第7話

 隆臣とアロ、そして行商の一行は、ついに彼らにとって分岐点となる街ペオーニエに到着していた。太陽が中天を僅かに過ぎた頃である。

 隆臣とアロは、ここから南西に延びる街道を行き、ジッリョ領を目指す。一方で袁淑らは南を目指して別の街道を行く。つまり行商らとはここで別れるのだが、到着したその日は袁淑の知人の店で、共に宿をとる事となった。

 ペオーニエはリーリエ領において、領城のあるクリュザンテーメの次に大きな街である。アンファベール全体で見ると、丁度国の中心に位置し、多くの街道が交差する国内流通の重要な拠点でもあった。玉座が空となっても、その機能を失う事なく、今も尚十分な役割を果たしている。

 それというのも、街の運営は国内最大の商業ギルド「双蛇の翼杖」に依るところが大きいからである。役人の仕事といえば、国とギルドの橋渡し程度のもので、街における重要な取決は豪商たちの寄り合いによって成されている。リーリエ領内の街の一つという体裁を取ってはいるが、ペオーニエにおける自治権はほぼ双蛇の翼杖にあるため、ほとんど自由都市と言ってもよいだろう。

 街は柔らかなパステルカラーで彩られ、三角屋根の木枠の家々が隙間なく街路を切り取っている。これまでの村には二階建て以上の建物は皆無であったのに、この街にはむしろ高層建築物が多い。どの建物も、一階は商店か飲食店であった。

 店内は多くの客で溢れ、従業員が忙しなく動き回っている。入りきらない客が、店の前に行列を作ったり、窓越しに商品を物色したり、もしくは近くの露天で用を済ませたりしていた。人の往来は激しく、大通りには様々な形の馬車がすれ違う。この街には、これまで通過してきたどの街よりも活気があった。

 街の中心には、壁面に豪奢な彫刻を施した塔が幾基も連なっていた。隆臣が外壁の外から見た塔は、これである。あまりに密集して建てられているため、一つの太い塔のように見えたのだ。城のような佇まいだが、隆臣が想像していたほど人の出入りに制限はなく、警備も手薄に見える。その理由を問うと、沈刹は首を横に振った。

「ありゃ貴族様のお城じゃねえのさ。お役所兼、双蛇の翼杖の支部だな。最も、メインは後者だろうが」

「そっか。それで一般の人も出入りしてるのか。随分立派に造られてるね」

「まったくだ。これで支部だっていうんだから、アスナセスにある本部はどんな造りをしてるんだか」

 沈刹の言には、皮肉めいた響きがあった。竹を割ったような性格の男だが、反して高位者に対する発言には、そういうものを含ませる。隆臣もその事に気づいてはいたが、あえて触れないようにした。深い根を、わざわざ掘り返す気にはならなかったのだ。

 早く行こうと急かす沈刹に従って、隆臣は大通りから路地裏へと続く道に入った。路地裏を突っ切って五つ目の通り沿いは、大通りとは異なる騒々しさでもって隆臣を迎えた。

 パステルカラーの風景はそのままに、通りの雰囲気は大きく変わった。一階はどこも小料理屋か酒場で、時刻は昼を過ぎたところだというのに、通りには赤ら顔の男たちが彷徨いている。誰かとすれ違う度に噎せ返るほどの酒気が、強烈に嗅覚を刺激した。この通り沿いの店に、袁淑の知己がいるという。

 酔っ払いのうちの一人が、上方に気を取られていて、隆臣とぶつかった。酔った男は大声で謝ると、千鳥足で去っていく。男の見ていた建物に視線をやると、美しく着飾った女たちが窓から顔を覗かせていた。露出度の高いドレスから、白く艶かしい首筋を曝け出し、それぞれ大きな宝石をあしらった装飾品で彩っている。

 そのうちの一人と、目が合った。女が身を乗り出して、嬉しそうに手を振るので、隆臣も笑顔で返してやる。それを見ていた沈刹が意外だと言って笑った。

「慣れてるな。人と打ち解けるのが早いのは知ってたが、こういう場所は駄目なのかと思ってた」

「そう見える?」

「そういう顔に見える」

「俺も成人した男の子だからね?」

「成人した男を、男の子とは言わねえだろ」

「ねえ、沈刹さん、ここって所謂歓楽街ってやつでしょ?」

「そうだな。豪商も出入りする高級店ばかりだから、俺みたいのが世話になる事はねえが」

「こんなところに子供を連れてくるのは、気が引けるよ」

 隆臣の歩く前では、大通りで遊ぶ子供と変わらない様子で、アロと桂兄弟が転げまわっている。先頭で荷馬車を操る袁淑が、時折振り返っては子供たちを叱った。

「引くだけ無駄だ。見ろよ、本人たちは気にしちゃいねえ」

「教育上よろしくないと思う」

「そのうち知る事にはなるんだ。早いか遅いか、それだけの話だろうが」

「それも、そうか……」

 隆臣は納得できないまま、しかし反論する事もできないままでいた。やはりこれも当然だと思っていた倫理観なので、いざ言葉にしようと思うと、上手く説明ができないのである。

 袁淑が荷馬車を停めたのは、やはり娼館の前であった。パステルブルーの壁が美しく、通りの中でも比較的立派な様子である。出迎えの男と二三言交わすと、袁淑は荷馬車を部下に預けて、店内へと入っていった。男が促すので、隆臣たちもそれに続いた。

 豪奢な内装のホールでは、何組もの男女が寄り添って談笑している。吹き抜けの天井から吊るされた大きなシャンデリアが、女たちの珠の肌を輝かせた。

 各階からホールを見下ろす女は、客待ちをしているのだろう。隆臣たちに向け手を振ったり、上品に会釈をしたりして誘惑する。自分たちは客ではないのだがと、選ばれる努力を惜しまない彼女たちに後ろめたさを感じつつ、隆臣はやはり微笑して手を振り返すしかなかった。

「やあ、よくいらっしゃいましたな、行商の皆様」

 大きく両手を広げ、螺旋階段を下りてきたのは、いかにも羽振りの良さそうな中年の男であった。縦にも横にも大柄だが、白い肌と温和な顔立ちのおかげで威圧感はない。代わりに、彼が身に纏う光沢の見事なローブや、大きな石の指輪が物を言うようである。彼こそが、この娼館の主であり、袁淑の知己であった。

 店主は袁淑を始めとする行商らの一人一人と言葉を交わし、隆臣やアロにも丁寧な挨拶をした。

「大変な旅でございましたな」

「あの、本当にいいんですか、俺たちまでお世話になってしまって……」

「いや、お気になさらず。袁淑とは旧い仲でしてな。貴方には、大変世話になったと伺っております。友人の恩人は、私の恩人でもある。下品な店ではございますが、ごゆるりとなさってくだされ」

「ありがとうございます。それじゃあ、遠慮なくお世話になりますね」

「お若いのに、しっかりしておいでだ。よろしい事です。お付きの鳥人にも、よく懐かれておられますな」

 店主が視線を向けた先には、アロが隆臣の影に隠れるようにしていた。話題に上がったアロの方は、その視線から更に逃れようと、隆臣の衣の裾を顔に引っ掛けている。袁淑の時もそうであったが、普段は物怖じせず人見知りもしないアロが、一定の人物にのみ、このような反応を示すのである。

「すみません。たまに人見知りするんです」

「怖がらせてしまいましたかな。無駄に身体が大きいせいか、動物や子供にはあまり好いてもらえぬのです。さあ、お二人共、疲れておいででしょう。旅の支度は我らに任せ、本日は身体をお休めください」

 店主が用意した部屋は、これまでに泊まったどこよりも豪奢であった。ベッドは木の台や藁の上にシーツを敷いただけのものではなく、隆臣の知る柔らかな布団の敷かれたものである。部屋は一つだが、トイレ付きでシャワールームや浴室まで完備されている。いかにも寝るだけの部屋ではあるが、装飾については惜しみなく、隆臣にはテーマの見当も付かない芸術品が飾られ、優美な細工が施されたガラス製の花瓶には、色鮮やかな大輪の花が活けられていた。

 隆臣は早速寝心地の良さそうなベッドに倒れ込んだが、アロは窓の近くを右往左往して落ち着かない。隆臣が見兼ねて声をかけると、漸くその足を止めた。

「やっぱり、こういう場所は苦手?」

「そうじゃないよ。何か思う事があるとしたら、人間って年中発情期で大変だなって、その程度」

 あっけらかんとしたアロの感想を受けて、隆臣は少々複雑な気持ちになった。隆臣自身が特別そういう事に溺れた経験はないのだが、アロに言われるとなんとなく罪悪感を覚えてしまうのである。

「やっぱり他の宿をとろうよ」

「どうして? せっかくいい部屋を用意してもらったのに」

「……俺、袁淑が嫌いだ」

 結局、アロは最後まで袁淑に懐かなかった。隆臣は、その理由を聞かないでいた。単純に馬が合わないのだろうと、特別気にはしていなかったのである。

「ここの店主も、嫌いだ。信用できない」

 隆臣には、アロが興奮しているように見えた。アロは袁淑を好きになれないまま、それでも旅が楽になるからと我慢していたのだ。それを分かっていて、隆臣は甘えていた。そして、もう一晩だけ辛抱して欲しいとも思っていた。

「じゃあ、こうしよう。アロは今から桂桂たちの部屋に行く。俺は荷物の中から剣をとってきて、アロを迎えに行く。そうすれば、今晩何かあっても、俺はアロを守れるでしょ」

「桂桂たちのとこなら、安全だと思う?」

「あの二人の前で、悪い事はできないよ」

「荷物と一緒に、兄ちゃんの剣も運び入れられちゃってるかも」

「それなら、どこに運び込まれたのか、適当な人に聞くよ。もしかしたら、皆のいる部屋かも。そしたら、アロが預かっておいてよ。とにかく、なんとかなるって!」

 隆臣が大丈夫だと笑うと、アロはその幼い顔を険のある笑顔に変えた。少年が初めて見せる、大人びた表情は、酷く似合わないものであった。隆臣は胸の詰まる感覚がして、息を飲んだ。

 そのままアロは渋々といった様子で、部屋を出て行った。隆臣も間を置かず、念のため持ち歩いていた荷物だけを身につけて、荷馬車へと向かった。アロからもらった胸の苦しみは、薄らと残ったままである。

 荷馬車はすぐに見つかった。ロビーに戻って、従業員に聞いたのだ。しかし、荷車には既になんの荷物もなかった。アロの言った通り、隆臣の剣も他の積荷と共に運ばれてしまったらしい。

 隆臣はロビーに取って返し、行商たちが宛てがわれた部屋を目指した。場所が分からないので、やはり従業員に尋ねたのだが、今回は何故か渋い顔をされる。ボーイ、娼婦、構う事なく五人ほどに聞いて、漸く聞き出す事ができた。どうやら、一行は隆臣たちの部屋より、さらに奥へと案内されたらしい。隆臣に部屋の番号を教えた娼婦からは、極力静かに向かうよう忠告された。娼婦は人気が高いほど、店の奥にある豪奢な部屋を与えられ、客も豪商や役人が多い。粗相をすれば、つまみ出されてしまうというのだ。

 大理石の廊下を奥へと進むと、確かに壁面を飾る絵画や部屋の扉に施された彫刻は、徐々に豪華さを増していく。娼婦に教えられた道順に従って最後の角を曲がると、突き当たりにステンドグラスの扉が現れた。

 目指す行商たちの部屋は、その扉を入ってすぐの所にあるのだが、隆臣はそれより随分手前で足を止めた。右手の扉が、開いている。細く開いた扉の隙間から話し声が漏れ聞こえ、それはどうやら袁淑と店主の声のようなのだ。

「鳥人とヒジンとは、珍しいのを連れてきたな」

 それを発した声は確かに店主のものであるのに、ロビーで会話をした時とは別人のような口調であった。

「そうでしょう。その上、鳥人は幼く、ヒジンも若い盛り」

 隆臣は息を潜めた。どうした事か、返した袁淑の声音からも、普段の温かみは伺えない。立ち聞きなどしたくはないが、鳥人、ヒジンというのは、間違いなくアロと隆臣の事であろう。他ならぬ自分たちの話であれば、気になってしまうのは当然の事と開き直るしかなかった。

「大変な珍品ではあるが、説得できるのか?」

「難しくはありません。彼らが求めるのは安定した生活でございます。ここで働けば、わざわざジッリョへ行かずとも、それが叶うと約束してやるのです」

「確かに、安定した生活にはなろうな。しかし、その程度で説得されてくれるであろうか?」

「ヒジンは、弁に自信を持っております。他人をはぐらかすのが妙に上手い。その癖、平和な場所で育ってきたらしく、自分が騙される事には慣れておらぬのです」

 どうにも言葉に不穏なものが混じっている。もっとよく聞こうと、隆臣は壁に寄って耳をそばだてた。

「扱いやすそうではあるな。しかし、ビラーの役人に追われておるのだろう? いずれはリーリエにも手配書が出よう」

「さて、私どもと旅をしている間、役人が追ってくる様子はとんとございませんでしたが。むしろ魔獣に悩まされる事の方が、多くございました。本当に追われているのだとしても、その程度の事、袖の下でどうにでもなさいませ。今後の利に比べれば、瑣末な額でございましょう」

「それは、私の育て方次第だが、確かにそれだけの素材ではある。鳥人を置く店など、ここらにはないし、そういう趣向の客は皆、うちを贔屓にしてくれよう。若い男の方は器量も悪くないし、愛想も良い。男女問わず客を取らせるとしよう」

 隆臣は身身体を震わせる。悲憤によって、全身の皮膚が痺れた。その内側は酷く熱い。肺腑が縮むような感覚がして、自分が恐怖している事に気づかされた。それを自覚した次の瞬間には、後悔の波に襲われた。

 これで二度目だ。袁淑は、隆臣とアロを売ろうとしている。なんと薄情な事だろう。この世界の人間は、こぞって自分たちを突き放す。アロは、なんと言った? 何故、忠告を聞かなかった。少年は、最初からこうなる事が分かっていたのだ。子供でありながら、隆臣などより、余程世間を知っている。

「それで、仕込むにしても鳥人の子供はともかく、ヒジンの方は剣を使うようだが、大丈夫なのであろうな?」

「取り上げてしまえばよいのです。最も質素な部屋を与え、武器になるような物は一切置かなければ、抵抗のしようもありません。人気が出る頃には、もう逃げる事など考えないでしょうよ」

 堪ったものではない。剣を取り上げられては、隆臣には本当にどうする事もできなくなってしまう。隆臣は息を殺したまま、壁から身を離した。

 一刻も早く、アロと合流しなければならなかった。ステンドグラスの扉を開き、物音を立てぬよう慎重に閉じた。

 身を翻すと、ちょうど近くの扉が開いて、アロが出てきた。その脇に、隆臣の剣が抱えている。それを確認して、隆臣は胸を撫で下ろした。アロも隆臣がいるのに気がついて、足早に近づいてくる。

「兄ちゃん、やっぱり桂桂たちのところにあったよ」

「良かった。素直に返してもらえたんだね」

 アロは首を傾げた。別れた時、隆臣はそんな懸念など少しも抱いていない様子だったのだ。

「何かあったの?」

「うん、俺、アロに謝らなきゃ。全部、歩きながら説明するよ。とにかく早くここから出よう」

 隆臣とアロは、店の裏口を目指した。袁淑と店主のいる部屋を避けるためである。裏口への道はアロが知っていた。アロが行商の部屋を訪れた時、ちょうど裏口から積荷を運び込む最中だったのだ。

 道すがら、隆臣は事の次第を説明した。アロは特別怒る事も悲しむ事もしなかった。ただ静かに頷くだけである。今こうして逃げる羽目になっているのは大半が隆臣の所為であり、逃げる事ができているのはアロ自身の功であるが、それを責める事も驕る事もない。アロがとにかく急ごうと言うので、隆臣は何となく謝る機会を失くしてしまった。

 足早に廊下を過ぎるうち、何度も他の二人組と擦れ違った。客とそれを案内する従業員である。客は女が多く、時には男もいる。女は皆、貴族風のドレスを着込み、帽子を目深に被って、更には濃色のベールで顔を隠していた。一方で、男の客は表と変わらず堂々とした様子である。

 客を連れて歩く従業員は、少年から青年ばかりに見えた。表で働く男たちと同じ制服を着ているが、どこか身体の輪郭が明確であったり、いやにシャツが肌蹴ていたりして、しどけない様子でいる。彼らの身分は明らかであった。

 それと分かった瞬間に、部屋の前で感じた嫌悪が、再度隆臣の裡に蘇った。訝しげに投げられる視線を振り払い、隆臣とアロは裏口から店を後にした。

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