市の制圧にかかるというのが定石である。しかし、短期間で全都市を占拠するには、そもそもの戦力が足りなかった。そうなると、山頂の残留兵を除いた戦力で、一つ一つの都市を攻めて周る他ない。
さらに連合部隊にはビラー軍本隊からの援助以外に補給がなく、ビラー領に属する高原の三都市からは直接の兵站を期待できなかった。アーシア高原に布陣を決めた折、遠征に疲れた兵を休ませるため、援助を求める使者を送ったが、尽く突き返されたのである。開戦後の後方支援を得られる見込みもなかった。補給のためには、どうしてもオルティーグ山に戻るしか方法がない。
また侵攻するという事は、それだけ深くジッリョ領内へ入るという事である。進軍は速やかに済ませたいところだが、如何せん地の利がない。偵察部隊を下調べにやっているが、都度ジッリョ軍に補足され、思うような情報は得られないでいた。故に、領境より南は連合軍にとって、殆ど未知の領域と言える。進む足も遅くなるだろう。
加えてジッリョ側の各都市が静かな事も、バルトサールには気がかりであった。寡兵という報告を受けてはいるが、それにしても異様な静寂である。領境に最も近い都市ルジアンナの防壁には見張りの兵が散見されるが、戦前独特の熱気のようなものが、まるでない。空騎兵をやって上空から様子を探らせたが、市内では民が退避した気配もなく、日常の賑わいがあるという。
バルトサールはこれらの状況を全て理解した上で、オルティーグ山に拠っていた。ほんの僅かな時間稼ぎである。この僅かな間に、どうにか事態が好転しないものかと、期待しての事であった。他力本願にも程があるが、どうやら先方も付き合ってくれるつもりらしい。
「このまま鈍感でいてくれると良いのですが」
「そうもいくまい。ビラーの役人がジッリョとの交渉に失敗したなら、我らも彼の地を堕としにかからねばならぬ」
「報告によれば、ジッリョ側の四都市に篭っているのは、ジッリョの正規兵ではなく、自警団という話ですが」
「国民を守るために剣をとったはずの我らが、よもやその国民に刃を向けることになろうとは……」
バルトサールは再び外に視線をやり、ジッリョ領のある南の空を見据えた。防衛線を張る四都市のうち最奥のエルネゴには、自警団の多くが詰めている。その総指揮を務めるのは、バルトサールの半分にも満たない歳の若者だと聞いていた。ゼクスアルシュの公人は、役に就くと神転して不老となる。当然、バルトサールも随分昔に神位を得て人神となったため、その半分も生きれば十分に歳を重ねている事にはなるが、相対する若者は只人である。正真正銘、紛れもない若者であった。
「私ももう少し若ければ、心に従い道を決める事ができたであろうか」
「さて、それはどうでしょう」
アドルフの言わんとしている事は、バルトサールにも分かっていた。人が何かを決断する時、その要因は決して一つとは限らない。ジッリョには領主を含む三人の統治者がいて、そのうちの一人が件の若者というだけなのだ。彼だけが最近になって代替わりをしたらしく、他二名はもう長い間その地位を守っている。若さが優って下した決断とは、到底思えなかった。
「我々にはない判断材料が、彼らにはあったというわけか。それも可笑しな話だな。一応の味方である我らに見えぬものが、彼らには見えているというのだから」
「私たちが得られた情報といえば、総大将がリーリエ領の御子息である事と、未だお姿の見えぬ選定侯は病弱で、人前にお立ちになられぬという事くらいですからね。余程、諜報に優れた者がいるのでしょう。ジッリョには、はぐれのみで構成された傭兵ギルドもあると聞きますから」
「それだけが原因とも思えぬが」
あちらが特別優秀なのか、はたまたこちらが異常に疎いのか、怪しいところであった。
もともとヴィート領は辺境なだけあって、国内事情に明るくない。彼らの目は常に外部へと向けられていた。確かに、それが仕事だったのだが、あまりに頓着がなさ過ぎたのだ。
ビラー軍と合流したところで、大した情報も得られていない。こうして求められるままに進軍してきて、渦中にあるはずなのに、どこか蚊帳の外という気さえしている。
「せめて、新王陛下のご尊顔さえ拝められたなら、兵たちの士気も上がりましょうに」
アドルフがぼやくのも、無理はなかった。
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