第8話
裏口は表と打って変わって簡素な造りで、人通りの少ない路地裏に面している。従業員はたった一人、硬そうな丸椅子に腰掛けた門番がいるだけだ。運良く隆臣たちの他に出入りする者はなく、誰に見咎められる事もなく店の外へ出られそうである。実際、裏口へ近づいても、門番は隆臣とアロのそれぞれを一瞥するだけで、すぐに興味を失くしたようであった。
「出かけるのか?」
そう広くはない裏口を二人揃って潜り、いよいよ路地裏を駆け抜けようとしたところで、後ろから声をかけられた。よく知った男の声である。
「ちょっと街を見てこようかと思って」
隆臣は極力自然に、普段と変わらぬ笑顔を作る事に努めながら、ゆっくりと振り返った。その先で、訝しげな表情をした沈刹が、こちらを凝視している。腰には、剣を刷いていた。
「袁淑は許したのか?」
「あの人の部下でもないのに、なんで許可なんか取らなきゃいけないんだよ」
アロが答えた。この返答はまずいと、隆臣は思った。思ったところで、最早どうしようもない状況である。
「袁淑は知らないんだな」
「だから、なんだって言うんだ」
アロの毛が逆立ち、鋭い嘴は威嚇するように開いた。
「分かってねえな。お前らは役人に追われてるんだ。こんなところで捕まってみろ。下手したら俺たちまで罪人だ。勝手されちゃ困るんだよ」
「袖の下でどうにでもなるって、袁淑さんは言ってたけど」
隆臣が扉の前で盗み聞いた袁淑の言葉を借りると、沈刹は苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちした。如何にも袁淑が言いそうな事だったのだ。
「屁理屈言ってないで、早く中へ戻れ」
沈刹の利き手は、先程からずっと剣の柄に置かれている。隆臣はそれを確認して、少しの間だけ迷った。
自分一人であれば、逃げ果せる事ができそうな気がした。隆臣のベルトに挟まれている剣さえあれば、どうにでもなる。しかし、今はアロが一緒だった。逃げ切る自信がないわけではない。守り切れるかが問題であった。剣は隆臣を守るために、隆臣の身体を使っている。思い通りに動くわけではない。隆臣の守りたいものまで、守ってはくれないのである。
沈刹の手が、剣を握り締めた。
隆臣はアロを背に庇いながら、同じように剣の柄に手を添える。いつもの滑らかな革の感触ではない。感じるのは、不快な湿り気である。それは当然、剣から発生したものではなく、隆臣の掌から溢れ出る汗であった。真剣で人と対峙するのは、初めてだった。
「二人とも、部屋に戻れ」
躙り寄る沈刹の手元から、僅かな金属音が漏れる。鍔と鞘が離れる音であった。
沈刹が前進する分だけ、隆臣とアロも後退した。背後に通りの喧騒が近づくにつれ、逸る気持ちを抑えながら、隆臣は沈刹を睨みつけた。敵から目を離すな、そう自分に教えたのは、目の前の男である。
「表に出たら、人混みに紛れてメインストリートまで走ろう」
背後からほんの小さな声で提案するアロに、ただ頷くだけの返事をする。沈刹には、聞こえていないだろう。
「角まで来たら、兄ちゃんの服の裾を二回引くよ。そのタイミングで走り出そう」
辛抱強く待った。あと何歩退けばよいのか、アロはいつになったら合図をくれるのか、沈刹の気を逸らすような事が起きないか、様々な事を考えた。酷く長い間、そうしていたような気がしたが、時間にすれば、それは一瞬に過ぎなかった。
思考が深いところへ落ちるより先に、沈刹以外のものが視界の中で激しく動いたのである。最初は、沈刹の肩越しに、店の表通りで赤い花弁が舞うのを見た。視界の端を埋める娼館のパステルブルーと相俟って、その赤は禍々しく色鮮やかに隆臣の視線を奪った。
沈刹から意識を逸らしてしまった事への後悔を感じながら、隆臣はそれらが花弁ではなく、飛沫である事に気づいていた。沈刹の一挙手一投足を捉えるために総動員されていた五感は、その対象を切り替えていく。鼻は鉄の臭いを嗅ぎ、耳は悲痛な叫びを聞き、目は逃げ惑う人々を見た。
視界の隅で、好機と見て笑う沈刹が、間合を詰めようと身を低くしている。おかげで隆臣の目は、明確に事態を把握する事ができた。
路地裏の細い入口の先で、獣の群れが踊っている。隆臣はゼクスアルシュに来て、何度となく奇妙な生物に出会ったが、中でも今回が最も獰猛で邪悪だった。軽快に地を蹴り人に伸し掛る獣の身体は、獅子のように長い鬣に覆われ、背中には鋭い棘が一列に並んでいる。しかし、その身体から伸びる頭と尾は、決して獅子のものではない。滑らかに輝く鱗に覆われた蛇のそれである。
逃げ惑う人々を追い立てる魔獣の一頭が、路地裏の入り口で立ち止まった。鎌首を擡げて、蛇の瞳が隆臣を睨む。
「走れ、アロ!」
隆臣は叫ぶと同時に、踵を返す。もう沈刹と睨み合っている場合ではない。唖然とするアロの肩を掴み、無理矢理に反転させれば、小さな背中は弾かれたように駆け始めた。隆臣もその後に続いて走り出す。
「待て!」
沈刹の怒声が二人の背中を追ってきたが、構ってはいられなかった。
街は混乱を極めていた。人々が怒声や悲鳴を上げながら、訳も分からないまま逃げ惑う。魔獣はその間を縦横無尽に駆け回り、付近の者を襲っては無数の血溜りを作った。
思わず足を止めた隆臣の目の前で、獰猛な魔獣が若い女を引き倒し、爪を立て、牙を剥く。ものの数秒の間に、臓物が引きずり出され、女は肉塊へと変わった。
「兄ちゃん、早く!」
アロが立ち止まった隆臣の腕を引く。目の前の死を嘆く暇もなかった。
「足抜けだ! 捕まえろ!」
背後で沈刹が怒鳴っている。旅の間、隆臣やアロが接してきた男とは、まるで別人のようだった。
アロに手を引かれながら、隆臣は地面に横たわる人や、それに群がる魔獣を尻目に、只管走った。長旅で磨り減った薄い靴底が血溜りを蹴り付ける度、足の重さが増していく。避けようにも、先を行くアロが構わず走るので、隆臣もそれに続くしかなかった。
道沿いの娼館から飛び出てきた娼婦が、後を追って現れた魔獣に襲われ、二人の行く手を遮る。ほとんど反射とも思える早さで、アロが進路を変えた。ちょうど手前にあった小路に飛び込む。剣を振るうのもやっとな、狭い道である。入った瞬間、失策を悟ったのだろう。アロの足が、更に早まった。
いつの間にか、追いかけてきていたはずの沈刹の声は聞こえなくなっている。撒いたのだろうか。あるいはと別の可能性を考えて、隆臣はその思考を止めた。裏切られたとはいえ、数週間を共に過ごした相手の不幸を想像するのは、決して気分のいいものではなかったのだ。
今はただ駆けるしかない。幾つかの更に細い道が、二人の走る小路を横断していたが、それには目もくれなかった。隆臣の手を引くアロが、地を蹴っては軽く浮き、蹴っては浮きを繰り返す。走るというより、滑空に近い。
あと少しで次の大通りに出るというところで、アロが突然足を止めた。建物の隙間に作られた細道の一つから、子どもの声が聞こえたのだ。その声は、隆臣の耳にも届いていた。幼子独特の高く柔らかな二重奏が、徐々に近づいている。
気づいた時には既に遅く、よく知った二人の子が、建物の角から揃って顔を覗かせていた。
「お兄ちゃんたち、見いつけた!」
「戻ろう? ここは危ないから」
兄妹は出会った頃と変わらぬ様子で、楽しげに笑っている。これまで何度となく、その無邪気な表情に癒されてきたはずだったが、この時、隆臣の心は酷く波立っていた。場にそぐわない笑顔が、異様さを以て隆臣を気圧しているのだ。
「二人とも、こんなところで何してるんだよ」
「お兄ちゃんたちを連れ戻してこいって、袁淑が」
アロの問いかけに応じながら、桂兄妹は小路へと躍り出た。小さな身体が軽やかに遊ぶ様は、この上なく楽しげであるのに、反面その異様さは弥増した。若草色の愛らしい着物が、二人揃って赤黒く染まっているのだ。
それが彼らの血でない事は、明白であった。不釣り合いな血塗れの短剣が、その幼い手に収まっている。
「剣を使えたんだね」
驚きのあまり、隆臣の口を衝いて出たのは、間の抜けた感想だった。
「自分を守れるのは、自分だけなんだって」
「それも袁淑さんが言ったの?」
「そうだよ。そんな事より早く戻ろう。今ならまだ、許してもらえるよ!」
屈託なく笑った顔はそのままに、桂真が踏み出すと、その分だけアロも後退した。隆臣もアロを支えながら、兄妹と距離を取る。それは、明確な拒絶であった。
桂真はその真意を理解する事ができなかったらしい。駆け寄ろうとした足を止め、小首を傾げている。一方で、傍らに立つ桂桂は苦悶の表情を浮かべた。
隆臣は沈刹と対峙したときと同様、アロを背後に庇った。何も考えてはいなかった。その動作は、既に隆臣にとって自然な行いになっている。
前に出たからといって、隆臣にできる事は殆どなかった。よく懐いてくれた目の前の幼い子どもたちに、剣を向ける事などできない。それが、この二人を追っ手に選んだ袁淑の思惑通りであったとしても、隆臣にその勇気はなかった。胃の腑を焼くような嫌悪感が、再び込み上げてくるのが分かった。
「俺たち、袁淑さんに許してもらわなきゃいけないような事は、一つもしてないよ」
隆臣は沈刹にも投げた言葉を、再度使った。分かってもらえるとは、思っていなかった。桂真はどこか袁淑に心酔しているところがあるし、桂桂は先程から困惑した表情で、隆臣たちと兄を見比べるばかりである。案の定、桂真の表情には怒りの色が浮かんだ。
「袁淑に守ってもらってここまで来たのに、勝手な事してる」
「連れてきてもらった事には、感謝してる」
しかし、ただ守られていたわけでもない。魔獣や野党の襲撃を、何度も退けてきたのは隆臣である。
「じゃあ、戻ろうよ!」
「それは、できない」
「どうして? これ以上、袁淑を怒らせないで! 捨てられちゃうよ」
この言葉が、決め手であった。隆臣の後ろで大人しく成り行きを見守っていたアロが、堪えきれずに叫んだ。
「俺たちは袁淑に拾われたなんて、思ってない!」
怒りに震える嘴が、硬質な音を立てる。アロは桂真を睨んだまま、目を逸らさなかった。
「分かったよ、お兄ちゃんたち。そういう事言うなら、無理矢理連れてく。それでもいいって、袁淑も言ってたから」
小さな身体が一つ、バネのように跳ね上がった。力を抜いて、ぶら下がるだけであった短剣が、意思を持って振り上げられる。
隆臣は咄嗟にベルトから鞘ごと引き抜いた剣で、それを受け止めた。剣を抜く事は、しなかった。抜けば自分の意思に反して、桂真を傷つけてしまう。それを恐れた。
桂真の剣戟は、素早かった。子供故に重さに欠ける一撃を、手数で補おうというのだろう。避けられなかった切先が、何度か隆臣の肌を掠め、赤い線を描いた。
「手伝ってよ!」
十数合交えたところで、桂真が唐突に叫んだ。後ろに控えて見守っているだけの妹に、痺れを切らしたのだ。
「やだ……」
蚊の鳴くような呟きであった。襲い来る短剣へと全神経を集中させていた隆臣は、明確に聞き取る事ができなかったが、目前に迫る桂真の表情が変わった事で、その答えを悟った。
桂真は一度打ち合いを止めると、憤りを更に増長させた様子で、桂桂に詰め寄った。
「なんで、やなの!」
「お兄ちゃんと、戦いたくない……!」
今度は隆臣にも、その背後に立つアロにも届く声で、桂桂は叫んだ。涙ぐんで震える声が、痛いほどに胸を締め付ける。
同時に、隆臣は胸を撫で下ろした。桂桂の力量は定かではないが、桂真一人にさえ手を焼いている状態である。この上、二人がかりで打ちかかられては、剣を抜くより他に、アロを守る方法はない。自分の命さえ危ういかもしれない。
一方で、返事を受けた当の本人は、それを気に入るはずもなかった。
「わがまま言わないでよ!」
「わがままじゃないもん!」
「何がいやなの!」
「いやなものは、いやなの!」
ついには口喧嘩が始まった。仲の良い桂兄妹には、珍しい事である。旅の最中、隆臣は一度として彼らの喧嘩を見た事はなかった。
その火種が自分たちである事を心苦しく思いながらも、隆臣は今が好機と、アロを更に後ろへ退がらせた。横道へ逸れ、隣の路地から迂回して表通りを目指す。道は狭く、擦れ違う事も容易ではない。今、隆臣たちが対峙している小路でさえ、剣を振るうのもやっとの幅である。更に狭まった横道では、とても振り回せないだろうが、そこはそれ、剣自身がどうにでもしてくれよう。
できる事なら、桂真との衝突は避けたかった。桂桂には悪いが、このまま喧嘩を続けていて欲しいとさえ思う。幼い二人を放置していく事に、罪悪感がないわけではない。魔獣の跋扈する街である。下手をすれば、ただの迷子ではすまないだろう。
それでも、隆臣自身が剣を交えるより、余程よかった。手加減ができるほどの技量は持ち合わせてはいないし、剣は隆臣の意思を映しはしない。襲い来る桂真の身体を、容赦なく切り捨てるに違いない。考えただけでも、悍ましかった。重責に、耐えられる気がしない。
最も近くにあった横道の入口まで来た。桂兄妹は未だ、口喧嘩を続けている。一瞬だけ彼らから目を離し、横道の様子を確認した。異常はない。
アロを先行させた。次の路地まで、障害は何もない。隆臣は桂兄弟へと視線を戻した。桂真が、桂桂の肩を掴んでいる。
「やだ! 放して、桂真!」
桂桂が叫びながら、激しく身体を揺する。少々過剰とも思える抵抗の仕方である。
桂真の右手が、振り上げられた。
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