第9話
隆臣の足は、自然と一歩を踏み出していた。止めようにも、間に合うはずがない。桂真の平手が振り下ろされるのを、隆臣は複雑な心境で見守るしかなかった。
しかし、大きく広げられた小さな掌が、桂桂の頬を張る事はなかった。振り下ろされた先は、隆臣が思っていた場所を通り過ぎ、より下方へと到達する。
桂真の右手は、桂桂の胸元を突き刺していた。浅く手首まで埋まったそれが、飲み込まれるようにゆっくりと肘まで浸かっていく。桂真の腕が侵攻する度に、入り口から波紋が広がった。桂桂に痛がる様子はなく、最早抵抗もなくなっていた。ただ哀しみの表情を浮かべ、されるがままとなっている。
隆臣は声を出す事もできず、その場に立ち尽くした。桂真が喜々として腕を引き抜く。共に遊んだ時と変わらぬ無邪気さが、何よりも隆臣の恐怖を煽った。
引き抜かれた手は、大きな闇を携えて戻ってきた。隆臣には、そう見えていた。何か判然としない虚ろな暗がりが、桂真の手を覆っているのだ。やがてそれは生き物のように蠢いて、剣の形を成し、定着した。
中国剣を模しているようであった。剣身が蛇の様に波打っている。そして、隆臣の剣にも似た、不可思議な荘厳さも持ち合わせていた。
「お兄ちゃん、続きしよう?」
桂真はそれまで手にしていた短剣を放った。辺りは阿鼻叫喚として騒がしいはずだが、石畳を打つ刃の音が、隆臣の耳にはいやに大きく響いた。先行していたアロが事態に気づき、声をかけてくる。それさえも、霞みがかった様にくぐもって聞こえた。
桂真はすでに、剣を構えている。身の丈に合っているとは、とても思えない。子供が扱うには、長すぎるのだ。ともすれば、剣を振るった勢いのまま、身体が流されてしまいそうである。見た目がそうというだけで、実際それほどの重みがあるのかも分からない。闇が硬化して、剣の形をしている。質量など、分かるはずもなかった。
隆臣の裡では、まだ混乱が続いていたが、桂真は構わず打ちかかってきた。一撃の重みは、増していた。しかし、速さに変わりはない。何合か交わして、隆臣は先の打ち合いよりも深い切り傷を幾つか負う事になった。
一方で、意外にも道幅の狭さは隆臣にとって有利に働いていた。剣を横に払う事ができないため、剣筋は自然と制限される。故に、稽古を始めて日の浅い隆臣にも、次の手を予測しやすいのだ。
選択肢が少なければ、剣を抜いていなくとも、受け止めたり躱したりして猛攻に耐えられる。ただし、いつまでもそうしているわけにはいかない。隆臣が必要としているのは、現状を打破する一手である。
蛇が獲物を捕らえるような軌跡で、桂真の操る刃が飛び上がる。腹部を狙った突きを、隆臣は身を捻る事で漸く躱した。そのまま斜めに切り上げられたのを、今度は鞘で受け止め、押し返す。桂真が、再び身を低くして構えた。
「もうやめよう、桂真。その剣、嫌いなんじゃないの? 俺の剣が嫌いなのは、その剣が嫌いだからなんだろ?」
「嫌いだよ。僕と桂桂をめちゃくちゃにした剣だもん。でも、やめない」
「どうして? 嫌いなものに縋ってまで、人を傷つけなくちゃならない理由ってなんだよ!」
「そんなの決まってる。生きていく為だ!」
躊躇いのない桂真の返答は、剣のように鋭く、隆臣の心を抉った。受けた衝撃が、動きを鈍らせる。
桂真には、それさえも不服なようであった。剣を引き、隆臣を睨みつける。
「お兄ちゃんのいた世界は、すごく平和だったんだよね。故郷のお話は面白かったし、いつも楽しかったけど、お兄ちゃんのそういうお気楽なところ、すごく嫌だ」
桂真の目は、真っ直ぐに隆臣を捕らえていた。焦燥を含んだ笑みで、幼い顔が歪んでいる。
隆臣は視線を逸らす事ができなかった。子供とは思えぬ複雑な表情と、剣撃より遥かに重い拒絶の言葉が、隆臣の心身を麻痺させるのだ。
「そこまでしなくてもって思ってるなら、それはお兄ちゃんの勝手な思い込みだよ。僕たちには、他になかった。どうしようもなかったんだよ」
「どうしようもなくたって、やっていい事と悪い事があるだろ?」
「それが勝手だって言ってるのに……。この状況も、お兄ちゃんはまだ、いつもみたいになんとかなるって思ってるんでしょ?」
「そんな事……」
思っていないと、断言する事はできなかった。
「あるよ。だから剣を抜かないんだ。抜けばすぐに終わるのに、まだなんとかなるって思ってるから!」
桂真の語気が、荒くなった。話しているうち、再び頭に血が昇ったのだろう。顔を紅潮させ、怒りに任せた強襲を再開する。
重さと速さは、更に増した。受ければ手が痺れ、避けても鋒が肌を掠める。桂真の激昂に晒されながら、それでも尚、隆臣は剣を抜かなかった。
それは、確固たる意思ではない。桂真の指摘する隆臣の心情は、本来のそれから僅かに逸れていた。抜かないのではない、抜く気にならないのだ。桂真が熱くなればなるほど、自分の感情が冷めていくのを感じる。
なんとかなる、ではない。どうでもいい、のだ。楽観ではなく、これは、無関心だ。
世の中の事、他人の事、あるいは自分の事でさえも、どうでもよかったのかもしれない。全てが、遠いのだ。凡ゆる現象は厚い膜を通したように現実味がなく、他人事にしか思えなかった。
ゼクスアルシュでも、それは変わらない。全てが曖昧で、生と死も物語の中の出来事だと割り切ってしまえばよい。訪れる全てを、穏やかに享受しよう。波風を立てず従う事で、何れこの世界にも馴染めるだろう。何があっても笑っていられる。冷静でいられる。それが一番、賢い生き方のはずだ。
完全に沈静した思考によって、隆臣はその場を持ち直す事ができた。追い詰められた事による焦りから解放され、常と変わらぬ状態にまで心が凪いでいる。冷静さが視界を広げた。よく、見える。
横道に隠れたアロが、固唾を飲んで見守っている。桂真の向こうで、桂桂が同じ表情をしていた。異種族の、全く似通ったところのない顔だが、それでも同じ感情がそこにはある。
視界の隅に見えるアロの姿が、暗い影に覆われた。上方を確認して、隆臣は叫ぶ。
「アロ、上だ! 逃げて!」
蛇頭の魔獣が、建物の上からアロを狙って身を乗り出していた。
外した視線の外で、剣の閃く音が聞こえる。
アロが頭上を見上げた。魔獣と、視線が絡む。
獅子の身体が、建物の隙間に滑り込んだ。
隆臣は、剣を抜いた。魔獣へ向けて、剣を突き上げるつもりだった。剣は、隆臣の思い通りにはならなかった。
甲高い金属音が響く。
隆臣に支えられた剣は、腹部を狙って突き出された桂真の蛇剣を弾き返していた。剣が標的としたのは、魔獣ではなく桂真であった。肉を断つ感触が刃を通して伝わる。隆臣は遂に、人を斬った。
アロへと降り掛かる火の粉を前に、咄嗟の判断で剣を抜いた。反射に近い状態だったのかもしれない。それまで案じていた事の全てを、失念していた。そして、危惧していた通りの現実が訪れた。
徐々に色を失っていく世界の中で、桂真の身体が静かに頽れる。蛇剣は遠くに投げ出されていた。隆臣が弾き返した時、手元から放れてしまったのだ。
桂桂が泣き叫びながら、仰向けに倒れた桂真に駆け寄っていた。痙攣する兄の身体を、優しく抱き起こす。隆臣は、ただそれを凝視する事しかできなかった。視界が霞む。目眩と吐き気が、同時に隆臣を襲った。
隆臣にはもう一つ、確認したくない現実があった。視界の中に舞い散る、柔らかな浮遊物。聴覚にまとわりつく不快な水音と、硬い何かが砕かれる音。鼻をつく獣の臭いと、鉄の臭い。それらの正体が、何なのか。
恐怖と不安と悔恨で、隆臣の心臓は早鐘を打つ。目を伏せた。外界から与えられるもの、その全てを拒絶したかった。
抜き身の剣を鞘に戻す。見たくないものを視界に入れないように、隆臣は素早く踵を返した。後は、足が勝手に動いた。一刻も早く、この場を離れたい。それだけだった。
「お兄ちゃん、どこに行くの?」
震える声が、隆臣を呼び止める。振り向いた隆臣へと、桂桂の小さな身体がぶつかる。幼い手には、桂真の蛇剣が握られていた。
避け損ねた。剣は抜き身でなければ、隆臣の身体を守らない。左足の太腿、足の付け根に近い部分が痛む。鮮血が麻のズボンに染みて、身体を侵食するようであった。
「見捨てるの? 桂真も、アロお兄ちゃんも、おいていくの?」
顔を上げた桂桂の目に、憎悪が宿っている。隆臣が最も避けてきた感情であった。その視線に耐え切れなくなって、桂桂の肩を強く押す。幼女を引き剥がすのは、容易かった。それでも、隆臣を睨み続けている。剣を取り落としたりもしなかった。
「見捨てるって……。だってもう、どうしようもない」
「どうしようもなくしたのは、お兄ちゃんだよ」
桂桂が、再び立ち上がった。突進する身体を受け止める。太腿の傷が邪魔をして、避ける事はできなかった。
衝撃が、傷口を刺激した。目眩がする。失血のせいかもしれない。
先程よりも強く、桂桂を突き飛ばした。地面に強く尻を打ったらしい。アロのいた、横道の前だった。
横道から物音がして、桂桂がそちらを見る。恐怖に顔が引き吊って、すぐにそれが見えなくなった。アロを襲った魔獣の身体が、隆臣の視界から桂桂を隠したのだ。
再び、剣を抜いた。隆臣を襲う者は、何一つない。今度こそ、己の意思で振り下ろした。鋭く此方を威嚇する刺の数本を落として、剣は獣の背中を深く切り裂く。鬣を揺らして、身体は前のめりに倒れた。桂桂の身体が、その下敷きになった。
「お兄ちゃん……」
複雑な、声色だった。たった一人の大切な家族を斬られた事、己の命を救われた事、どちらも変わらぬ事実であった。
隆臣は、返事をしなかった。
道の先から、次の獣が姿を見せた。背後にも、石畳を擦る爪の音がする。屋根の上や横道の先にも、気配を感じた。囲まれている。この獣の群れは、やはり隆臣を追ってきたのだ。
剣を振って、血脂を落とす。小道を縁取る石の壁に、紅い雫が飛んだ。
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