第10話
隆臣は一度剣を地面に着いて、身体を支えた。息が上がっている。喉が、焼けるように熱い。気管支を、直接鑢で削られたような痛みがある。限界が、近づいていた。旅の間に、剣の動きには慣れつつあった。それでもなお、隆臣にはもう剣を振り回す事しかできない。
太腿も、酷く痛む。蛇剣による傷が、思った以上に深かった。その痛みが、隆臣の体力を削ったのだ。膝から下は、茫としていて感覚がない。
路地には、まだ最後の一頭が残っている。明らかに、それが群の長だった。隆臣が倒した他の獣より体格がよく、頭も切れる。仲間に吠えて、命令を下しているようにも見えた。本能に任せて襲っているのではない。れっきとした目的がある。そういう素振りがあった。
獣は皆、急所を狙っては来なかった。それが隆臣の付け入る隙である。きっと、この一頭もそうに違いない。
相手が身を低くした。未だ両者の間で獣の下敷きになっている桂桂には、見向きもしない。他の獣もそうだった。覆い被さった仲間の血が、桂桂の臭いをかき消しているのかもしれない。桂桂自身も黙ったままでいるので、気付かれようもなかった。
隆臣も、再び剣を構えた。腕が震えている。剣先を獣に向けるが、定まらなかった。
身を低く保ったまま、獣が突進してきた。隆臣の一歩手前で鎌首をもたげ、高く跳躍する。隆臣は、剣を突き出した。
剣は尻尾の付け根を狙っていた。そのまま切り落とすつもりだろう。尻尾が唯一、この魔獣の急所なのだ。剣の動きで、隆臣もそれを知った。
狙いは、外れた。剣は腹を切り裂き、獣が痛みに身を捩った事で、尻尾へと到達する前にその身から離れた。擦れ違う瞬間、身を屈めた隆臣の肩を、獣の爪が傷つけた。痛みで剣を落としそうになる。必死に堪えた。
もんどり打って倒れた魔獣に追い打ちをかけるべく、隆臣は素早く振り返る。剣を握り直す。振り上げて、今度こそ尻尾を切り落とすため、狙いを定めた。魔獣は立ち上がろうとして、それができずに前脚を折る。首を隆臣に向けて、空気を裂くような威嚇の音を吐き出した。
体重をかけ、尾を断ち切った。太い蛇の尾が胴から離れ、勢いよく血が噴き出す。立ち上がろうとしていた身体が倒れ、首も地面へ投げ出された。隆臣の顔に、生暖かい雫が跳ねる。
隆臣はふらつく身体を壁で支え、桂桂のもとに戻った。
「お兄ちゃん、どうして……?」
何に対する問いなのか、隆臣には分からなかった。考える気にもならない。もう、どうでもよかった。
裸のままだった剣を鞘に納め、地に膝をつく。額から垂れる血が邪魔だった。袖で拭って、桂桂に伸し掛る魔獣の死体を転がした。
「逃げろ、桂桂。まだ、いるかもしれない」
嘘だった。きっともう、街に獣はいない。隆臣を狙ってきたのだ。応戦した時点で、全ての獣が集まって、それを隆臣自身が斬った。群の長も、息絶えた。全滅のはずだ。
「桂真は、置いていくんだ」
「そんな事、できない」
桂桂の怒りは、すでに萎えているようだった。それでも、お互い前のようにはできなかった。
「駄目だ。先に逃げて、後から沈刹たちと戻ってくればいい」
「……分かった」
「さあ、行って。早く」
小さな背中は、時々隆臣を振り返りながら、徐々に離れていった。
桂桂の姿が見えなくなって、隆臣は漸く力を抜く。身体を立てている事ができない。血で汚れた地面に、構わず身を横たえた。もう動く事はできなかった。指の先まで、麻痺している。呼吸さえも辛く苦しい。酸素が足りないと感じるのに、息をする度に喉から高い音が漏れて、酷い痛みに耐えなければならなかった。
建物の影に切り取られた空が、紅く染まっている。鳥の群が、地上の惨劇を嘲笑うかのように通り過ぎていった。建物の中に、灯りが点き始めた。じきに、暗くなる。
隆臣の左には、アロの逃げ込んだあの横道がある。視界の端に映る血溜まりに、隆臣は漸く目を向けた。背けていては、いけないものだ。柔らかな羽毛が所々に散乱し、凝固しかけた血液に絡め取られている。肉を剥がされた脚が、無残に放置されていた。
見ていられなくなって、視線を外しかけた時、赤黒い場所から白く光る物を見つけた。鉤爪だった。殆ど血で汚れている。白さの残った部分が、建物から漏れ出る灯りを、僅かに反射したのだ。
とうに限界を迎えた手足を叱咤し、這って鉤爪を拾い上げた。掌に転がした爪は、思ったより小さかった。握り締めても、全て隠れる。それでも鋭く尖っていて、しっかりと肉に食い込んだ。
隆臣はそのまま地面に突っ伏して、目を閉じた。
辛い事ばかりだ。嫌いだ。この世界が、嫌い。憎い。
そればかりが、脳を支配していた。息を整えながら、そんな事を考えているうちに、隆臣は微かな音を聞いた。
衣擦れと、人の足音だ。
「誰、だ……?」
息も絶え絶えに、隆臣は問うた。視界に映る黒い布が持ち上げられ、現れた人の足が、アロの残した血溜まりを跨いだ。
「ああ、これは酷い有様だ」
年老いた男の、嗄れ声がした。酷いと言うのに、そんな感情は一切乗っていない。晴れ晴れとした声色である。声質は粘着質で、陰湿な響きをしていた。
「誰だ……」
男は答えなかった。問いかけを無視して、隆臣の傍らで膝を折る。隆臣は首を曲げて、下から覗き込んだ。全身を黒いローブで覆ったこの男に、確かな見覚えがある。
「大変なお怪我だ。しかし、死んではいない」
「お前は、誰だ? 領境の橋にもいただろ」
「この程度であれば、すぐに治りましょう。安静にしていれば」
「答えろ!」
男は、それでも答えない。そんな事は、どうでもいいという様子だった。衣擦れの音がして、ローブの中から長い棒が取り出される。棒の先には、大きな宝石があしらわれていた。隆臣をこの世界に喚んだ、あの女の杖を思い出させた。
「あまり怒鳴ると傷が広がりますぞ」
男は懐から、木製の器を取り出した。次いで、口の中で何かを呟くと、杖先の宝石が光を発する。光が宙に溶け、そこから人影が躍り出た。影は確かに人の形をしていたが、あまりに小さく人とは呼べそうにない。
光が消え、隆臣が目にしたのは、透明な翅を背中に生やした小人の姿だった。女のようにも、男のようにも見える、愛らしい容姿をしている。妖精だと、一目見て分かった。羽ばたく度に光を煌めかせ、鱗粉のようなものが宙に舞う。丸く大きな目が、隆臣を見た。
初めて見る現象に、言葉が見つからなかった。こうして自分も、この世界にやってきたのだ。そして、気がついた。やはり、この男で間違いない。
「今まで化物に俺を襲わせていたのは、お前か?」
怒りで声が震えた。男は漸く、隆臣の質問に対して反応を示した。陰湿な印象を携えたまま、微かに口角を持ち上げる。恐らくそれは、肯定であった。
「どうして、そんな事……」
この男に襲われる理由が見当たらない。初めて言葉を交わしたのだ。恨まれるような覚えもない。
「主の下へお連れするためです」
「俺はそいつに、何かしたのか……?」
「いいえ、何も」
「何も……?」
何もしていない。それなのに、この仕打ちか。再び怒りが込み上げる。脳が沸騰するようだった。飄々とした男の態度も、気に入らなかった。
「そう興奮なさらないでください。さあ、移動しますぞ」
男が合図をすると、倒れた隆臣の周囲を、妖精が一周した。下から押し上げられるような奇妙な感覚がして、次の瞬間には身体が宙に浮いていた。柔らかな空気が全身を包んでいる。それでバランスが取れているようだった。
「どこに、連れて行く気だ」
身体を動かす事ができず、隆臣はただ男を睨むしかなかった。男はまた、嘲笑を浮かべた。
「何度も同じ事をお聞きになる。主の下へお連れします」
男が歩み始めると、隆臣の身体も浮いたまま、その後に続いた。妖精が、隆臣の傍を飛び回りながら操っているのだ。
「誰、なんだ……?」
「私と、貴方の主です。お会いになれば、すぐに分かります」
何を言われているのか、もう分からなくなっていた。意識が朦朧とし始めている。聞き取る事が精一杯だった。眠りたくはなかった。疲れている。生き残ったのだ。この後、どこに連れて行かれ、どうなってしまうのか、もう、どうでもいいなどとは思えなくなっていた。
「俺は、主なんて……」
「必ずお選びになりますとも。さて、馬車を用意しています。横になって、着くまではお眠りになった方がよろしいでしょう」
進む先で、馬の嘶きが聞こえる。
まとわりつく風に、血の匂いはない。心地の良い、花の香りがした。
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